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あの日あの時、空に気づかされたものは

作者: 泡月響怜

 空気の張り詰めた埃っぽい密閉された空間に僅かに光が漏れ出す。僅かな隙間から自然の浄化され潤った新鮮な空気が入り込んできた。久しぶりの外出だ。空気を目一杯吸い込んで力み隙間を拡げる。

 数日間開かれることの無かったステンレスの冷たさを持った扉が強く私を家に押し戻しながらも、なんとか外に出る。


 なるほど。扉が重かったのは風が扉の味方をしていたからか。この粘っこく纏わり付いて離さない風が、私にいたずらを仕掛け私が困る様を見て笑っていたんだろう。ここしばらくで筋肉が衰えたかと心配したがどうやらその心配はないらしい。奴はとっくに飛び去ってもう残滓すら残っていない。やりたいだけやって逃げるとは、全く失礼なやつだ。


 どうやら今日は厄日らしい。とんだ日に外に出てしまったようだ。突然今度は足が動かなくなった。湿気によりぬるやかになった地面が足をがっちりと掴んで離さない。思い切り足に力を込めて踏み締め蹴りつけると、さっきまでの動きづらさが嘘のように消え、勢い余って盛大に転んでしまった。


誰かに見られてやしないかと辺りを見回すと昼寝をしていた野良猫が飛び起きて私をじっと見つめている。毛を逆立てこちらを威嚇している様を見ていると無性に腹が立ってきた。

同時に動物であろうと無様な姿を見られたことに気がつくと、急激に羞恥の心が湧いてきた。カッとなり、体の制御が疎かになる。激情に駆られて無意識のままに野良猫を怒鳴りつけている自分を、冷静な自分が見つめていた。


ああ、すまない。お前を怒鳴るつもりは毛頭無かったのだ。

私の懺悔の念は野良猫には届くことはなく、昼寝をしていた

跡の残る寂しげな草むらだけがその場に残っていた。


どれもこれもあのぬかるんだ地面が悪い。やはり歩くには道路に限る。地面を押さえ固めた無機質な塊は、私を馬鹿にしないし、歩みの邪魔もしない。だというのに、快適でなんの不自由もないこの道路を何故だか寂しく感じている。そんなことは気のせいだと無理やり納得させるよう足ばやにその場を後にした。



 街路樹の乱立したあぜ道を抜けて、栄えた大通りに入ると車やバイク、自転車が絶え間なく通り過ぎ、目が回るようだった。視界の端に光がチラついてその方を見やると、猛スピードで突っ込んで来る自転車が目に入った。なんとか身をよじらせて避けると、チャラついた、いかにも軽薄そうな男はなんてことのないように上から私を一瞥すると何も言うことなく、さらに加速して通り過ぎていった。


なんて危険なんだ。少し見ないうちにこんなにも荒廃が進んでいるとは、全く嘆かわしい。大体なんだあの品性の欠片も感じさせない俗物的な格好は。ああいう浮ついた格好をしているからこのような行為を平然と行うのだ。

一休みしようと思って近くにあったベンチに腰を下ろして眼前の車を注視していると、出るわ出るわ。

赤い車高の低いスポーツカーは、平然と信号無視をしているし、黒の大型車は前の桃色の軽自動車の後ろに詰めて、煽り運転をしている。その詰められた軽四は焦りと恐怖からか、ふらついて今にも事故を起こしそうである。


その様子を見ていて、自分が今日厄日であることを思い出す。私は何かに巻き込まれぬようにとそそくさと逃げ出し、先を急いだ。


 ふと外に出た目的を思い出すようにポケットに手を突っ込んで家人に追い出されるようにして頼まれた流行りのドーナツなどというものを買う為の金が入っていることを確認すると、先程よりも歩く速度を上げ、さっさと買って帰って機嫌を直してやらねばという思いがいっそう強くなり、硬貨を力一杯を握りしめ、自身を戒めるように歩みを進めた。


 目的地に着いたは良いものの、道中では先の野良猫が、群れを引き連れて親の仇のように追い回してきた。私は悪くない。悪いのは私を転ばしたあの地面だ。しかしどんなに訴えても奴らは聞く耳を持たず鋭い眼差しで注意深く私を狙ってきた。しかし不幸の連鎖は止まず、命からがら逃げた先では地面の反逆の結果による小さな突起に躓き、またもや不様を晒すところであった。


 店の正面に立ち、玉のような汗を額に滲ませながら満身創痍で、例の店に入ろうとするときにふと疑問を覚えた。


こんなにも空いているものであろうか。


家人からは人気の店で行列が絶えないと聞いていたが、今は猫一匹もいない。おまけに大きく立派な煙突があるものの、そこからは塵一つ出ていない。

普段買い物をしない私であっても人気店がどのようであるかくらいは知っている。しかし、家人からは定休日があるなどとは一度も聞いた覚えがない。

これはどういうことであろうか。辺りを散策し裏手に回ったり、窓から中を覗き込んだりもしてみたが、どうにも人が見当たらない。


いくら定休日といえども仕込みの人間の一人や二人いるものではないのだろうか。ドーナツ屋と聞いて渋々引き受けながらも、心の片隅で甘い香りの漂うきらきらと幻想的な空間を夢見ていた私の純情を返して欲しい。


 そうこうしているうちに、扉の隅に小さなメモ書きが貼られていることに気がついた。

そこには『誠に勝手ながら一身上の都合により閉店する』と、悪びれた感じのしない、仕方なさを前面に出した文言が書かれていた。


ふざけるな!どいつもこいつもまるで自分は悪く無いかのように振る舞い、責任を転嫁して恥ずかしいとは思わないのか。


大体うちの家人もそうだ。私を小間使いかのようにぽんぽんと扱って。家に入って来た当初は奥ゆかしく器量良しでまったく女性らしいものだと感嘆したものだが慣れてくるとその本性を露わにしてきた。にこやかな笑みを浮かべた美しい花君は般若の様相を浮かべた暴君へと。今ではあやつが家を我が物のように君臨している。私はどこかで間違ったのだろうか。


深い思考の海に沈んでその場に立ち尽くしていると、店の裏手から微かに人の気配がした。回り込めば大きな荷物を背負った筋骨隆々の男が裏口から出て鍵をしていた。目が合うと男は一瞬驚いたかのような表情を浮かべたあとすぐに、呆れと少しの憐れみを含んだ視線を投げかけてくる。


思わず声をかけようと手を伸ばしたとき男がぽつりと一言「アンタも早く逃げな。」と言ったかと思えばもうこちらには目もくれずいそいそと行ってしまった。

 どういうことだ?あの男の意図が全くわからない。思えば今日はずっと何処かおかしかった。厄日では到底言い表せないほど狂っていた。風はいつもより意地汚く、地面もどこか不機嫌で、街に来てからも人間は足を止めることなどなく一刻も早くここから立ち去ろうとしているように思われて仕方がない。自分だけが知らず、他の全てが知っていること。一体なんだろうか。正解を見つけようと眼球をギョロギョロと彷徨わせていつもとは違うなにかを見つけた。


ただそれが何かなのかはまだわからない。確かにある違和感が次第に焦燥へと変わり、更に自分を追い詰めていく。血走った目が遂に飛び出そうかというとき、ようやく見つけた。


 空が、大気が暴れていた。

彼女はその大きな体に風のドレスを纏い、雷のティアラを身につけて薄い霧のハイヒールを履いている。

体をパンパンに膨らませ、哀怨な眼差しで下界を睨めつけ、目に大粒の涙を溜め込んだ姫君は今にも激情に駆られてこの街を溺れさせようと、機会を淡々と狙っていた。


弾かれたように大通りに戻ると、先の荒々しさが嘘のように凪いでいた。もはやこの世界に存在するのは私自身のみであると錯覚した。彼女は私に怒りをぶつけようとしているのだ。たった一人逃げ遅れた哀れな凡愚に。誰でもよかったのだろう。ただ受け止めてくれるものが欲しかったのだ。


やっぱり私の予感は的中していた。間違いなく今日は厄日だ。悟りにも似た諦めが心にぽっかりと穴を空け、何をしようにも体が動かない。目先で変わらず天上より憎々しげに見下す彼女を捉えていると段々と現状を理解し、恐怖が込み上げてきた。今すぐここから逃げなければならない。どこに逃げる?家か?高台か?いやどちらもここからは離れすぎている。今更走ったところで間に合わないだろう。家にいるあやつは無事であろうか。あそこは天然の要塞のようなところだきっと大丈夫だろう。


ああ、もう駄目なのかもしれない。恥の多い人生を送ってきたがこんなところで終えてしまうのか。そう思うと今度こそ完全に意識と肉体が分断され、鎌を携えた死神がすぐ後ろに立っているように感じてきた。体が意思とは関係なくガクブルと震える。怖い。怖い!

目は充血し、涙を滴らせ、鼻からは滝が怒涛の如く流れている。ガチガチと歯を鳴らし、膝が笑っている様はさぞ可笑しいものだろう。私は最後の最後まで恥なのか。


突如闇に呑まれた意識に一筋の光が差した。そこに映るのは家で待つ家人だった。私は非情だ理不尽だと罵倒したが、彼女はいつも決まってクスッと笑い私を叱ってくれた。

誰にも口出しされなかった人生。それを変えてくれたのは紛れもなく彼女だった。決められた人生の中でも自由に生きる君に嫉妬していたのだ。どうして望まぬ相手にこんなにも尽くしてくれるのかわからない。私は何一つ与えてはいないというのに。もう終わりだという今になって後悔している。そんな後悔すら光の中の彼女は全てを優しく受け止め、私を奮い立たせてくれる。


私は帰らねばならない。帰って彼女に真意を確かめねばならぬのだ。そして謝ろう。過去を清算し未来を共に歩んでゆくために。そう決めた途端に視界がどんどんと開け光り輝き、心の底から活力が無限に湧いてくる。これが愛か。こんなにも力を与えてくれるものなのか。彼女が一人で待っている。必ず帰るのだ。


地面を蹴り飛ばし、風を味方につけ縦横無尽に跳ね回る弾丸のように私は駆け出した。もう恐怖も死神もありはしない。

彼女の愛が起爆剤となり更にスピードを上げる。今この瞬間傀儡は糸をちぎり支配を逃れ自らの意思で行動するのだ。

私はもう止まらない。走って飛んで滑って一直線に目標を目指す。これなら必ず辿り着ける。そう思った。


 刹那、一滴の涙がぽちゃりと哀しい音を立てた。ぽつりぽつりと一滴だった雫は百に増え、万となり、億の槍となって街に降り注いで地を穿ち、怒りが轟音を響かせ鉄塔を焼き落とし、無慈悲のダンスが瓦礫もろとも地上を蹂躙する。


正にそこは地獄だった。先刻までの寂しくも悠然と佇んでいた街を暴風が薙ぎ払う。濁流がみるみるビルを呑み込み、車を押し流していく。見ればすぐ足元まで水が迫っていた。

急いで飛び退いたが無情にも水は変わらず迫ってきている。


どうする?退路も塞がれ、進路も凧糸のような心許ないものしかない。刻一刻と決断の時が近づいて焦らせる。

そうだ!私は決めたではないか!彼女の為に帰るのだ!

迷う必要などない。ただ真っ直ぐに進むしか残されていないのだ。こんな時でも彼女は道を示してくれるのか!ますます帰らねばならぬと決意した。


行動は早い。限界などとうに過ぎている。今行動できているのはただ私の帰りを待つ彼女への執念だ。みっともなくて良い。彼女に会える。ただそれだけで何にも代えられぬ喜びなのだ。かの天空の姫がどれだけ怒りをぶつけようと私を潰すことは出来ない。なぜなら私には強大な加護がある。あの光の差す先に行くべき場所がある。私の歩みを妨げるものは何も無い。見ていろ。私は生き残る。


それからはがむしゃらだった。服は泥に塗れ、足は震えてまともに立っていることさえ出来ない。ふと気づいた時には嵐は過ぎ去り、惨憺たる光景が広がっていた。ビルは殆どが倒壊し瓦礫の山と化し住宅街は瓦礫が流れる川のようである。我々が積み上げてきた叡智の結晶が一息にして崩れ去った。だがしかしなんだか違和感を感じることがある。瓦礫が私を中心にして形成されているように思えたのだ。私の行くべき方向には瓦礫によって舗装されたまっすぐと貫く道ができている。


私は再び気づいた。大空の姫は私に怒り狂っていたのではない。私の彼女に対する態度に腹を立てていたのだ。そして強引に背中を押し、彼女への気持ちを自覚させようとしたのだと、そう気づいた。

そういえば彼女は空が好きだったな。よく空に向かって呼びかけていたがちゃんと声は届いていたのか。申し訳ないことをした。


何やら背中が押されている感覚がある。これはあのいたずらな風だな。先のいたずらも私のためにやっていたのか。

そのまま背中を押されるようにゆっくりとしかし確実に帰路を辿った。


少しばかり歩けば見慣れた我が家が見えてきた。どうやら私の家は無事らしい。ステンレスの光る扉の前に人が立っている。私が気がつくと同時に相手も気がついたらしい。ぐんぐんと距離が縮まりそのまま胸に飛び込んできた。般若の化身だと思っていた彼女は想像とは違って柔らかく小さい。こんなにも愛おしいものに今までどうして気づかなかったのだ。自分を恥じて仕方ない。穴があったら入りたい気分だ。


泣きながら彼女は謝罪を口にしてきた。予報を見ずに外に追いやったこと、そのせいで死なせてしまったかもしれないと。

いいや違う。謝るべきは私の方だ。私がもっと君と話をしていれば良かったのだ。そう言うと彼女は声をあげて泣き出し、私を力の限り抱きしめてしばらくそうしていた。


泣き止み手を引いて家に入る折に彼女は空を見上げた。つられて私も見上げるとそこには、青く晴々とした空が凛として見守ってくれていた。






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