4. ジャングルの桂
講義が終わったぼくは、すこしバツが悪くて逃げ出すように講堂を飛び出した。まだ、学生たちの視線がぼくに向けられているようで、チクチクする。
「待ってよ、ソラっ」
スカートを翻しながら後から追いかけてきた熊谷が、ぼくを呼び止めた。
「まったく、熊谷の所為でいい笑いものだよ」
「ごめん、ごめん。いいじゃん、これでソラの名前は随分多くの人たちに知れ渡ったわよ。大学一の有名人になるのも、夢じゃないわ」
ぼくを笑いものにしてくれたことを悪びれる様子もなく、熊谷が言う。ぼくは、少し呆れてしまい、彼女に対する怒りが足元から抜けていくのを感じた。
「それよりも、桂くんのところに行くんでしょ? わたしもヒマだから一緒に行くわ」
「別にいいけど……」
反対する理由もない。桂と熊谷は面識がある。それに、一人であの「ジャングル」に足を踏み入れるのは、ちょっと気が引けていたところだ。
ぼくと、熊谷は連れ立って桂のところへ行くことにした。
ぼくたちの通う大学は、ビルの立ち並ぶ繁華街下宿のある住宅地少し離れた山際に広々とした土地を構えている。広大な敷地には、十以上の講堂や教授たちの研究棟、大学図書館の他に、アリーナを備えた巨大体育館とその横にグラウンドがあり、さらにその奥に、サークル活動のための四つの部室棟がある。この部室棟は、一番手前から二つが運動系サークルに割り当てられており、残り二つが文化系サークルに割り当てられている。
文化系サークルには音楽系のサークルが多いらしく、激しいロックミュージックやら、ブラスバンドの甲高い音色、果てはなんだかよく分からない民族楽器の音まで聞こえてくる。ぼくたちは、そんな部室棟のなかでも、一番奥の第四棟にむかった。目的の部屋「ジャングル」は、この第四棟の一番隅にある。
青いペンキが剥げかかった鉄の扉。そこには色あせたプラスチックのプレートが嵌め込まれている。「電算部」薄く読み取れるその文字が、この部室を所有する部活の名前だった。
「ここだけ、ひどくうらぶれてるわよね……」
ドアの前で、熊谷が言った。モルタル造りの部室棟は、それだけでも年代ものなのだが、各サークルは自前で修理したり、プレートを飾ったり、ポスターを貼ったりして、それなりに華やかにしている。しかし、電算部の扉は、「うらぶれた」と言うのがじつに的を射ている。
もっとも、そういう綺麗好きはこのサークルには集まらないことを、ぼくも熊谷も知っていた。
「ペンキくらい塗りなおせばいいのにな」
ぼくはそう言いながら、部屋のドアをノックした。返事はないが、ノブを回すとどうやら鍵はかかっていないらしい。
「勝手に入るよ」
そう言いながらドアを開くと、悪臭ともなんともいえない、鼻を刺すような臭いが部屋の奥から廊下へと吹き抜けて言った。
「入るんだったら、さっさと入ってドア閉めろっ」
突然奥から怒鳴り声が聞こえた。ぼくと熊谷は慌てて部室の中に飛び込んだ。そこは、真っ暗な部屋。電灯のスイッチを探してみるけれど、金属の棚やよく分からない何かがみっしりと壁際を埋め尽くしていて、何処にあるのか分からない。
「きゃっ!」
部屋の奥に進もうとした熊谷が何かに躓いて悲鳴を上げる。慌ててぼくは熊谷の腕を掴んだ。
「気をつけて、そこら中にいろんなものが散らばってるから」
「あ、ありがとう、ソラ」
熊谷は心なしかほっとした様子だった。やがて、少しずつ暗がりに目が慣れてくると、闇の奥でぼんやりと光るものを見つけた。光源は、人影に邪魔されて、明かりと呼ぶには微弱だ。
「わたし、初めて電算部室入ったけど、すごいね……ゴミの山ね。まさに『ジャングル』だわ」
目を凝らしながら、床や壁に散らかった、よく分からないものたちを指して、熊谷が言った。すると、光源をさえぎっていた影がゆらりと蠢く。
「此木と熊谷か。なんだお前ら、悪口を言いに来たのか?」
影は察するまでもなく、桂だった。桂はおもむろに振り返り、メガネの奥にある円らな瞳で、ぼくたちを睨みつける。
「そんなんじゃないよ。お前の様子を見て来てほしいって、今朝、お前のお母さんから電話があったんだ」
「ええっ!? ママが? そう言えば、もう一週間くらい家に帰ってないなあ……ママ怒ってた?」
桂が思い出したように言う。ぼくと、熊谷は呆れ果ててしまう。
「そりゃもう、カンカンだったよ。まったく、コンピュータいじり始めたら、周りが見えな来るのな、お前ってば」
「まあ、それが俺の取り柄でもある」
どうだ、と言わんばかりに桂は笑うと、再び光源……パソコンのディスプレイに向かった。桂の肩越しに見える画面には、ぼくたちには理解の出来そうにもないアルファベットや数字の列が並んでいた。
桂はぼくの高校時代からの友人だ。何で仲良くなったのかはよく思い出せないが、高校生の頃は二人でよくくだらないことを話した。そんな桂は、今や「ジャングル」とあだ名される電算部室のヌシとなっている。桂は一言で言うなら、コンピュータ・マニアだ。一度パソコンに向かうと、ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも忘れて、キーボードを叩きまくる。
実家住まいの彼を、母親が心配するのも無理はないだろう。
「ねえ、桂くん。電算部って、ほかに部員いないの?」
熊谷が、辺りを興味深そうに見回しながら尋ねた。
「いるさ。キミの彼氏と同じ学年の部長が一人。でも、この不景気で就職活動が忙しい、とか何とか言ってまったく顔を見せない。実際、俺も一度しか会ったことないから、名前も忘れたよ」
桂の言葉に、ぼくは心の隅で「よく廃部にならないな」と思った。
「やだねえ、世間の垢にまみれて、景気だの就職だのぼやくのは……」
「そう言う桂は、本物の垢を落とせよ。どうせ、風呂にも入ってないんだろう?」
「おっと、女性の前でそう言うことを暴露しないでくれよ、此木」
露骨に嫌そうな顔をするが、熊谷はきっと気付いていると思う。それにも増して、桂が女の子の前で身なりを気にするのはもっと以外だった。ぼくも熊谷に忠告されるほど恋愛には疎く、この歳になっても女の子と付き合ったことがないけれど、桂は恋愛どころか、女の子に興味がないと持っていた。「俺の彼女はパソコンだ」とか言うと思っていた。桂に対して、随分失礼だったのかもしれない。ごめん桂っ……。
「ねえねえ、桂くんは講義にも出席しないで、一体何してるの?」
ぼくの心の謝罪に、熊谷たちが気付くはずもない。熊谷は、ひとしきりジャングルを見渡すと、その興味を桂のパソコンに向けた。
「これかい? これはね……、俺の独自開発したステルスプログラム。相手のパソコンとかサーバーに入り込んで、その機能を一時的に乗っ取ることが出来る。あくまで一時的に乗っ取るだけだが、それでも相手のシステム内でできることはたくさんあるからな。そして、プログラム自体はそこで意味のないものに自壊……つまりまったく害のないプログラムに変身するから、アシもつかない」
桂は自慢気に説明する。
「その名も『忍者くん一号』だ」
あまりにもひどいネーミングセンスだが、ツッコミを入れるとしたらそこじゃない。
「うんうん、へーっ、すごいわね。大学生なのに、そんなもの作れるなんて」
熊谷は、熊谷は桂の言っていることが理解できているのかいないのか、深く頷きながら感心している。いや、感心している場合じゃないよっ。
「お褒めに預かり光栄だな。まあ、世界広しといえども、こんなプログラムできるのはこの桂様だけだろうっ」
「それって、犯罪じゃないか。桂はいつからテロリストになったんだ?」
とげのある口調でやっとツッコミが入れられた。すると、傍らの熊谷はきょとんとする。やはり、桂の言ったことがよく分かっていなかったらしい。ぼくは溜息をつきながら、
「いいか、熊谷。これはハッキングソフトだよ。例えば銀行とか、政府施設とかのコンピューターに侵入して、悪いことをするソフトなんだ」
と、桂の解説に補足を加えた。熊谷は大げさに口許を覆って驚く。無理もない。友人がテロリストと知っては、ショックも大きいだろう。
「失礼だな、此木。これは、純然たるプログラムなんだ。別に世の中に出そうとは思ってない。勿論、悪用なんてしないし、させない。でも、こいつの技術を転用すれば、世の中に役立つかもしれないソフトだって作れるんだ。此木は、展望的視野を持っていないのか?」
憮然として桂が言う。まあ、ぼくとしても桂が犯罪に手を染めて喜ぶようなやつじゃないことは、よく知っている。
「展望的視野ね……それもいいけど、とにかく家には帰れ。そして、風呂に入れ。ぼくの用件はそれだけだ」
「ふむ。そうだね。友人の忠告を素直に聞いて、久々に家に帰ろうか。ママを心配させるのも悪いしね。いや、足労かけたね、二人とも」
そう言いながらも、桂はパソコンに向かいっぱなしだ。丸渕のメガネにディスプレイの明かりが怪しく反射する。きっと、この分だと「犯罪ソフト」が出来上がるまで、家に帰りそうにもない。そうなれば、このことを彼の母親に伝えるのは、ぼくの務めらしい。
ぼくはがっくりと肩を落としながら、パソコンに夢中になっている桂を置いて、部室を後にした。
「やっぱり、桂くんって変わってるわね。面白い人」
部屋を出てすぐに、クスクスと笑いながら熊谷が言った。変わった人と言うのは確かだが、面白い人かどうかは、賛同しかねるところだ。
廊下の窓から外を見ると、曇天の空からぽつり、ぽつりと雨粒が落ちている。これから、バス停まで雨の中を帰らなければいけないのか、と思うと更に気が重たくなった。
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