2. 再会の日
柚花に再会したのは、ほんの二ヶ月ほど前のことだった。
大学に進学して、一人暮らしを始めて半年が過ぎ、ようやく隙間風のボロアパートにもなれた頃。いつものように、眠くなるような講義を終え、夕日が染めるオレンジ色の帰路を真っ直ぐアパートへ向かう。そして、錆び付いた階段を昇ると、ぼくの部屋の前に、見知らぬ女の子が立っていた。
ブレザーの制服に身を包み、まるでぼくの帰りを待っているかのようだった。その幾ばくかの寂しさが通う横顔や、長くキレイな黒髪、夕陽を映しこむ瞳の色は、思わず見とれてしまうほどだった。だけど、女子高生の知り合いなんていないし、まして可愛い彼女なんていうのにも心当たりがない。ロートルの頭脳をフル回転させながら、記憶の隅々を調べようとしていると、彼女はぼくに気付いた。
「あ、おかえりっ、ソラ」
人違いの線も考慮していたぼくに、あどけない笑顔で女の子は近付いてきた。しかも、彼女はぼくの名前まで知っている。
「あ、あの、どちら様?」
「えっ……、あなた『このきそら』さんだよね?」
口許を覆いながら、女の子は質問を質問で返した。でも、間違いなくぼくの名前は「此木空」だ。
「そうだけど、どこかであったことあるかな? 喜多野さんに誘われた合コン? いや、女子高生と合コンなんかしたことはないし」
ぼくが小首をかしげていると、女の子は腰に手を当てて、眉を吊り上げた。
「ご、合コンって、まさかそんなことばかりしてるの? 大学生って暇なのね。お母さんが聞いたら、泣くよ。まあ、わたしは告げ口したりしないけど」
怒られる理由も、なぜそこでぼくの母が出てくるのかも良く分からなかった。もしかして、母の知り合いなのだろうか。それにしても、ずいぶんと馴れ馴れしい物言いをする子だなあ、などと、色々な思案をめぐらせながら、
「別に、合コンばかりしてるわけじゃないし、見ず知らずの君にそんなこと言われる覚えはないんだけど」
と、ぼくが言い放つと、女の子は急に眉を下げた。がっかりと言うより、少しだけ当惑しているようだった。
「もしかして、ホントに分かんない? わたしだよ、わ・た・し」
彼女が自分のことを指差した瞬間、探り続けていたぼくの記憶の隅に、光が灯った。
「ゆ、柚花?」
その名を口にしたのも久しぶりだった。本当に奥底に沈めた記憶。だけど、けして忘れられないし、忘れたくないと思っていた記憶。それが、彼女だった。柚花は自分の名を呼ばれて、まるで花が咲くように、笑顔になった。
「そう、柚花だよ、お兄ちゃんっ」
微笑む顔に、ぼくの知っている妹の柚花の面影が見える。十年と言う月日は、あまりにも長かった。それを言い訳にするつもりはなかったけれど、まさか離れ離れになった妹が、唐突に尋ねてくるとは思っても見なかった。
それでも、嬉しくなるような、懐かしくなるような、胸の奥が温かい気持ちと、驚きでいっぱいだった。たった一人の妹に、もう二度と会うことはないと思っていた。
もう十年も昔の話だ。ありきたりの、両親の不仲が原因で、ぼくたちは離れ離れになってしまった。どうして、好きで結婚したのに、喧嘩ばかりするのか。それを大人の事情と割り切るのは、ぼくの方が年嵩な分、柚花より早かった。
離婚が決まっても、ぼく達をどちらが引き取るのか、幾度となく父と母はぶつかり合い、罵りあった。そしてようやく至った結論は、ぼくを父が、柚花を母が引き取ることだった。子どもの意思なんかそっちのけだと、その時ぼくは思った。
「やだ、お兄ちゃんと一緒に行くっ」
まだ幼かった柚花は、母に引き取られることを拒んだ。母が嫌いだったわけではなく、家族が二つに分かれることが厭だったんだろう。何日も泣き喚いて、両親を困らせた。二人としても、柚花が泣くのは自分達の所為だと分かっているから、なおさら辛そうだった。
それでも、別れの日は来る。最後まで泣き崩れる柚花に、ぼくはどんな慰めのことばを言えばいいのかわからなかった。家の玄関を出た瞬間から、兄妹なのに、家族ではなくなる。奇蹟でも起こらない限り、ぼくにも柚花にもどうしようもない運命だった。
「じゃあ、お兄ちゃん、奇蹟を起こして」
柚花は大切にしていたぬいぐるみを抱きしめながら、ぼくに言った。今と変わることのない、頑固でわがままな言い分だった。ぼくは超能力者でもないし、魔法使いでもない。奇蹟なんていう、この世にあるかないかもわからない芸当をすることなんて出来ない。だけど、母と行くことをぐずる柚花を説得する方法は一つしかなかった。
「もしも、柚花が泣き止んでくれたら、ぼくがいつか奇蹟を起こしてやる」
大人のような嘘だと思った。柚花がそれで納得するかどうか、ぼくには自信がなかった。いくら幼くても、柚花にもぼくが奇蹟を起こせないことくらい知っている。だけど、ぼくの言葉を聞いた柚花は涙を拭い、そして母と共に我が家を去っていった。
それから間もなく、母と柚花は遠い街へと引っ越して行った。ずっと、ぼくの胸は寂しさでいっぱいだった。家族が二つに分かれ、もう二度会うことはない。柚花に泣くなと言った手前、兄のぼくがめそめそとしてはいられなかった。
それからずっと、母と柚花に連絡はおろか、会うことさえなかった。父と二人だけの暮らしは楽ではなかったけれど、家族が離れ離れになった寂しさを紛らわすには丁度良かった。その代わり、ぼくは生活の総てがひどく無味乾燥なもののように思えて仕方がなかった。友達と笑っていても、父と喧嘩をしても、どこか胸の奥に棘が刺さったままのような気がしていた。その度に、ぼくは柚花の泣き顔と「奇蹟を起こして」と言う言葉を思い出していた。
やがて、年月が過ぎ、母と柚花が去っていった日のことが思い出になり、すべてを記憶の底に閉じ込められるようになった頃、父は再婚した。新しい母はとても優しい人だった。それでも、どこか家族として受け容れられなかったぼくは、大学進学と共に家を出て、下宿に住むことにした。
そんな、新しい母から電話があったのは、柚花と再会する前の日だった。いつも通りおっとりした喋り方の新しい母は、柚花が家に尋ねてきたことを嬉しそうに話してくれた。
「とっても可愛らしくて、良い子ね」と付け加えた。その時気付くべきだったのかもしれない。新しい母は柚花にぼくの下宿先の住所を教えていたのだ。もしかすると、柚花はそのために、わざわざ実家を訪ねたのかもしれない。
いや、それは詮索だ。どうであれ、十年ぶりの再会を喜ぶべきだと、ぼくに微笑む柚花の顔を見ていると思えた。
再会のその日から、柚花は毎日のように、アパートを訪ねてくるようになった。そして、ぼくの部屋に上がりこんでは、何をするでもなく、ぼくの淹れたコーヒーを飲んで、楽しそうに下らない話して帰っていく。学校の話、友達の話、昨日見たドラマの話。そのほとんどは一方的に柚花が喋り、ぼくが聞くだけ。
本当は、母と柚花がどこに住んでいるのか、どんな暮らしをしているのか、二人とも幸せなのか、聞きたいことは沢山あった。しかし、それを聞いたところで、家族ではなくなったぼくに、何が出来ると言うのだろう。あれほど、遠く離れてしまうことを寂しく思っていたのが、少し馬鹿らしく思えるほどに、あっけない再会で柚花の笑顔が目の前にある。それだけで十分だと言い聞かせた。
あの日、泣きじゃくっていた妹は「お兄ちゃん」と呼んでくれていたのも、遠い過去のことなのか。「ソラ」と呼び捨てにされる度、ぼくはそんなことを密やかに思った。
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