14. 家出の理由
「それで、柚花ちゃんの家出の理由は分かったの?」
電話口の向こうで、熊谷が言う。マンションからの帰り道、ついに痺れを切らした熊谷が電話をかけてきた。そりゃそうだ。素っ気無いメール一つじゃ、三日間も大学をサボった理由に説明はつかないだろう。ぼくは、星の見えない夜道を、駅まで歩きながら、母から聞いた話を熊谷に聞かせた。
柚花と母が十年間暮らしてきた、2LDKのマンションは、母娘二人で暮らすには、ひどく殺風景だった。最低限の家具しか置かれていない部屋には、まるで生活感が欠落し、どこかモデルルームのようで落ち着かない。そんな部屋に案内され、母が用意してくれた紅茶の水面を眺めながら、十年ぶりの再会を喜びたい母と、再会したくもなかったぼくは、どこかちぐはぐな会話のままだった。
父と離婚した後、母と柚花は親戚を頼った。ぼくの叔父に当たる人だ。だけど、母はもともと自立心の強い人で、一年も経たないうちに今のマンションへと転居した。柚花と二人で暮らすようになって、母は仕事に追い立てられた。社会がどれほど文化的に、精神的に進歩したところで、片親が一人で子どもを育てるのに、易しい環境になることはない。そういった意味では、父も同様だろう。しかし、父は離婚からほどなくして、再婚相手に恵まれた。その違いは、ぼくたち兄妹にとっても大きな違いだった。
毎日深夜になって、疲れきった体を引きずりながら会社から帰ってくると、玄関口に母を待ちくたびれた幼い柚花が眠っている。母の足音に気付いた柚花は眠い目を擦りながら、
「お母さん、お帰り」
と笑顔を作って言う。だけど、母の仕事が落ち着くことも、ぼくが柚花に会いに来ることもなく、十年の月日は淡々と過ぎていった。
「離婚して二人きりで暮らすようになってから、あんなに泣き虫だった柚花は、一度も泣かなかった」
母はぼくにそう言った。父と兄という家族を欠いた、柚花は何を思って成長していったのか、それはぼくには分からない。でも、母は知らないだろう。ぼくが泣きじゃくる柚花についた嘘のことを。柚花はずっと、信じていたのだ。そして、眠い目を擦りながら、家族の帰りを待っていたのだ。
そう思うと、ぼくの胸は尚も締め付けられるような気がした。子どもの頃、ぼくが悪気など感じないでついた嘘が、その後の十年あまりの柚花の人生を変えていったとしたら、その責任はとても重い。家族が離れ離れになる原因を作った、父と母と同じくらい、ぼくの罪なのかもしれない。
もしかすると、柚花はそれが原因で家出したのだろうか? それを知ることが、とても怖くなった。
「どうして、柚花は家出なんかしたの?」
ぼくの問いかけに母は、一枚の紙きれで答えた。薄っぺらい洋白紙の上には、四角い文字で「診療結果」と記されていた。医大生でもないぼくにとって、そこに書かれた走り書きのような文字意味を理解することは出来なかったけれど、重苦しい病名と、その隣にある受診者の名前だけで、ぼくは十分な衝撃を受けた。
そして、柚花が言ったあの言葉の意味を知った。
「どうせ、わたしは死ぬんだもん……」
柚花が倒れたのは、柚花が家出をする少し前のことだった。授業の真っ最中に、顔面蒼白で机に突っ伏した柚花を隣席のクラスメイトが気付いた。慌てた教諭の「気分でも悪いのか?」という問いかけにも、意識が朦朧として答えられない柚花は、すぐさま近隣の病院へと運び込まれた。そして、駆けつけた母の元に、その薄い紙切れが手渡された。
「ずっと以前から症状はあったはずです。お気づきになられませんでしたか? このまま放置すれば、娘さんは三年も生きられないでしょう」
医師の冷たい宣告は、母を驚愕させた。不治の病などと、現代には似合わない言葉なのに、その病魔は母の知らないところで、最愛の娘の体を蝕んでいた。そして、そのことを柚花自身は知っていたのだ。
母は診断書を握り締めて、病室のベットに横たわる柚花を叱った。何故もっと早く、調子が悪いことを話してくれなかったのか、作り笑顔で元気を装われるより、相談してくれた方が良かった、と。
柚花は、そんな母を厳しい目つきで睨みつけた。そう、あの夜にぼくを睨みつけたのと同じように。
「わたしが一番辛い時に、お母さんはいつもわたしの傍にいなかった。お母さんだけじゃない、お父さんも、お兄ちゃんもいなかった。それなのに、わたしは何をどうやって伝えたらいいの?」
そう言い放つ娘の姿に、母は再び愕然とした。家族が離れ離れになってからの十年間、娘のためと割り切って仕事に打ち込んだぶん、二人の暮らし向きは、それほど厳しいものではなかった。だけど、その代償と言わんばかりに、母が柚花に振り向いてやる時間は、どんどん削られていった。それが証拠の、生活感のない殺風景な2LDKなのだ。
柚花の言葉はまた、ぼくに向けられた言葉でもあると、思った。涙をこらえて、明るく振舞う柚花が待っていたのは、ぼくが奇跡を起こして、家族全員がまた同じ屋根の下で暮らせるようになること。子どもじみた願望でも、幼いときに両親の離婚を経験してしまった柚花にとっては真摯な問題だった。それだけ、ぼくの吐いた「奇跡」の意味は重いのだと、何度も思い知らされる。
柚花は退院を前に、病室から姿を消した。何の書置きも残してはいなかった。そうして、ぼくの下宿する遺跡アパートまでやってきたのだけれど、そのことを母が知る由もなく、母は仕事を休んでまで、あちこちを探しあぐねたのだ。
奇跡が見られれば、もしかしたら自分の病も治るのではないのか。もしかすると、柚花はそんな願いを託して、家出をしたのかもしれない。そして、再会したぼくを試した。見えるはずのない綺麗な星空を見ることが出来たなら、それこそが奇跡なんだと。
だけど、結果は知っての通りだ。星空は町の明りで見えない。ぼくには、奇跡なんて起こせない。柚花の病気が治ることなんてない……。そう思い至った柚花は、ぼくに言った。
「どうせ、わたし死ぬんだもん……」と。
母からの話、柚花の思い、ぼくの考え、そのすべてを話し終えると、電話の向こうで熊谷が静まり返ってしまった。
駅まで続く国道沿いの歩道は車のヘッドライトとテールランプの光が行き交う。ぼくはそのちらつきを背にして、歩道の真ん中で立ち止まった。
「なんか、暗い話しちゃってごめんな。でも、ぼくたちのことを心配してくれてありがとう、熊谷」
「ううん、別にいい、ソラも柚花ちゃんもわたしの大切な友達だから……。ねぇ、そんなことよりも、柚花ちゃんの病気、本当に治らないの?」
熊谷が心細そうな声で言う。ぼくは電話の向こうの相手には伝わりもしないのに、首を左右に振った。
「日本には、柚花の病気を治す専門医や施設がないけれど、アメリカに渡れば病気を治すことが出来るんだ。ただ、お金は随分かかるらしい。それは、ぼくが父さんを説得して、ウチからも協力すべきだと思ってる。でも、そのことを、柚花は知らないんだ」
「じゃあ、すぐ伝えてあげなくちゃ、病気は治るんだよって」
「いや、それだけじゃダメだ。それじゃきっと、柚花は素直に、快くアメリカへ行ったりしないと思う」
「どうして?」
「あいつにとって、一番悲くて辛かったのは、病気のことじゃなくて、家族がバラバラになったことなんだよ。あいつ、ぼくに言ったんだ。『親が離婚してしまったら、お母さんもわたしも家族じゃないの?』って。ぼくは、ぼくの前からいなくなった母親と妹のことを、家族じゃなくなったって、線引きしてたんだ。そうやって忘れようとしてたんだ……。でも、柚花はずっとぼくのことを憶えていてくれた。だから、忘れようとするなんて間違いだったって、今ならはっきり言えるよ。それを柚花に伝えなきゃいけないと思うんだ」
ぼくがそう言うと、スピーカーから熊谷の笑い声が聞こえてきた。
「青春だねぇっ。聞いてるこっちが恥ずかしくなってきちゃうわよ」
「ち、茶化すなよっ。真剣なんだぞこっちは」
けたけたと笑う熊谷の声に、急に恥ずかしさがこみ上げて、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「分かってるわよ。だけど、妹思いのお兄ちゃんとしては、どうするつもり? 適当な考えじゃ、奇跡なんて起こせないし、起こせたとして、柚花ちゃんの気持ちを変えることなんて、出来ないかもしれないわよ」
それが一番の問題だ。柚花にぼくの反省と、心から心配していることを伝え、それと同時に病気を治す決心を固めてもらうためには、あいつが言った「奇跡」を起こすしかない。だけど、何度も言うように、ぼくは魔法使いじゃない。ごくありふれた、大学生なのだ。そんなぼくに、奇跡を起こす手立てなんか、簡単に思いつかないし、子供だましな手品じゃ、柚花は納得してくれないだろう。
携帯電話片手に、うーんうーんと思わず唸ってしまう。わがまま姫を納得せられるだけの、奇跡を起こす方法……。
「うーん、一つだけ奇跡を起こす方法を思いついたんだけど……」
と、熊谷。突然の一言に、ぼくは当たりに構わず大きな声で驚いてしまった。道行く人たちの視線が、一発でこっちに向く。
「な、何? どんな方法なんだよ、教えてくれよ」
ぼくは慌てて車道の方に向くと、やたら小声で熊谷に尋ねた。すると、熊谷はほくそ笑むように、
「じゃあ、明日。講義が終わったら教えてあげるね」
と言って、プツリと電話を切ってしまった。おかげで、なんだか狐につままれたような心地で、ぼくは家路までの数時間、電車に揺られる羽目になってしまった。
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