5. 雨の帰り道
雨足は急速に強くなり、大学の正門にあるバス停にたどり着く頃には、アスファルトを叩きつける音まで聞こえるようになっていた。
彼氏である喜多野さんの車で家まで送ってもらうと言う、熊谷とはバス停で別れた。「一緒に送って行ってもらう?」という熊谷の提案をぼくは丁重にお断りした。さすがに、先輩の喜多野さんを脚代わりに使うのは気が引けるし、恋人の甘甘空間にお邪魔するのは、もっと勘弁願いたいところだ。
そうして、ぼくは誰もいないバス停で、下宿までの路線バスを待った。バス停にはご丁寧にトタンの屋根が設けられており、傘を持っていないぼくにとっては、ありがたい避難場所となった。
「まさか、ソラって、柚ちゃんのことが好きなの?」
別れ際、ふと思い出したように熊谷が言った。とんだ爆弾発言だ。人のことを満座の中で「ホモ」呼ばわりした次は、「妹に恋をしている」などと言う。大切な友人ながら、ちょっと額に四つ角が出来そうな気分になった。
「そりゃ好きさ。妹として。それ以上でもそれ以下でもない。柚花はぼくの妹だから」
「でもね……、なんだかソラってば、柚ちゃんのお願いだったら、無理なことでも叶えてあげようとしてる。それって、恋愛感情じゃないの?」
「違う。……っていうか、ぼくと柚花は兄妹なのに、十年以上離れて暮らしてたから、ずっとあいつに兄貴らしいことしてやれなかった。だから、せめて今、あいつの願いをひとつでもかなえてやりたいんだ。それにな、恋愛なら、ぼく好みの可愛い子が現れたら、ちゃんとするから、熊谷は心配するな」
諭すような口調でぼくが言うと、熊谷は納得してくれたらしい。愛らしい口許に笑みを浮かべて、
「じゃあ、今度ソラ好みの可愛い子紹介してあげる。柚ちゃんみたいな女子高生がいい? それとも年上の女子大生がいい? ハッ、まさか女子中学生がいいの?」
「アホっ!!」
「冗談よ、冗談。でも、ホントに可愛い子紹介してあげるね。だって、ソラってば顔はけっこういけてるもの。もったいないわよ。友人として、頑張る兄貴にご褒美あげなくちゃ」
何様のつもりだと問えば、友人様だと帰ってきそうな熊谷は、楽しそうに笑いながら言った。しかし、ぼくにはその笑顔が意味深に映った。今日の熊谷はなぜかやたらと「女の子を紹介してあげる」と口にする。何か企みがあるようにしか思えない。だけどぼくにはそれが何なのか、よく分からなかった。
「星、見れるといいね」
そういい残して熊谷が去った後、ぼくは独りで雨雲が流れていくのを見つめていた。
顔を褒めてくれたのは、ちょっと嬉しいけど、彼女を紹介する、というのはありがた迷惑だ。ぼくは、恋愛が苦手だ。そう言うのをオクテというのも解っている。その所為で、この歳になるまで、女の子とお付き合いをしたことがない。かつて高校生のころ、ぼくに好意を持ってくれた女の子がいた。後輩の女の子でとても明るくて元気な子だったことを覚えている。でも、ぼくと言えば、その子の好意に気付いていながら、彼女を避けてしまった。
その後も、付き合いで参加した合コンで女の子に言い寄られたりすることもある。でも、その度にぼくは恋愛から逃げ出している。友人の熊谷が心配するのも無理はない。ホモやシスコンだと思われても仕方がない。
それでも、恋愛が目の前に迫ってくると、ぼくの脳裏にちらつくのは、十年前の出来事だった。泣きじゃくる柚花の瞳、去っていく母親の冷めた顔つき。父とぼくの前から姿を消して、二人は十年の間、幸せだったんだろうか。もしも、そうじゃないなら、ぼくだけ幸せになんてなりたくない。遠く離れて、苗字が変わり、戸籍が分裂してもぼくにとって、柚花は大切な妹なんだ。
黒に近い灰色の空を見上げていると、何故だか気分もマイナスの方向へ進んでいく。だめだな、そう言う顔をしているから、熊谷に要らない心配をかけるんだ。せめて笑ってなきゃ……。でも、柚花の「星を見る宣言」や、桂の母親への連絡とか考えていると笑顔は出てこない。
無理して両手で、頬筋を引っ張ってみたりしていると、バスが目の前に現れた。雨に濡れた車体に、ぼくの奇妙な笑顔が映し出される。美人の熊谷に「もったいない」と言わしめた顔じゃないな、これは。
ぼくは肩で思いっきり溜息を吐き出すと、定期券を取り出してバスに乗り込んだ。雨の所為か客足はまばらで、ぼくが適当な窓際の席に腰掛けるとすぐにバスは発進した。
揺れのひどいバスだった。大学前を離れ、坂を駆け下りて街並みを横切る。大学から下宿まで、それほど遠い距離ではない。ただ、街並みを横目で追いかけているだけで、下宿近くのコンビニ前にある停留所にたどり着く。それでも、大学から歩けば三十分以上の道のりで、傘もなく雨に降られれば、風邪を引くこと間違いなしだ。
「そうだ……コーヒー豆切れてたな」
定期券を見せてバスを降りたところで、そのことを思い出した。昨日の夜柚花に淹れてやった一杯で、丁度コーヒー豆が切れた。最後の一杯は、いつもより豆の量が少なかった所為か、「薄い、不味い」と柚花から不評をいただいた。
ぼくは、鞄を掲げて雨の中を走り、コンビニの軒下に入った。バスはまもなく発車して、排気ガスの嫌なにおいだけが、ぼくの鼻をくすぐった。その臭いにいたたまれなくなって、ぼくはさっさとコンビニに入った。目的のコーヒー豆と柚花の好きそうなお菓子を一つ二つ買い物籠に入れると、やる気のないアルバイト店員の女の子が、愛想もなくレジを打ってくれる。
すると、レジを打っていたアルバイト店員の手が止まった。
「あれ? もしかしてキミ、ホモのソラくん?」
店員がぼくの顔を見て言う。どうやら、そのアルバイト店員の女の子は、あの講義にいたらしい。「大学一の有名人になれる」という熊谷の言葉も、あながち嘘じゃないかもしれない。まあ、少しだけ情報が歪められて、ぼくはホモというレッテルを貼られかけているみたいだけど。
財布からお金を取り出しながら、ぼくはアルバイトの子にやんわりと、ホモではないことを説明した。
「ありがとうございましたー。また来てねっ」
アルバイト店員の女の子は、さっきまでの愛想の悪さが嘘のように、明るい笑顔に手まで振ってぼくを見送ってくれた。彼女の応対の変わり身は測りかねるけれど、ぼくが噂のような人間でないことは、理解してもらえたらしい。
外に出ると、雨足は弱まるどころか強くなっていた。息を吐き出すと、空気の冷たさに白くなる。ぼくは鞄を傘代わりに、遺跡アパートへと走り出した。
雨に濡れた鞄の水を払い、少し湿った体に身震いをしながら、アパートの錆びた階段を駆け上がると、ぼくの部屋の前にうずくまる人影が……。推測するまでもなく、それは柚花だ。
「あっ、ソラ、おかえり。くしゅんっ」
柚花は派手にくしゃみをした。見れば、学生鞄を抱えながらうずくまった制服姿の柚花は、頭の先から全身びしょ濡れだった。その手元に、傘はない。雨の中、傘なしでここまでやってきて、どのくらいの間ぼくの帰りを待っていたのだろう。
「何やってるんだよ、傘もないのにこっちへ来たのか?」
「うん。だってわたしが来ないと、ソラが寂しがると思って。でも、天気予報ってチェックしなきね。朝出かける時、傘を持ってくればよかったよ」
濡れて額に張り付いた前髪の隙間で、ニコニコしながら言う。だけど柚花の肩は寒そうに震えていた。
「まったくもう。風邪ひいたらどうするんだよ。お前、あんまり体が強くないんだからな。少しは自分を労われ」
兄貴らしく苦言を呈しながら、ぼくは部屋の鍵を開けた。こんなことなら、柚花に合鍵でも持たせたほうがいいんだろうか。今度大家さんに相談してみよう。
「分かってるよう」
ぼくの苦言に、柚花は頬を膨らませながら立ち上がった。
とりあえず部屋に入ったぼくは、暖房のスイッチを入れる。室外機から聞こえて来るヒートポンプの騒音を耳にしながら、箪笥を開けた。
「とりあえず、シャワーでも浴びろ。その間に、温かいコーヒーでも淹れておくから」
そう言ってぼくは無造作に、バスタオルと長袖Tシャツ、ジャージの三点セットを柚花に向かって放り投げた。
「うん、ありがと」
柚花は三点セットを受け取ると、鞄を部屋の隅に置き、そして、ちらりとぼくの顔を見て、なぜか睨むような視線を向ける。
「ソラ……欲求不満だからって、妹のお風呂覗いちゃだめだからねっ」
「覗くかアホっ!! そう言う下らないコト言ってないで、さっさとシャワー浴びて来いっ」
妹の馬鹿な発言にぼくは大声で怒鳴った。柚花はちろりと舌を見せて、そそくさとお風呂場の方へ走っていった。
「ああいう、無駄な知識をどこで覚えてくるんだろう」
深く溜息を吐きながら、ぼくは濡れた髪をバスタオルで拭いた。
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