12. 説教代のケーキ
ひかりちゃんはぼくの袖を掴んだまま走った。道行く人から見ればぼくは、女の子に引っ張られる変なやつにしか見えないだろう。少しだけ恥ずかしくなって、「ね、手を離してくれないかな? それと、どこへ行くつもりなの?」と彼女に問いかけてみたけれど、ひかりちゃんは答えてはくれなかった。きっと、姉に学校をサボっていることがバレてしまったから逃げ出しただけで、どこか行く当てがあったわけじゃないのだろう。
そう思っていると、コンビニからそれほど遠くもないファミレスの前で、ひかりちゃんはぴたりと足を止めた。
「立ち話するのもなんだから、お兄さん、何か奢ってよ」
ファミレスの看板を指差しながら、ひかりちゃんが言う。友達の妹とは言え、出会って間もない女の子に奢るというのもおかしな話だけど、どうやら姉から逃げるためだけに、ぼくを連れてきたわけではなさそうだ。
「わかった。でも、ぼくは貧乏だから、高いものは勘弁してくれ」
と溜息交じりに了承すると、ひかりちゃんはニッコリと笑って二つ返事を返してきた。
暖房のよく聞いた店内に入ると、蝶ネクタイをあしらった制服姿の男性店員がぼくたちの方に近づいてきて、「いらっしゃいませ。二名様ですか? 喫煙席と禁煙席がございますが、いかがなさいますか?」
と、お決まりの台詞を口にする。ぼくが適当に答えると、店員はぼくたちを窓際の席に案内した。ひかりちゃんは、席に腰掛けるや否や、テーブルの端に立てかけられたメニューを取って、水を運んできた店員にケーキとジュースを注文した。ケチと言われたくはないけれど、少しは遠慮して欲しいもんだ、などと心の中で思う。
「しっかし、どうしようかな。お姉ちゃんってば、あたしが学校サボってること、絶対お父さんにチクルよね。うわぁ、地獄だ……」
店員が下がっていくと、途端にひかりちゃんが頭を抱えて言った。
「それは、自分の身から出た錆ってやつだろ? 君が学校サボったりしなきゃいいだけの話じゃないか」
「いつもサボってるわけじゃないんだよう。時々ね、頭ん中がグルグルになったら、夏生たちと学校サボるの。ほら、ガス抜きってやつだよ。高校生にも色々あるんだな、これが」
「まあ、学校生活が、大人の考えるよりもストレス社会だっていうのは認めるけどな」
「でっしょー? ヤなクラスメイトとか先輩とかさ、口を開けば受験だ勉強だって口うるさい担任。それに、数学の先生なんて、あたしがバカなの知ってて、わざと授業中に当てるんだよ。もう、嫌がらせ。パワハラだよ」
ひかりちゃんは頭に四つ角を作りながら、愚痴をこぼす。
「あたしは無難に青春を過ごしたいんだよ。お姉ちゃんみたいにさ、フツーに高校卒業して、フツーに大学行って、フツーに就職して、フツーに結婚するのが、あたしのフツーの夢なんだ」
「随分小さい夢だなぁ……。でも、学校サボるのは無難で普通な青春じゃないよな。フツーにすごしたければ、大人しく、お父さんの雷を受けるんだね。その方が、君のためだよ」
「分かってます。あーあ、これで旅行の話はおじゃんだねぇ。って言うか、なんで柚ちゃんのお兄さんに叱られなきゃいけないのよっ」
それもそうだ。大学を丸二日もサボっているぼくに、説教されるというのも変な話で、そもそもそんな話をするために、わざわざ友達の妹とファミレスにいるわけじゃない。
そうこうしているうちに、先ほどの店員が、ひかりちゃんの注文したケーキとジュース、それにぼくの注文したホットコーヒーを提げてきた。
「ここのケーキ美味しいんだよねっ」
テーブルに並べられたケーキに早速フォークを入れ、一口頬張ると、ひかりちゃんは嬉しそうに笑う。何となく、その表情は柚花のそれに似ているような気がした。
「ひかりちゃんは、どうして柚花と知り合ったの? あいつこの街の人間じゃないし、勿論学校だって違うのに……?」
ぼくはコーヒーをすすりながら尋ねた。
「偶々だよ。夏生と一緒に学校サボって……あ、夏生とは今は学校違うけど小学校の頃から友達なんだ……、それでね、白十字通りをブラついてたら、噴水の傍で寂しそうに座ってる柚ちゃんを見かけたんだ」
「柚花のヤツ、寂しそうにしていたのか?」
「うん。じっと足元を見つめて。それでね、最初に声を掛けたのは、あたし。柚ちゃん制服着てたから、きっと、あたしたちと同じように、学校サボってる、プチ不良なんだって思ったのよ」
「プチ不良って、自覚あるんじゃん」
「そりゃそうだよ、小市民ですもの。なんだかんだ言ってもさ、学校サボってるっていうのは後ろめたいもので、罪悪感もあるんだよ。だから、サボりの共犯者は一人より二人がいいって、考えたの。もしも、心無い善良な大人に補導された時に、三人の方が何かと心強いでしょ?」
「心無い善良な大人って、無茶苦茶だな。それで、ひかりちゃんたちによって、柚花は悪の仲間入りしてしまったってわけか」
呆れ眼で、ひかりちゃんを見る。すると、ひかりちゃんは口の中でもごもごやっていたケーキを飲み込み、フォークを振り上げた。
「悪の仲間入り、とは失敬なっ! 少なくとも、あたしと夏生は学校では真面目な学生なんだよっ……とまあ、そんなこんなで三人そろって白十字通りでつるむようになった訳。ユーシー?」
「アイシー」
「ふむ。あたしへの質問は終わり? そしたら、こんどはあたしから質問ね」
振り上げたフォークの切っ先をぼくの方にピッと向けて、ひかりちゃんが言う。
「あんまし立ち入ったことを聞いてもよくないとは思うんだけど、でも、柚ちゃんはあたしたちの大事な友達だから、聞かないわけにも行かないの」と、前置いて、
「お兄さんが柚ちゃんと二人っきりにしてくれって言った後、実はあたしたち噴水の向こうでこっそり見てたんだよね。さすがに何を話してるか分からなかったけど、柚ちゃんがお兄さんに何か起こってることだけは分かった。それでね……」
柚花の言葉、「奇跡を起こして」と言われたぼくは、自分にはどうすることも出来ない。妹の信頼を取り戻すことも出来ないと、ただ黙って、打ちひしがれて、白十字通りを一人で去った。ずっと背中に、柚花の厳しい眼差しを受けているようで辛かった。
ぼくが立ち去った後、噴水の陰に潜んでいたひかりちゃんたちは柚花のもとに駆け寄って、事情を尋ねたそうだ。だけど、柚花はその場で周りも気にせず、泣き崩れてしまったらしく、ひかりちゃんたちは、それ以上何も尋ねることは出来なかった。
柚花と知り合って二ヶ月とはいえ、ひかりちゃんにとっては、サボりという秘密を共有する仲間だ。その仲間が何か辛い思いをしているのなら、そしてその原因が柚花の兄貴にあるのなら、それをぼくに問いたださずにはいられなかったと、ひかりちゃんはぼくに言った。
何から話すべきか。妹のことを心配してくれる人に対して、無下に「関係ないから」とは言えない。それでも、他人にあらゆることを話してしまうのも、違う気がする。
ぼくは、何度か説明につまりながら、掻い摘んで、事情を聞かせた。ひかりちゃんは、ケーキを食べながら、時に頷いて、ぼくの話を聞いてくれた。そして、ぼくがすべて話し終わると、ひかりちゃんは一度だけ深く頷いた。
「お兄さんは大学生なのに、話下手だね……。でも、顔はそこそこいけてる、あと、究極の真面目さんだね。お姉ちゃんはそんなところに惚れたのかなぁ?」
ニヤリと、ひかりちゃんの口許が曲がる。恵野さんがぼくに惚れてる? いやいや、そんなことはありえない。だいいち、知り合ってからの歳月なら、ひかりちゃんが柚花と知り合ってからのそれよりも、ずっと短いんだ。
「あのなあ、恵野さんがぼくなんかに惚れるわけないだろ……って、それは今、全然関係ないだろ!?」
「うーん、関係なくもないんじゃない? 要するに、お兄さんは鈍いんだよ」
「ぼくが鈍い?」
「そう。なんだか、柚ちゃんが拗ねてるのを、全部自分の所為みたいに思ってるけどさ、柚ちゃんの言ってることって、無茶だよ。奇跡なんて、そんなに簡単に起こせるわけないでしょ? それくらい、柚ちゃんも分かってるはずだよ」
ひかりちゃんは、テーブルに頬杖をつきながら、ぼくに言った。
「それじゃあ、柚花はなんだってあんなことを言ったんだろう?」
ぼくが問いかけると、ひかりちゃんはしばらく考え込む。そして、ジュースを一口飲んでから、
「そんなこと、分からないよ。でも……これはあたしの勝手な想像だけどさ、柚ちゃんは、一番辛い時に大好きな家族が傍にいてくれなかったのが悲しかったんじゃないかな? そんで、お兄さんがそのことに気付いてくれないのが、もっと悲しかったんじゃないかな」
「一番辛い時って……?」
「さあ? だから、言ったじゃん、あたしの勝手な想像だって。もしも、あたしが辛い時に、お姉ちゃんがいてくれなかったら、もっと辛くなる。でも、傍に大好きなお姉ちゃんがいてくれれば、辛いことを分けっこ出来る。まあ、あたしの話だけどね」
「あれ? 君は、お姉ちゃんのこと嫌いじゃないの?」
「そんなことないよう。そりゃ、口うるさいし、偉そうだけど、大切な家族だもん」
そう言って、ひかりちゃんは少しだけ照れたような顔を見せた。家族……。そうだ、両親が分かれてしまっても、ぼくと柚花が家族であることには、何にも変わりがない。それは、ごく単純なことなのに、どうして気付かなかったのだろう。
「ぼくは……どうしたらいいと思う? このままじゃ、柚花がどうなってしまうか、心配なんだ。でも、その気持ちも、あいつには伝わらない」
肩を落としてぼくが言うと、ひかりちゃんは再びフォークをぼくに突きつけた。
「大学生のお兄さんが、高校生のあたしに、それを聞くの? そんなこと、自分で考えてよ。だって、お兄さんと柚ちゃんの問題だもん。それに、あたしは柚ちゃんの友達だから、柚ちゃんを慰めてあげるくらいしか出来ないよ」
「厳しいなぁ。でも、君の言う通りなんだろうな、きっと」
ぼくは、コーヒーカップに残った、温い最後の一口を飲み干して、言った。ひかりちゃんも、いつの間にやらケーキを平らげ終わり、自分のお腹をさすって、
「ケーキご馳走様でした。まぁ、バカ兄妹のためのお説教代だと思えば、安いけどね」
と満足そうに微笑んだ。その口ぶりを聞きながら、年下の高校生に説教されるとは我ながら情けない、と思う。その一方で、ひかりちゃんに話を聞いてもらって何となく、心が軽くなったような気がした。今の自分が柚花のために何が出来るか、それはまだよく分からないけれど、ヘコんで引きこもってるわけにはいかない。柚花のためにも、ぼくのためにも……。
食事を済ませて、ファミレスを出ると、やはり身を切るような冷たい木枯らしが、頬に吹き付けてくる。ひかりちゃんは寒そうにコートのポケットに手を突っ込むと「コンビニに戻って、今度はあたしがお姉ちゃんに説教食らってくるかぁ」と、一人ごちると、もと来た道を歩き出した。
「ああ、そうだ」
ぼくはとぼとぼと歩いていくひかりちゃんを呼び止めた。
「これからも、柚花とは仲良くしてやってくれよ」
「そんなの、わざわざ言われなくても分かってるよ。お兄さんも、ウチのお姉ちゃんのこと、よろしくね。それじゃあね」
何をよろしくなのか……その意味が分からない辺りが「鈍い」と呼ばれる所以であることを知ったのは、もう少し後のこと。それは、ぼくと柚花のこととは関係ない。
ひかりちゃんの姿が曲がり角で見えなくなってから、ぼくはアパートへの帰り道に向かった。そして、ぼくはコンビニで買い物をするはずだったことを思い出して、少しだけ後悔した。
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