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11. 奇跡の重さ

 頭上で目覚まし時計の音がする。朝になると、いつも規則正しく鳴り響く忙しないベルの音は、眠りを貪るぼくの頭の中を掻き回していくようだ。だけど、ぼくは、毛布を頭から被って、その暗闇の中にうずくまり、ベルの音が鳴り止むのを必死に待った。やがて、部屋の中が静かになると、ぼくは再び惰眠の世界に落ちて行った。

 あれから、二日が過ぎていた……。

 家出した柚花を叱り付けるつもりが、ぼくは柚花を連れて帰ることが出来ないどころか、すべて自分の所為だと思い知らされてしまった。

「奇跡を起こしてよ」

 と、柚花は言い残したまま、広場に集まる人ごみの中に消えていった。

 奇跡。ぼくたちの空白の十年間。その間、柚花はずっとその言葉を信じ続けていたんだ。それが、どれほど果てしないのかは、筆舌に足らない。奇跡と言う、たった漢字二文字の言葉が持つ意味は、ぼくたち兄妹にとって果てしなく重いからだ。

 結局、柚花が家出した理由は、ぼくの所為なのか、それははっきりと分からなかった。柚花の口にした「どうせわたし、死ぬんだもん」という科白の意味も、ぼくには分からない。ただ、確かなことは、柚花はぼくに失望していたと言うことだけだ。だから、柚花はぼくのことを「お兄ちゃん」と昔のように呼んでくれないんだと、今更ながらに気が付いた。

 十年前、まだ子どもだったぼくに、両親の離婚を止めたりなんか出来るはずもない。まして、壊れた夫婦の関係を修復する力なんか何処にもない。それはきっと、柚花だって分かっていたはずなんだ。でも、柚花はぼくが奇跡を起こすのを待っていた。約束どおり、泣くのを止めて。そのことを十年経った今、妹の口から聞かされたとしても、すべてがあとの祭りだ。

 どうすればいい? どうしたらよかったの? どうしたって、ぼくには、奇跡なんて起こせない……。

 白十字通りからの帰り道、一人きりでとぼとぼ歩きながら、冬の身を切るような寒さに、ぼくの頭の中はぐちゃぐちゃになりかけていた。遺跡アパートまで、どの道を歩いて帰ったのか、よく覚えていない。ふらつく足取りで、携帯電話の時計をみると、液晶の画面にメールの着信。

 なかなか帰ってこない息子を心配した、新しい母からの伝言だった。ぼくは、それを開かなかった。新しい母は、自分の娘でもないのに、柚花のことを気にかけて、わざわざ遺跡アパートまでやってきたのだ。そんな母に、事情を説明するには、メールの短い文面では事足りない。

 ところが、部屋に帰ると、新しい母の姿は何処にもなかった。代わりにちゃぶ台には、特製シチューが入った鍋と、書置きが一通。

「明日用事があるので、帰ります。ソラくんの好きなシチューを作っておきました。柚花ちゃんと一緒に食べて下さい。母より」

 独特の丸みを帯びた文字。新しい母は何も知らないまま、帰ってしまった。シチューの蓋を開けてみると、中はもう冷め切っていた。それもそのはずだ、時計の針はもうすでに深夜を指していた。

 ぼくは食欲も湧かず、ちゃぶ台にシチューを残したまま、布団に潜り込んだ。夢なんか一つも見なかった。ただ、深い眠りの奥でぼくは、悩み続けた。

 どうすればいい? どうしたらよかったの?

 それから丸二日、携帯の電源も切ったまま、大学もサボって、来客を知らせる玄関ベルも無視して、ひたすらに惰眠を貪った。まるで、柚花のあの視線から逃れるように……。

 しかし、さすがに二日も布団に包まっていると、お腹はすくし、眠気もやってこない。一度眠気が遠ざかってしまうと、かえって目が冴えてしまう。仕方なく、布団から這い出して、ちゃぶ台の上のシチューの蓋を開けてみた。

 冬の隙間風が入り込む遺跡アパートの部屋は、天然の冷蔵庫状態で、シチューは痛んでいないようだったけれど、さすがに二日前に放置したものを食べるのは、ちょっと気が引けた。せっかく、ぼくと柚花のために、新しい母が作ってくれたものだけれど、止む無く処分することにした。そして、本物の冷蔵庫を開いてぼくは少しだけ、シチューを捨ててしまったことを後悔した。

 冷蔵庫の中には、目ぼしい食べ物が入っていなかった。あるものと言えば、コーヒー用のミルクと調味料、それと賞味期限の切れたハムくらいだ。どうやら、新しい母は冷蔵庫のものを全部使ってシチューを作ったらしい。時々天然ボケを炸裂してくれるのが、新しい母と言う人だったことを思い出した。

 このままでは飢え死にする、とまでは思わないけれど、さすがに二日前のシチューを捨ててしまった身としては、賞味期限切れのハムを食べるわけには行かない。

「仕方ない、買出しに行くか……」

 冷たい部屋の中で、誰かに言うでもなく呟くと、肩で思い切り溜息ををして、二日間着通しだった服を着替えた。靴を履きながらふと、玄関口のカレンダーに目をやって、今日が日曜日であることに気付く。

 だからどうした、と言うことはない。今日が平日でも休日でも、外を吹く木枯らしは冷たくて、あちこちの木々には枯葉は一枚残らず吹き飛ばされ、見上げる空はどんよりと雲を張っている。ともすれば、雪でもちらつきそうな空だ。ぼくは、曇り空を眺めながら、コンビニの道を歩いた。

 そして、コンビニの前まで来て、恵野さんのことを思い出した。恵野さんに会えばきっと、二日前のことを尋ねられるだろう。どう答えたらいいのか分からない。わざわざ、他人に込み入った話はしたくないし、された方もなんだか嫌な気分になること受けあいだ。

 だけど、別のコンビ二や店に遠出する元気はありそうにもない。ぼくは腹をくくって、コンビニの自動ドアをくぐった。心の隅で、恵野さんのシフト時間じゃありませんように、と祈りながら。

「えー、何でっ。いいじゃん、お姉ちゃんっ」

「良くないわよ。まったく、あんたって時々無茶言うよね。お父さんが知ったら、きっと雷が落ちるわよっ」

 ぼくの祈りは、自動ドアをくぐった瞬間に打ち砕かれた。レジコーナーにはコンビニのユニフォームを着込んだ恵野さんがいた。だけど、恵野さんは入店したぼくに気付いていない。レジの前で、柚花くらいの歳の女の子となにやら言い合いをしている。

 ぼくはそっと奥の棚に向かった。いくつか食べ物と飲み物を籠に入れていく。その間も、レジの方から恵野さんたちの声が聞こえてくる。

「別に男の子と旅行に行くって言ってるんじゃないんだよ。女の子同士で旅行に行くんだもん。しかも、国内だよ。何にも危ないことないよう」

「バカいわないで。一番あぶなっかしいのはあんたでしょ? わたしは、お父さんを説得してあげないからね」

「何でよう。可愛い妹のために、何とかしようって思うのが姉の務めってやつじゃんか」

「可愛い妹のためならね……。でも、鏡をよく見てみるといいわ。少なくとも、あんたは可愛い妹なんかじゃないわ。おあいにく様っ」

 どうやらレジの前で恵野さんに食いかかっているのは、恵野さんの妹らしい。事情はよく分からないけれど、いつもの恵野さんと違って、妙にお姉さんらしい喋り方だ。ぼくも、柚花の前ではあんな喋り方になっているのだろうか? それにしても、二人とも声が大きすぎる。ぼくは買い物をしながら、思わず苦笑してしまった。 

「ほら、お客さんが来たわ。どいてっ。いらっしゃいま……あ、此木くんっ」

 会計のためにレジへ近づくと、さすがに恵野さんはぼくの方に気付いた。そして、ぼくが苦笑しているのをみて、ちょっと恥ずかしそうにする。そんな姉の姿を奇妙に思ったのか、恵野さんの妹がぼくの方に振り返った。

「何? お姉ちゃんの彼氏?」

 恵野さんの妹は眉をひそめながら、ぼくのを見る。どこかで見たことある女の子だ。だけど、柚花以外の女子高生と知り合いになった覚えはない。

「ななな、何言い出すのよ、ひかりっ!! 大学の友達よ」

 頬を染めながら、妹の訝しむ関係を否定する恵野さんの前で、ぼくと恵野さんの妹は同時に、眼を丸くした。そして、ユニゾンするみたいに「あっ」と叫んだ。

「柚ちゃんのお兄さんっ」

「柚花の友達のっ」

 そう、ぼくの目の前にいる女子高生は、二日前に白十字通りで柚花と一緒にいた友達の一人、髪の短い方の女の子だった。制服とは違う私服姿に、全然気付かなかった。

「君、恵野さんの妹だったの?」

「そういうお兄さんは、お姉ちゃんの彼氏だったんだ。へーっ、世界って狭いねっ」

 偶然の出会いにニコニコしながら、恵野さんの妹、ひかりちゃんは言った。

「だから、違うって言ってるでしょ。まったくもうっ。それより、何なの、あんた此木くんの知り合いなの?」

 恵野さんがきょとんとする。すると、ひかりちゃんはこくこくと二度頷いた。

「あたしの友達のお兄さん。この前、白十字通りで会ったの」

「白十字通りって……あんた」

 白十字通りというキーワードに、恵野さんの脳裏になにか引っかかるものがあったのだろう。一方、ひかりちゃんも、姉が何かを知っていることに気付いた。

 恵野さんが白十字通りで、友達と一緒にいる柚花を見たのは、お昼過ぎ。そして、恵野さんの妹、ひかりちゃんは、柚花の友達。たったこれだけの情報でも、バラバラだったパズルのピースがパチパチとはまっていく。

「わたしが、此木くんの妹さんを白十字通りで見たのはお昼過ぎだったわよ……、まさかひかり、学校サボってるんじゃないでしょうね?」

「わわわっ、やばいっ」

 姉の眉が釣りあがっていくのを見たひかりちゃんが慌てる。そして、何故だかぼくの袖を掴んだ。

「お兄さんっ、来てっ」

 そう言うと、ひかりちゃんはぼくをぐいっと引っ張った。

「こら、ひかりっ!! 待ちなさいっ」

 恵野さんが大声で怒鳴る声を背中に受けながら、ぼくはレジテーブルに買い物籠を残したまま、ひかりちゃんにコンビニから連れ出されてしまった。

 

  

 

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