7. 満天の星空
耳元で、騒がしい機械の音がする。なんだか頭の中が掻き回される様で気分が悪い。なんとかして、その機械の音を止めようとももがいてみるけれど、体が思うように動かない。眠りから目覚める前の体は、いつも鉛のように重いのだ。
それでも何とか布団を撥ね除けた。部屋中の冷たさが体を刺す。それでも、もう一度布団の中に戻ろうとしないのは、朝陽の所為だけでなく、耳元の機械音の所為でもある。冬の寒さに意識がはっきりし始めると、視界に掛け時計が入ってくる。アナログの時計の針は、十時を示していた。その驚愕の事実はぼくの頭を、眠りの世界から一気に現実へと連れ戻した。
「うわっ!! 寝坊したっ」
慌てて飛び起きて初めて、耳元の機械音の正体が携帯電話のバイブレーションであることを知った。しかし、手に取った瞬間に携帯電話はしんと静まり返る。後には、着信を報せるメッセージだけが残される。電話は実家からだった。
掛け直そうかと思ったけれど、そんなことをしている場合でない。完全に一時限目に遅刻してしまった。今から着替えてバスに飛び乗っても、ギリギリ二次元目に間に合うかどうかだ。そんな状態で、掛け直している暇なんかない。
ぼくは布団を片付け、歯を磨き寝癖を直して着替えると、急いでアパートを飛び出した。それもこれも、柚花の所為だ。
あの後、柚花は明日の天気を知って上機嫌になったのか、勝手に冷蔵庫をあけて、勝手にぼくのビールを飲取り出してきた。勿論、兄として、高校生にお酒なんて勧めたりはしない。しかし、柚花を制止したときにはもうすでに時遅く、たった二口で柚花は伸びてしまった。
「飲めないんだったら、口つけるなよっ」
ぼくのぼやきは、顔を真っ赤にして倒れた柚花に届くわけもなく、仕方なく介抱してやった。酔っ払った柚花はニヤニヤしながら「えへへー、ごめんねー、お兄ちゃん」と言った。普段ぼくのことを、呼び捨てにするくせに、分かっているのかいないのか。
困ったやつだと思いながらも、ぼくは柚花の制服を紙袋に詰めて、独りでコインランドリーに向かった。雨がやんだあとの、夜の道はいつも以上に冷たくて、危うく風邪を引きそうだった。それから、柚花の制服を乾かして戻ってくると、当の柚花はすやすやと可愛らしい寝息を立てながら眠っていた。
呆れるやら腹が立つやら。頭を引っぱたいて起こしてやろうかと思っていると、ぼくの傍で柚花がそっと寝言を言った。
「お母さん……」
その言葉は、ぼくの手を止めた。柚花の頬に、一筋の涙が伝う。それが一体何を意味しているのかよく分からなかった。ただ、間違いなく、柚花は何かを隠してる。それも、夢にまで見て、涙を流すほど辛いことなんじゃないだろうか。だけど、柚花に何を聞いても、話を逸らすだけだろう。まして、酔っ払って眠りこける柚花には、何も聞けない……。
そのことが、喉の奥に小骨が刺さった時のように、ひどく気分が悪くて、ぼくは柚花の残したビールを一気に飲み干した。
それがマズかった。それほどお酒に強いわけでもないのに、飲み干したアルコールはぐるぐると体中を駆け巡り、そしてぼくも妹の二の舞いとなってしまった。
深夜になって、ようやく目を覚ますと、ぼくの肩に毛布がかけてあった。そして、ちゃぶ台の上に書置き。
『迷惑かけてごめんね、ソラ。もう帰ります。お布団は敷いておいたから、目が覚めたら風邪を引かないように、お布団に入って寝てください。それじゃ、また明日。柚花』
半分寝ぼけ眼で書置きを読んだぼくは、そのまま柚花が敷いてくれた布団に潜り込み眠った。そうして、大学生活初の大遅刻をやらかしてしまったのだ。
バスに乗り込み、昨日の事を反芻していると、ポケットの中の携帯電話が再び震えた。ぼくは他の乗客に見つからないように、そっと携帯電話を取り出すと、熊谷からのメールが届いたことを報せていた。熊谷がやたらと心配していることが伝わってくる文面に、慌てて返信を返す。これは、一秒でも早く大学へたどり着かなければ。
そんなことを考えているうちに、ぼくは朝の電話のことをすっかり忘れてしまっていた……。
大学にたどり着いたぼくは、遅刻した事情を知った熊谷に散々からかわれた。普段遅刻しないクソ真面目人間は、たった一度の遅刻でも、他人の十倍の罪のように言われるのは、随分と損な役回りだった。ぼくよりも、普段から講義に顔を見せない桂の方が、もっと問題ありだと思う。
熊谷の笑い声を聞きながら、ふと空を見上げると、そこには連日の曇り空とはうってかわった、雲ひとつない淡い青色の空が広がっていた。
「今日は、星空が見れそうね。良かったわね、柚ちゃんも、ソラも」
熊谷が、ぼくと一緒に青空を見上げて言った。
今日はわがまま姫のために、屋根の上に昇らなければならない。高いところが苦手なぼくとしては、それだけで億劫になりそうだったけれど、ものは考えようで、今日でわがまま姫の無茶なお願いを終えることが出来る。
そう思えば、幾分か二日酔いの気分も楽になった。
そうして、残りの講義を消化して、ぼくはアパートに帰った。いつも通り、部屋の前で柚花が待っている。帰宅したぼくの姿を見つけた柚花は、ちょっとバツが悪そうに頭をかいて、
「やー、昨日はホントごめんね、ソラ。今度から気をつけるから」
と言った。ぼくは何も言わずに、軽く柚花の頭にゲンコツを入れてやった。ぼくがそれほど怒っていないと悟った柚花は、いつもと変わらない笑顔を浮かべる。
「今度、お酒に手を出したら、力いっぱいゲンコツするからな。よーく覚えとけっ」
念を押して、ぼくも笑った。
部屋に入って、ぼくたちはコーヒーを飲みながら、夜の帳が降りるのを静かに待った。柚花は待ちきれないといった顔をして、ぼくのブカブカコートに袖を通し、窓の外をずっと見つめていた。
「あんまり、日本の夜空に期待するなよ」
と、柚花の期待に水を差してみたけれど、柚花のワクワクに軽く弾き返された気がした。
そして、ついに待ちわびた時がくる。青空に夕日が差し込み、それが藍色に染められていく。ぼくたちは、完全にその空が夜に変わったのを見計らって、窓を開けた。
「先にぼくが上がって、柚花を引き上げる」
そう言って、ぼくは窓から身を乗り出して、雨どいの強度を確かめた。屋根に上るのも、もう何度目かだが、それでも下へ落ちるのではないかという恐怖は、高いところが苦手な者たちにとっては、深刻な問題だった。
雨どいをぐいぐいと揺すってみたけれど、頑丈に取り付けられた雨どいは壊れそうにもない。ぼくは勢いをつけて屋根によじ登った。そして、初めて屋根に上ったときのように、屋根の隅から両腕を伸ばして、柚花を引き上げる。本当は、このタイミングが一番怖いけれど、柚花の体重は思うほど重くはない。
そうして、ぼくたちは最後の屋根上りを完遂した。
深呼吸をして、肺一杯に冷たい冬の空気を吸い込んでから、空を見上げた。
「ねえ、ソラ。これはどういうこと?」
柚花は困ったような顔をする。それもそのはずだった。意気込んで見上げた夜空に、想像した美しい夜空なんかなかった。
「星、少ししかないよ……」
黒く塗りつぶされた夜空の、ところどころに、六等星と見紛うばかりの小さく弱い光を放つ星があるだけ。あの外国の夜空を写した、天体写真集ほどの夜空とまで言わなくとも、せめて満天の星空を想像していたぼくたちは、その閑散とした光景に目を疑った。
原因は簡単だった。以前、柚花が「クリスマスツリーみたい」と言ったビル群に、夜の間中灯る明かりの所為だった。それだけではない、繁華街も住宅街でさえも、眩いばかりの人口の光を放っている。それが、夜空にまで照り返り、遠い宇宙の果てから届く光を遮っていたのだ。
「これじゃ、晴れてても、星空なんて見えないね……」
「そうだな……残念だ」
ぼくたちは落胆しながら、屋根を降りた。部屋に戻り、ぼくが窓を閉めると、柚花は夜空なんか見たくないと言わんばかりに、勢いよくカーテンまで締め切ってしまった。そして、部屋の隅に放置されていた、お手製のプラネタリウムを取り出すと、まるで呟くように、
「これで我慢するしかないのかなあ」
と、言った。
冷静に考えれば、すぐに分かるようなことだった。豊かさと科学技術を手に入れた現代の街は眠ることを知らず、ぼくたちはそんな灯の下で暮らしている。その光の強さは、何十年も昔とは、比べ物にならない。そんな現代の街中で、満天の星空を見ようとする方が、無理な話だった。
もしも、美しい星空があるとすれば、それはきっと、天体写真集の中だけと言うことなのだろう。
「じゃあね……わたし帰るね」
ひとしきりプラネタリウムで、部屋の中を星空にした後、柚花はひどく憔悴しきったような顔をして帰って行った。星ぐらいで気を落とすなよ、と言ってやりたかったけれど、そのがっくりと落ちた肩や、うな垂れた頭、元気のない顔を見ていると、なんだか言い出せなかった。
「やっぱり、奇跡なんて起こらないんだ」
アパートの階段を降りていく柚花が、そう呟いたことに、ぼくはちっとも気付かなかった。
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