10. 白十字通りの柚花
恵野さんが、柚花を見たという白十字通りは、繁華街のど真ん中にある。一番街から四番街までの、四本のアーケード街が、十文字に交差する場所で、中央に噴水を構えたちょっとした広場になっているのだ。この街の人たちは、主に待ち合わせ場所として使うことが多いらしい。
らしい、と言うのは、ぼくが白十字通りに来るのは、これが初めてだったからだ。大学に入学してもう半年以上この街に住んでいるのだけど、どうも白十字通りのような華やかな場所は自分みたいな地味な大学生に、似合っていない気がしていた。単に気がしていただけで、一度でもそんな気がすれば、自然とこの場所に足を運ぶ機会はなかった。
さて、ここに本当に柚花はいるのだろうか。恵野さんの見間違いと言うこともある。恵野さんは、直接柚花に会ったことはないのだから、他人の空似と言うことがあっても、全然不思議じゃあない。それでも、住宅街の何処を探しても、家出姫の所在が掴めなかったぼくとしては、ほとんど藁をもすがるような気持ちだった。
白十字の名前の由来にもなっている、真っ白なアーケードを見上げて立ち尽くしていても仕方がない。ぼくは、意を決すると、アーケード街に足を踏み入れた。
アーケードの両脇には、様々な商店が立ち並んでいる。そのどれもが、十一月も下旬になると、真っ赤な下地にアルファベットで「メリークリスマス」と書かれた看板を掲げ、クリスマス商戦の真っ只中だった。
ぼくは、早すぎるクリスマス色一色の商店街を、足早に駆け抜けた。やがて、長いトンネルのようなアーケードの切れ目が見えてくる。アーケードの切れ目からは僅かに黒い夜空が覗き、そこだけが露天になっていることが分かった。
白十字通りの広場には、中央に居座る大噴水を取り巻くように、たくさんコート姿の人がいた。ある人は待ち合わせ、別のある人は談笑に花を咲かせていた。その中から、柚花を探し当てるのは、困難に思える。それでも、雑踏のような人を掻き分けながら、見覚えのある姿を、ぼくは探した。
すると、どこからか一際明るい笑い声が聞こえてくる。柚花だと言う確信はなかったけれど、ぼくは目の前を通り過ぎる人の隙間から、その笑い声を追いかけた。
噴水の傍。キラキラとライトアップされた水しぶきが落ちるプールの淵に、三人の女子高校生が腰掛けて、楽しそうにおしゃべりをしている。三人三様に制服がちがうけれど、その姿は仲のいい友達のようだ。そして、その真ん中に、柚花はいた。何事もないかのように、明るく笑う柚花の顔をみて、ぼくは安堵と呆れの溜息を吐き出してから、ゆっくりと三人に近づいた。
最初にぼくに気が付いたのは、柚花の右隣に座った髪の短い女の子だった。やってくるぼくのことを変な人だと思ったのだろうか、明らかに警戒していた。
「柚花。こんなところにいたのか」
柚花の友達の警戒心を解くためにも、ぼくはなるべく優しい声で呼びかけた。予期せぬ人の声に、柚花の笑い声が、ピタリと止まる。そして、柚花はまるで、悪戯が見つかった悪戯っ子のように、ぼくの方に顔を向けた。
「そ、ソラっ。どうしてここに……?」
そう言って、柚花は顔を引きつらせた。そんな柚花の表情を見た、柚花の友達は更に警戒心を強めてぼくを睨み付けた。
「柚ちゃん、この人誰?」
「わたしの……お兄ちゃん」
柚花は友達の問いかけに、小さな声で答えると、ぼくから視線を外して俯いた。
「ええっ!? 柚ちゃんって、お兄さんがいたの?」
素っ頓狂な声で驚いたのは、柚花の左隣に座る、眼鏡の女の子。柚花は下を向いたまま、頷いた。二人の柚花の友達は、ぼくと柚花の両方を交互に見比べて、なおも目を丸くする。確かにぼくたちは、あんまり似ていない兄妹だ。
「君たちは……二人とも制服が違うけど、柚花の友達かな?」
ぼくは少しだけ笑みを浮かべて、二人に確認をすると、二人はそろって頷き、
「あたしは、ひかり。で、こっちは夏生。あたしたちみんな、学校違うけど、ここで知り合って友達になったんです」
と、髪の短い方の女の子が答えた。高校生が他所の学校の子と、商店街にある公園で知り合う、というのはちょっと変わったことだ。三人が友達になった経緯や事情を聞いてみたくはあるけれど、今は家出姫のほうが最優先だ。
「そっか。あのさ、二人とも。悪いんだけど、柚花に大切な話があるんだ。二人にしてもらえないかな?」
「は、はいっ」
二人はそろって返事をして、すっと立ち上がった。そして、眼鏡の女の子、夏生が「後でね、柚ちゃん」と言うと、二人はぼくに一礼をしてその場を後にした。残された柚花は、俯いたままだ。
ぼくは、柚花の隣に腰を下ろした。背後では、噴水のしぶきが人は一際大きな音を立てた。夜、特定の時間になると一瞬だけ大きく水柱を吹き上げる仕組みらしい。さながら、時計代わりといったところだろうか。見れば、アーケードに掲げられたデジタル大時計が、夜の九時を示していた。
ぼくは、水柱が静かになるのを待ってから、口を開いた。
「ここ何日か部屋に来ないし、携帯にも出ないし、心配したんだぞ。……星を見られなかったのが、そんなにショックだったのか?」
「別に……」
柚花は、素っ気無く言う。ぼくの方なんかチラリとも見ようとしない。いつも目を合わせて話す明るく柚花らしくないと、ぼくは思った。
「じゃあ、、何で何日も連絡をよこさなかったんだ?」
「誰かから聞いたんでしょ? わたしが家出してるって」
わざと家出のことを言わないぼくに、察しがついていたのか、問いかけには答えないで、柚花の方から本題の口火を切った。
「ああ、つい数時間前に知ったよ。ウチの母さんにお前の母さんから電話があったそうだ。みんな心配してるよ」
ぼくの言葉に、柚花がぴくりと反応する。そして、小さな声で「お前の母さん……」と呟いた。だけど、その声はあまりに小さくて、周りの雑音や噴水の音にかき消されてしまい、ぼくの耳まで届かなかった。だから、ぼくはそんな呟きには気が付きもしないで、話を続けた。
「二ヶ月前に、ぼくの部屋に始めてやってきた日から、ずっと家出してたんだな。お前ってば一言もそんなこと言わないし、いつも夜になると帰るから、てっきり家に帰っているんだと思ってた。お前、泊まるところとか、ご飯とかどうしてたんだ?」
「さっきの、夏生ちゃんの家に泊めてもらっる。あと、日中は大学生の振りしてバイトしてしてるから、ソラが心配するようなこと、何もない」
「何もないことはないだろう。学校にも行かないで、バイトしてその日暮らしって……親じゃなくても心配になるよ。無鉄砲だな、柚花は。十年前には泣いてばっかりだったのになぁ」
そう言って、ぼくは柚花に笑いかけようとした。なるべく穏やかにいようと思っていた。家出したことを頭ごなしに叱り付けても、高校生の女の子には逆効果だと思ったからだ。ところが、柚花は突然顔を上げると、ぼくの瞳を鋭く睨みつけた。
「何も知らないくせにっ。十年前とは、わたしは違うんだよ。わたしは泣かない。泣いたりなんかしない」
突然、柚花の声色が変わる。
「覚えてないの? 十年前、お母さんがお父さんと離婚した日にソラはわたしに言ったよね。『もしも、柚花が泣き止んでくれたら、ぼくがいつか奇蹟を起こしてやる』って。だから、ソラを信じて、わたしあれから一度も泣かなかった」
「それは……」
「その場しのぎの嘘だったの? いつだって、ソラは優しい振りしてるだけ。心配してるなんて言っても、心の中じゃわたしのことなんて、これっぽっちも分かってない……。わたし、ずっと待ってた。ソラが奇跡をおこしてくれて、いつかお父さんと一緒に、わたしとお母さんを迎えに来るって! 馬鹿みたいだけど、本当に信じてた。でも、ソラにとってはあんな約束なんて、その場しのぎだったんだもんね。奇跡を起こす気なんて、はじめからなかったんだ」
堰を切ったように、柚花はぼくにたたみかけてきた。
冗談みたいな話だ。ぼくは魔法使いでも奇術師でもない。奇跡なんて起こせない。あれは、あの時、柚花に泣き止んで欲しくてぼくが吐いた嘘なんだ。でも、柚花はぼくの吐いた「大人みたいな嘘」を信じていたんだ。そのことを今はじめて知ったと、言い訳をするわけにはいかない。柚花の憎らしげに睨み付けてくる瞳が、それを物語っているようだった。
「だから、試したの。わたしが星空を見たいってわがままを言ったら、ソラがどうするか知りたかったの。本当は、何処にいたって、天体写真集やプラネタリウムみたいな星空なんか見られないことくらい、知ってたよっ。でも、もしも、ソラがあの日の約束を覚えていてくれたら、わたしに奇跡を見せてくれるんじゃないかって思ったの」
「そんなこと……」
今度は、ぼくが柚花を直視できなかった。柚花の肩は僅かに震えていたけれど、その瞳は潤んでなんかいない。ただ、何かを訴えかけようと、ぼくを睨み付けるだけ。
「無理に決まってる? じゃあ、ソラの嘘を信じてたわたしは何なの? ただの馬鹿?」
「ちがう、お前は馬鹿なんかじゃない……。あの時、ぼくもガキだったって、言い訳はしたくないけれど、嘘を吐いたのは悪かった。ごめん。でも、お前が家出して心配なのは、本当に嘘じゃないんだ。な、だから、一緒に帰ろう、柚花」
ぼくは柚花に手を差し出した。だけど、柚花はさらにきつく尖った瞳でぼくを睨んで、その手を払いのけた。
「やだ、帰らない。わたしは何処にも帰らない。わたしのことなんて放っといて!!」
つんと、柚花はそっぽを向く。その仕草は、わがまま姫そのものだった。家出の理由が何であれ、例えぼくの嘘を確かめるためだったとしても、それとこれとは話が違う。心配しているのは、ぼくだけじゃない。かつてのぼくの母、つまり柚花の母も、ぼくの新しい母も心配している。それを、放っといてとは、それこそ、究極のわがまま姫だ。
「そんな、わがまま言うなよ。家に帰らないで、どうするんだよ? 歳を偽ってバイトするその日暮らしで、いつまでも生きていくことなんか、出来やしないことくらい、お前にもわかってるだろう!?」
ぼくは撥ねのけられた手で、無理矢理に柚花の腕を強く掴んだ。柚花はすこし怯えた様に、ぼくの手を振り解こうとしたけれど、ぼくは強く掴んで離さなかった。すると、柚花の顔色が途端に変わる。それはさっきまでの厳しい表情が嘘のような、まるで、深海の暗闇を覗き込むみたいな、深く悲しい顔色。
「わがままじゃない。どうせわたし、死ぬんだもん……」
噴水の音にかき消されそうな小さな声だけど、今度ははっきり聞こえた。死ぬ? その不気味な響きの言葉に、ぼくは戸惑いを隠せなかった。
「どういう意味だよ?」
ぼくは訝しげに眉をひそめて、問いかけた。
「別に。そのままの意味だよ。わたし、もうすぐ死ぬの……。だからこの先、生きていけるかなんて、考えたって無駄なの」
ぼくに対する皮肉や、冗談めいた比喩なんかじゃないと、悲しげな柚花の瞳は言っていた。
「でも、家族じゃないソラには関係ないよね? わたしがどうなったって、誰にも関係ない」
「そんなことあるもんか。ぼくとお前は、兄妹じゃないか。家族じゃないか。それを関係ないなんていわないでくれ」
柚花の細い腕を掴む手に力が篭る。
「また嘘を言うの? さっきソラは確かに言ったよね。『お前の母さん』って。でも、わたしのお母さんは、ソラのお母さんでもあるんだよ」
「それは、言葉のアヤだよ」
「アヤなんかじゃないよ。もしも、ソラがわたしのことを家族だって思っていてくれたなら、そんな言葉は出てこなかった! だって、十年ものあいだ、いつだってわたしとお母さんに会いに来ることは出来たんだよ。でも、一度もそうしなかったのは、ソラが心の中で線を引いたからだよ。お父さんとお母さんが離婚して、ソラとわたしたちの間に線を引いたんだ。もうお前たちは家族じゃないって……」
言い返す言葉が見つからなかった。「そうじゃない」と言っても、それがまた嘘になることは分かっていた。ぼくは、十年前に諦めてた。両親の事情は大人の話だから、子どものぼくにはどうすることも出来ないと。それは、柚花より年嵩な分、賢しいのだと思っていたけれど、そうではなくて、ただ単に諦めただけなのだ。その代償が、乾いたような空虚な十年間だった。そして、ぼくは間違いなく、ぼくの前から去っていった母と柚花に線を引いた。もう、あの人たちは家族じゃないんだ、と。柚花の言葉で、はっきりとそのことに気が付いて、ぼくは愕然として、脱力するみたいに、柚花の腕から手を離した。柚花はぼくの顔を見て、再びきつく睨みつける。
「だから、心配してるなんて気安く言わないでっ」
「違う。それだけは嘘じゃない。例え家族じゃなくても、ぼくにとって柚花は大切な妹だ。それだけは嘘じゃないんだ。どうしたら……、どうしたら信じてもらえる?」
ぼくは、柚花に問いかけた。すると柚花はぼくに背を向けて、ただ一言、
「奇跡を起こしてよ」
と、言った。
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