3. 熊谷のお誘い
「であるからして、Fの値がこの法則の、一定方向へのエネルギーと考えることが出来るのであります」
大学の講義と言うのは、非常に退屈だ。教授の多くが、講義のことを、研究の合間のアルバイト程度に思っている。だから、教科書と言う名前の、自分の著書を学生に買わせ、やっつけ仕事のように講義を進める。少しでも、板書をして解説を加える教授はまだいいほうで、ただ教科書を朗読するだけの教授にいたっては、学生をバカにするなと、思わず声を荒げたくなる。
まあ、そういう教授の講義はたいがい、生徒の多くが机と仲良しになっている。ともすれば、ぼくたち学生は、睡魔軍団を引き連れた魔王「教授」に立ち向かう、兵士なのだ。そして、居眠りをする学生は、敵軍に敗北した、累々たる死体の山なのだ。そんな中で、勇者もいる。教科書を盾にして、自主学習に励む者、携帯電話をいじり倒す者、間食を貪る者。
ぼくは、彼らのような勇者にはなれそうにもない。要するに、小市民の生真面目で面白味のないヤツなのだ。ただ、眠気と戦いながら、何とか四時限目の講義までを乗り切るのがやっと。
「ねぇ、四時限目終わったらどうする? 今日はバイトないんでしょ。どっか遊びにいかない?」
瞼を必死にこじ開けながら講義に耳を傾けていると、隣の席に座る同期生の熊谷が、唐突に言った。講義中の私語はよくないことだが、それだけでも、余計な眠気を払うには十分だった。
ぼくは、チラリと講壇の教授の方を確認した。禿頭の教授は、黙々と自分の著書を朗読しており、どうやら熊谷の私語には気付いていないようだ。ぼくは改めて、熊谷の方に向いた。
熊谷薫は、ぼくの唯一の女友達だ。男なら目を奪われそうな大きな胸の持ち主で、顔立ちもはっきりしてる。たまたま、大学の入学式で迷子になっている彼女を助けて以来、何となくつるむようになった。
「カラオケとか、お酒飲みに行くとか、どう? 二人っきりで……」
熊谷が淡いルージュを引いた口許に笑みを浮かべて言った。なんだか妙に意味深なお誘いに、ぼくは渋い顔をする。なぜなら、熊谷にはちゃんと彼氏がいるのだ。
「そういうのは、喜多野さんと行けよ。そうしないと、ぼくが喜多野さんに殺される」
喜多野さんというのは、熊谷の彼氏の名前。今年四回生になる、ぼくたちの先輩だ。なんでも、高校生のころから付き合ってるらしく、熊谷は先輩を追ってこの大学に来た、と言うのだからとてもけなげだと思う。だからこそ、熊谷の安易な提案には乗りたくない。
「それならご心配なく。先輩は、ソラのことホモだと思ってるから」
熊谷の言葉に、ぼくは思わずぼかんと口を開けてしまう。よもやの爆弾発言。
「はぁ? なに言ってるんだよっ。ぼくはそっちの趣味はないよっ」
思わず、大声を出しそうになるのをこらえて、ぼくはきっぱりと否定した。
「でも、めちゃくちゃ可愛い、看護学校生の娘がソラにアタックしてたのに、ソラってばまったく相手にしなかったって。だから『ソラはホモに違いない』って先輩言ってたわよ」
「ああ、そう言えば……」
柚花と再会するより少し前、喜多野さんのサークルで開かれた合コンに、数合わせで引っ張り出されたことがあったのを思い出した。なんでも、参加予定だったメンバーが夏風邪を引いてしまったため、その代理にと言うことで、熊谷の友達であるぼくに白羽の矢が立ったのだ。その時、看護学校に通っていると言う女の子にしつこく言い寄られた。明るくて可愛い子だったのは覚えているけれど、名前も顔も思い出せない。
「タイプじゃなかっただけだよ。そんなことで、ホモ扱いされたら困るよ」
溜息混じりにいうと、熊谷は器用にに声を出さず、ニヤリと笑った。
「冗談よ冗談。からかっただけ。ほら、ここ数日元気がないみたいだから。何か困ったことでもあったんじゃないかって、思ったのよ」
困ったこと……と言えばもうそれはひとつしかない。妹の柚花の突然のわがまま。「星を見る」宣言後、ぼくはここ数日屋根の上に登らされている。高所が怖いのに加えて、十一月の寒空。しかし、ここ数日の間まともな晴れ空はない。何とか夜空に雲の切れ間があっても、ひとつふたつ星が見えるくらいで、わがまま姫のご満悦できるような夜空には出会えないでいる。
今日も窓の外は微妙な曇り空。時折風に流れる雲が千切れて、陽の光が差し込んだかと思えば、すぐその顔を隠し辺りが暗くなる。
きっと、今日も姫の命令に従って屋根の上に登らなければならないと思うと、自分の柚花に対する甘さを呪いたくなってしまう。そういう憂鬱が、熊谷にも伝わったと言うことなのだろう。熊谷がぼくを心配していることがわかり、友人の気遣いに感謝しつつ、事情を話して聞かせた。
「ふーん、柚ちゃんがそんなことを言うなんてね」
熊谷は首を傾げて不思議そうにする。熊谷は前に一度だけ、柚花に逢ったことがある。柚花ときたら、それはもう見事な猫をかぶって、熊谷の前で「可愛い女子高生」を演じて見せたのだ。熊谷には、柚花がとてもわがままを言うようには見えなすのだろう。
「だから、憂鬱なんだよ。まったく、小さい頃は大人しくて可愛いやつだったのに……十年も経てば人間ってこうも変わるものなのかなって思うよ」
「でも、兄貴としては、妹のわがままを聞いてあげたいんでしょ?」
痛いところを、熊谷は突いて来る。十年前、離婚する父母の前で泣きじゃくる妹に、ぼくは何もしてやれなかった。だから、せめて再会が叶った今、柚花のためにどんな些細な願いでも叶えてやれたら、と思っていることを、熊谷は見透かしていた。
「まあ、そうだけど。それが憂鬱にさせるって言うか……。何も屋根に登らなくてもいいような気もするけど」
「高いところ怖いんだよね、ソラってば男の子なのに」
「うるさいな。熊谷だって方向音痴だろ。入学式のとき、道に迷ってたのどこの誰だよ」
「まあね。……で、だいぶ脱線しちゃったけど、今日どうする? わたしと二人っきりがイヤなら、誰か友達誘おうか? ホモじゃないソラくん好みの女の子誘うよ」
「まだ言うか……。だけど、そいつは残念だなあ」ぼくはわざとらしく言った。
「今日は、桂の様子を見に行かなきゃならないんだ。どうも家に戻ってないらしくて、あいつのお母さんから様子見てきて欲しいって頼まれてるんだ」
「ふうん。そうなんだ。そりゃ残念だわ。桂くん、相変わらずあそこに篭ってるの?」
「変人だからね、あいつ」
真っ暗な部屋の中、ディスプレイの光に向かう友人・桂の姿を想像して、ぼくと熊谷は苦笑した。彼ほど「変人」の名前が似合うヤツはいないだろう、とぼくは思う。しかし、熊谷は苦笑しながら、
「変人って、他人ごとみたいに言ってるけど、いくら可愛いからって柚ちゃんにばかりかまっていると、ソラもいつか変人扱いされちゃうわよ。大学生なんだからちゃんと恋愛しなさい」
と、ぼくに忠告をくれた。大学生なんだから、とはよく分からない理屈だが、少しだけ耳に痛い。柚花のことといい、女の子のことといい、どうして熊谷はぼくの耳に痛いことばかり言うのだろう。
ぼくが熊谷に生返事を返すと、あらぬ方向から咳払いが聞こえてきた。
「あー、そこの二人。わしの講義が詰まらないのは分かるが、私語は慎みなさい。ホモじゃないソラくん?」
教授のその一言で、どっと講堂中が笑いに包まれた。ぼくたちの会話は、講堂全体に筒抜けだったらしい。すべての視線がぼくに注がれて、ぼくはいたたまれない気持ちになる。その怒りをぶつけるように、熊谷を睨みつけると、「ホモじゃないソラくん」と言った本人は、みんなと一緒になって笑っていた。
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