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情鳩  作者: 佐倉治加
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最終話

 ある日の午後。

 私たちは、一緒に映画を見ていました。鳩と一緒に行ける映画館はないので、家のパソコンで『ローマの休日』を見ました。今から八十年ほど前に制作された映画です。


 私の祖母がオードリー・ヘップバーンのファンで、幼い頃祖母の膝の上で白黒の画面を眺めていたような覚えがありますが、映画の内容は断片化されて、ちぎって小さくした紙のような形で私の頭の中に収まっていました。あの時膝に乗っていたと思っているのですが、もしかしたら祖母の部屋に折り紙を持ち込んで、折り紙のお弁当を作っていたかもしれませんね。

 

 祖母の私室は四畳半。

 小さな空間に小さな丸テーブルと小さなパソコン。いいえ、ディスプレイ付きのDVDプレイヤーだった可能性もあります。あの黒い薄い箱一つで、祖母は色々な映画を見ていました。母が少し癇癪持ちでもありましたので、母の機嫌が悪い時には、私はよく祖母の小さなお城に逃げ込んでいました。


 祖母は子どもと遊ぶような性格ではありませんでしたが、私が何をしても大概のことは許されました。それこそちぎった折り紙を部屋中に散らかしたって、祖母はディスプレイに映る架空の世界に夢中で、涙を拭いたり、笑い転げたりしていました。一本の映画を見終わる頃には、シルバニアファミリーの家具が床に散乱し、部屋の壁に落書きが増え、折り紙の工作が積み上がっていました。祖母はそれらを文句ひとつ言わず私と一緒に片付けて,あっという間に祖母の小さなお城に戻してしまうのでした。


 そのような性格の祖母が、一度だけとても嬉しそうにしたことがあります。それは祖母がローマの休日を見ていた時のことでした。

 私はオードリーが食べていたアイスクリームがとても美味しそうに見えて、白黒映画に映るアイスクリームを真似て絵を描いたのです。


 オードリーがとてもチャーミングだったので、きっといちご味に違いない,と思いました。私の中の可愛い女の子はいちごが大好きだということになっていたからです。ピンクで丁寧にアイスの部分を塗りつぶし、コーンには格子模様をつけました。


 それを切り抜いて祖母に渡しましたら祖母は、とても美味しそうね、と今までに見たこともないくらい唇を「うれしい」の形にして受け取ってくれました。そのとき、このアイスクリームはジェラートというのだと教えてもらいましたが、私にはアイスクリームとジェラートの違いは見当もつきませんでした。


 どちらも甘くて冷たいんでしょう、と祖母に聞きましたら、そうよ、冷たくてとびきり甘いの。と両手の指を絡めてうっとりとした目になりました。祖母はジェラートを食べたことがあったのでしょうか、それとも空想の中のジェラートが冷たくてとびきり甘かったのでしょうか。


 その数日後、祖母は脳溢血で倒れて帰らぬ人となりました。祖母の棺の中に、そのいちごジェラートを入れました。そして火葬場で骨になった祖母のそばには、もうジェラートはありませんでした。祖母が食べたことがあったのかどうか、もう知ることは叶いません。そして祖母の部屋は、家族の物置になりました。


 映画は佳境に入っていました。鳩は何を思っているのか、じっと画面を見つめています。

 オードリー扮するアン王女が、ローマは永遠に忘れられない街になると言った時、それが分かったのか、鳩は私を見つめて、アン王女のような面持ちでデーデーポッポーと鳴きました。


 くるり、と一度だけ回って見せる鳩。

 いつもと様子が違っています。


 どうしたの、と聞きましたら、鳩は窓を開けてくれ、というように窓と私を交互に見ました。それはいけない、と私は首を横に振りました。今になって、私は何ということをしてしまったのかと、激しい後悔に襲われました。

 ローマの休日を見て、鳩は私の元を去る決意を固めたのだとわかったからです。


 老いた鳩が死んだ後。

 私はその亡骸をどんな箱に入れようか。葬るのはお墓に参りやすい近所の河原か、それとも山の中がいいか、見晴らしの良い高台か。

 よほどのことがない限り、私の方が長生きする種です。

 愛するものを看取るのは、愛されたものの務めであると、鳩が目に見えて老いてから、鳩の死後を心配しておりました。


 しかし、鳩は私の考えの中にはいませんでした。

 窓を見つめる鳩はきっと死期を悟ったのだと、私は分かりました。


 十年も一緒にいれば、鳩がこのような時は意志を曲げないと分かっておりましたので、私の方が折れました。最後に一つだけ、お願いがある、と鳩に言いました。キスがしたかったのです。もう何度も嘴に唇で触れていましたが、最後にもう一度だけ。そう言いますと、鳩はいつものようにテーブルに飛び乗りました。私は泣きながらセーラー服に着替えました。


 出会った時の、鳩が愛した羽毛の私です。

 鳩は愛おしそうに少し瞬きをしました。


 床に座り、テーブルに乗った鳩の、赤くてグルグルの目と私の目を合わせました。そして、触れるだけのキス。ローマの休日のキスとは全然違う、長く続いた愛を確認する儀式でした。



 こうして、鳩が窓から飛び立った時、私は二十八歳でした。鳩は二度と戻っては来ませんでした。これで私は鳩の情婦ではなくなりました。あのセーラー服はもう、焼却炉の中で灰になったことでしょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公からみた世界が、面白かったです。 独特の語り口、好きでした。 [一言] 私が鳩との愛のかたちに悩んでいる姿に、おかしみと哀しさを感じながら読んでいました。 鳩と私のキスシーンが特にき…
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