16. 奇跡の起こし方
見上げる夕刻の空は上々。邪魔な雲は一つもない。
しかし、たとえ街の電気がすべて消えたとしても、望む星空が見られる保障はない、と桂はぼくに忠告した。大昔のように星が綺麗に見られない理由は、街の光だけじゃない。世界中で科学技術が進歩し、その代償として、空気が汚れてしまった所為もある。だけど、これが最後のチャンスかもしれない。ぼくは、後に引き返すつもりはなかった。
作戦は至ってシンプルだ。桂のハッキングソフトを使って発電所のコンピューターを乗っ取り、この街全体を停電にする。ただし、ハッキングソフトのプログラムの性質上、その時間は三分余り。決行の時間は夜九時ちょうどから、三分間。その前に、柚花を連れて、遺跡アパートの屋根に上らなければならない。
勿論ぼくと熊谷は、作戦によって病院などの施設まで停電してしまう懸念した。しかし、桂曰く、そういう場所には必ず自家発電をする機械があるから、要らぬ心配らしい。むしろ、停電によって生じるかもしれない、他の事故や損害などの方が大きい。
だけど、その愚を犯してでも、奇跡を起こす。ぼくたちはそう決めた。そうして、何かあったときには、ぼくがすべての責任を負うつもりでいた。もっとも、ぼくなんかにどんな弁償が出来るかなんて、分からない。それでも、ぼくと柚花のために無償で協力してくれる、この愛すべき友人たちのために、出来ることはしたい。
そんな、熊谷と桂の友情と、ぼくの覚悟を無駄にして、最後のチャンスを逃してはならない。ぼくは計画の段取りを終えると、ハッキングシステムの立ち上げを行う桂と熊谷を電算部室に残して、柚花を捕まえるために夕刻の街へと繰り出した。
いつもとは違うバスに乗り、いつもとは違う方へ向かう。その方角にある白十字通りに辿り着くころには、もうすでに、太陽は姿を隠し、夜の藍色がオレンジ色の空を半分以上塗りつぶしていた。
「クリスマスセール実施中!」
気の早いアーケード街の横断幕の下、ぼくは噴水広場へと走った。そこに柚花がいるという確信はなかった。ほとんどイチかバチかの賭けみたいなものだった。
長いトンネルのようなアーケード通りを走り抜けると、水柱を吹き上げる噴水が目に飛び込んでくる。キラキラと水の粒子が、あたりの間接照明に照らされて、幻想的な風景が演出されているのだけど、それを呑気に眺めているような時間はぼくにはなかった。
噴水には目もくれずあたりをくまなく探す。相変わらず人が多い噴水の近くに、見知った人影を発見したぼくは、その子に駆け寄った。
「あれ? 柚ちゃんのお兄さん」
だけど、振り向いたその人影は、柚花ではなくて、恵野さんの妹で柚花の友達、ひかりちゃんだった。
「柚花を知らないか?」
と、ぼくが尋ねると、ひかりちゃんは傍らのもう一人の友達、夏生ちゃんと顔を見合わせた。そして、すこしだけ驚いた顔をして、
「入れ違い。柚ちゃんなら、さっきお兄さんの下宿に行ったよ」
と、言った。とんでもない誤算だ。まさか、柚花の方が先に遺跡アパートへ向かっているとは、これっぽっちも思っていなかった。
「いやー、ちょっとね、柚ちゃんと喧嘩しちゃった」
呆然とするぼくに、ひかりちゃんは頭をかきながら言う。
「お兄さんと仲直りしたら? って言ったら、柚ちゃん駄々っ子みたいに、いやだ、あたしには関係ないことだって言うから。思わずあたしも頭にきて売り言葉に買い言葉。折角、バカ兄妹の間を取り持ってあげようと思ったのに」
「余計なお世話だよ……まったく」
「同じことを、柚ちゃんにも言われたよ。そんで、今何故だかあたしが夏生に諭されてたところ。余計なお世話って言われても、友達だからね。なんだか心配になっちゃって」
えへへっと、恥ずかしそうにひかりちゃんは笑った。
「ひかりはこういう子なんです。妙に友情に厚いところとかあって、それが原因で、ときどき誰かとトラブルを起こしたりするんです。おせっかいなんですよ」
そう言って、夏生ちゃんがひかりちゃんのことを小突く。そう言う彼女も、家出した柚花のことを泊めてあげてたくらいなんだから、他人のことは言えないのだろう。
「柚花は、いい友達に恵まれたんだな……それで、どうして柚花がぼく下宿先に行ったって分かるんだい?」
「それは、あたしが行けって言ったの。あの子、お兄さんが自分のことを心配してるなんて嘘だって言うから、じゃあちゃんと確かめて来いって、蹴っ飛ばしてやったの。まったく、似たもの同士のくせに、世話の焼ける兄妹だこと」
ふうっ、とひかりちゃんは溜息を吐き出した。彼女の言うとおり、妹の気持ちも分からない兄貴と、頑固でわがままな妹。俯瞰してみれば、似たもの同士なのに、分かり合えないなんて、なんて馬鹿らしいことなのだろう。こんなにも、ぼくと柚花のことを気にかけてくれる、ひかりちゃん、夏生ちゃん、熊谷、桂、母さんたち、たくさんの優しい人たちに、ぼくらは囲まれているというのに、ぼくは少し前まで、そんなことにも気が付いていなかった。そして、柚花は今もまだ、気が付いていない。自分が死ぬと言う運命を前に、すべてに目を瞑って、見ないことを決め込んだ。
もしも、この優しい友人たちに、感謝の言葉を述べるのであれば、それは、口から零れる幾千の単語などではないのだろう。柚花の瞳を開かせること。自分の運命を頑なに信じて怯える、柚花の心を開かせることが、彼らへの感謝の言葉なのだ。
そのためには、必ず奇跡を起こさなければならない。そして、奇跡の瞬間にぼくの隣に柚花がいなければならないんだ。
「二人とも、九時になったらここから空を見上げてごらん。素敵なものが見えるから」
吹き抜けになったアーケードの隙間からのぞく、夜空を指差した。ぼくの指先につられて、二人は空を見上げたけれど、そこに星があるわけではなく、ただ、黒い絵の具で塗りつぶしたような空間が浮かんでいるだけ。二人は揃って、きょとんとしながらぼくを見た。
ぼくは少しだけはにかむと、踵を返して、もと来た道を駆け出した。急いで、アパートへと向かう。都合良く、アパートと白十字通りを結ぶバス路線がないことが、妙に腹立たしい。一端大学まで帰ってもいいのだけど、そうする時間がもったいなく思えた。
脚力に自信があるわけではないけれど、あの日に比べて走る事が苦ではなかった。柚花に奇跡を見せると言う目的があるのだ。
大通りの歩道をひたすらまっすぐに走り、交差する住宅街の路地に入る。ひかりちゃんに説教されたファミレスの前をかすめ、恵野さんがバイトするコンビニの前を通り過ぎて、ようやく倒れかけそうな遺跡アパートが見えてくる。
ぼくは足を止めて、息を整えた。そして、錆付いて、踏み板の外れそうな階段を登る。一番奥の部屋の前。ドアを背中に、うずくまるようにひざを抱えて座る柚花。
「お帰り……ソラ」
近づく足音に気付いた柚花は、元気のない声で言った。少しだけ顔色が悪い……。
「大丈夫か、柚花?」
と、ぼくが尋ねると、柚花はそっと頷いた。彼女の手には、薬の入った銀のケースが握られていた。
「さっき、発作が起きて、胸の奥が苦しくて、息が出来なくてもう死んじゃうんじゃないかって思ったの。でも、ソラいないし、ここにはわたしの知っている人は誰もいないから、助けも呼べなくて、薬を飲んで我慢してたの。そうしたら、ちょっと楽になったよ」
「ごめん。お前のこと探してて、白十字通りに行ってたんだ」
「じゃあ、入れ違いか……携帯の電源入れておけばよかったかな」
そう言って、柚花は制服のポケットから携帯電話を取り出して、電源スイッチを押した。ディスプレイの画面が柚花の顔を青白く照らす。
「母さんに会ってきた。お前の病気のことも聞いた……」
「そっか……。馬鹿だよねわたし、どうせ死んじゃうのに薬なんか飲んで。どうせ奇跡なんか起こらないのに、ソラのこと嘘つき呼ばわりして。ひかりちゃんの言うとおり、わたし、わがままだ……ごめんなさい、ソラ」
力なく、ぼくに作り笑顔を見せる。そんなに儚げな顔つきは、今まで一度も見たことはない。だけど、どんなにわがままでも馬鹿でも、素直な柚花は、十年前と何も変わっていないのだと、やっとぼくは気付いた。
「どうせ、なんて言うなよ」
柚花の手を強く掴んだ。突然のことに、柚花は驚いて目を丸くする。ぼくは構わず、柚花の手を引いて立たせた。
「奇跡をみせてやる!」
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