第四話
役所を出て、私は小さな公園に寄りました。その公園の隣は保育園です。公園から中は見えませんが、いつも子どもの声が聞こえます。たまに、カラフルなお揃いの帽子を被った小さな子が、先生たちとお出かけをするのを見かけることもある、そういう場所です。
婚姻届けの用紙は手に入れたものの、提出できないことが分かり、何としても結婚したいと思っていた気持ちがしぼんでいきました。何故なのでしょう、あんなにも鳩と結婚したかったのに。
鳩には、幸せについてしっかり考えなければ、と言ったのに。私自身が私たちの幸せとは何かをぼんやりとしか考えていなかったのが露見してしまいました。
ベンチに座っておなかをさする私の傍に、鳩がやってきました。鳩と結ばれることなく流れていく細胞の卵がこの血の中にいるのでしょうね。ぼんやりとしているうちに、結婚も出産も白紙だったり流れたり。流れる時は、さっきのトイレの渦巻きのようなものに巻き込まれるのです。清流ではないことが決まっている分、排泄はすっきりするのでしょう。
大事そうなフリをしてクリアファイルに挟んだ婚姻届がトイレットペーパーだったなら。お尻を拭いてトイレに流すのに。それから、鳩とスキップでもして帰りましょうか。
鳩は私の隣で小さく、喉を鳴らしていました。
保育園の門がギィと開いて、男の子がお父さんらしき人と手を繋いで出てきました。保育士さんがさようなら、と声をかけると、男の子が元気にさよなら!と言い、男性は会釈をしました。二人は私たちの前を通り過ぎていきました。公園から出る二人の背中をずっと見つめていますと、その光景の持つ正しさを感じずにはいられませんでした。
鳩と私ではこうはならない。生物的な正しさではない。生物的な正しさに心が動かなかったのだから、それは私という存在に関していえば正しいし、鳩も正しいのでしょう。
私は、この関係に何度も言い訳をしていたので、これくらいの言い訳くらい朝飯前です。でも、喉に引っかかった小骨は取れはしませんでした。しかし、小骨が刺さったままでも、薄目を開けて幸せらしきものを掴みに行くのです。
鳩がデーデーポッポーと鳴きました。それは甘く、警告ではありませんでした。
結婚? 成り行きよ、なりゆき。
そう言ったのは、石井さんでした。
寒さが緩み始めた2月下旬の職場、今日は工事現場の警備応援でした。土砂運搬の大型トラックの出入りが多いからと、石井さんと二人で応援に行きました。
警備に立った場所から一本の梅の木が見えました。マスク越しでは香りはわかりませんでしたが、鼻をかもうと少しずらしたときに春の匂いが鼻先を掠めていきました。
いい香りよね、と同じようにマスクをずらした石井さんが私に言いました。そうですね、と言って私はマスクを引き上げ、鼻をかんだティッシュをポケットに押し込みました。石井さんは隣に立ったままポケットからハイライトの箱を取り出し、一本口にくわえて火をつけました。午前の小休憩の時間でした。梅の匂いはマスク越しでは分からないのに、煙草の匂いは良くわかります。
私たちは暫く、梅の木を見つめていました。天気のよい風のない日で、山の向こうに続いていく、鉄塔と鉄塔を繋ぐ電線がじっとしていました。目に映るもので動いているのは、畑の中の赤いトラクターだけです。
そのとき、梅の木に小さな鳥が止まりました。
メジロ、と石井さんが言いました。
あの小鳥がメジロだということを、私は知りませんでした。石井さんがメジロだというのでメジロなのでしょう。小鳥が花の間をせわしなく動くので、風が吹かないというのに、梅の花が細かく揺れています。
石井さんが吸い終わった煙草を携帯灰皿に始末しようと、小さな入れ物の蓋を開けたので、石井さんに結婚って難しいですか、と聞きました。石井さんは、難しくないよ、と言いました。
紙に名前書いてハンコ押して、そんで役所に出すだけだもん。石井さんは面白くなさそうに言いました。もしかしたら「ツレ」さんの愚痴が溜まっているのかもしれません。
石井さんは顔を顰めてタバコをもう一本出し、火をつけました。タバコの先が、石井さんの呼吸に合わせて赤くなったり灰色になったりしています。風がないので、燃え滓がタバコにくっついたまま広がっていきます。私はタバコの匂いは苦手でしたが、灰が増えていくのを見るのは好きでした。
よく考えてから出したほうがいいよ、出すのはすぐ出来るけど、その後が大変だから。と、石井さんは何が大変なのかを、自分の経験を混ぜて喋り始めました。ついさっき、成り行きと言っていたのも、きっと経験なのだろう、と思いました。
場内で大型のショベルカーが動き始めるまで、石井さんの結婚して大変だったことの話は続きました。きっとお弁当の時間も続くことでしょう。
石井さんのいいところは、周りの人にそれほど興味がないことです。だから、私は安心して結婚届のことを石井さんに聞くことができました。案の定、石井さんは私の相手が誰なのか、なんて詮索しませんでした。
石井さんの話は、いつも相手を求めていません。多分路傍の石でもいいのだと思います。世間体がそれを許さないので、人間に向かって話しかけているだけのことです。その証拠に、石井さんの目線はいつも私を素通りしていました。きっと視界に私はいるのに透けてしまって、もっと遠くを見ている目なのです。それが私をひどく安心させるのでした。