第二話
高校を卒業してから、私は近所の飲食店で働いていました。イタリアンのファミリーレストランです。しかし、時代が令和になった途端、新型コロナウイルス感染症の影響で仕事を辞めざるを得なくなりました。
このままでは食べていかれませんので、私は求人広告に端から端まで目を通し、警備の仕事につくことにしました。鳩は相変わらず鳩でした。
勤務先のアネモネセキュリティーという警備会社は、イベントや駐車場工事現場などに警備員を派遣している会社で、私はそこで石井さんという人に出会いました。
金髪の生え際は白と黒が混じっていました。上目遣いに見える三白眼、夏を経て日に焼けたのだろう小麦色の頬。時折マスクを外した時に見えるのは、薄ら口紅の付いた分厚い唇。何より石井さんの特徴は、かじかむ手でハイライトのタバコを吸うところです。
私はタバコを吸ったことはありませんが、石井さんはもうずっと吸っていると言いました。とても不味そうに吸うので、なぜタバコなんて吸うんですか、と聞きました。石井さんは、辞められないからと言って、もう一度不味そうに顔を顰め、煙を口からふぅと吐き出しました。
勤め始めた時、季節は冬になっていました。冬の警備はとても寒いもので、私は当たり前ですがセーラー服ではなく、警備会社から支給された深緑色の制服を着ていました。石井さんも同じものを着て、ネックウォーマーに口元を埋めています。感染対策で必ずマスク着用するよう、会社から通達がありましたので、私たちは不織布越しにしか話ができないのでした。冬の寒さで、吐く息に含まれた水分が、すぐにマスクに付着してぐちゃぐちゃになってしまいました。
お昼休みに、私たちは並んでお弁当を食べました。その時だけはマスクから解放されるのです。
石井さんのお弁当はいつも美味しそうでした。お弁当を食べながら、石井さんは仕事以外の話をしました。それは専ら「ツレ」さんについてでした。「ツレ」と石井さんが口にするのは石井さんの旦那様のことだそうです。
石井さんはお弁当を食べながら「ツレ」さんについて様々なことを私に教えてくれました。パンツをたくさん買って箪笥に入れているのだとか、そのパンツは使われることがないのだとか。非常用のパンツだという「ツレ」さんの箪笥一段を占めるパンツは、今後も増え続けることでしょう。
他には、一緒にファミレスに行こうっていうから行ったのに、コロナのせいで閉店間際で、結局スーパーでお惣菜を買ったとか。「ツレ」さんは悪くないのでは、と私がいうと「ツレ」の準備が遅かったから飲食店が閉まったの、と言っておにぎりを齧りました。それを聞きながら、私は、まだ開いている飲食店があって羨ましい、と思いました。私が働いていた安価なイタリアンレストランは、滅びてしまったので。
あるとき、私は家にお弁当を忘れてきてしまいました。それを知った石井さんは二個のおにぎりのうち一個を私にくれました。タラコ味でした。その、いただいたタラコおにぎりに齧りついた時でした。
石井さんは不意に、不育症だったの、と言いました。ふいくしょう、と聞き返した私の方を、石井さんは少しも見たりしませんでした。拾われなかった私の声は、タラコおにぎりの米とたらこのつぶつぶに塗れていました。これは、石井さんの策略だと思いました。魚になれなかった卵たちが私の口の中にいました。
本当は赤ちゃんが欲しかったんだけどね、ダメだったんだ。病院で不育症って言われて、と石井さんは無感情に喋りました。石井さんの前には、齧られたタラコのおにぎりが一つ。ピンク色の中身が見えています。そして、ウインナーとほうれん草のおひたしが入ったお弁当箱。それらのオーディエンスが石井さんの話を聞いていました。
妹が子ども二人産んでてさ、たまに会いに行くからいいんだ、と言って石井さんはウインナーを食べました。それで妹の子どもなんだけどさ、と石井さんが話を続けて、それ以降不育症の話は二度と出てきませんでした。
あれはなんだったのだろう、と今でも思い出すことがあります。
石井さんはぼろりとした気持ち、誰にも見つけてもらえなかった気持ちを言いたかったのではないか、と私は思うのです。
だって、妹が子ども二人『産んでて』さ。と言った時、産んでてがカラッとした音だったのです。鳩のデーデーポッポーのような愛おしいと思う気持ちがなかった。
鳩がツレである私には、不育症という病気以前に子どもを望むことはできないのですが、もし鳩との間に子どもができたら、それは愛おしいのだろうかと考えたりもしました。
私の卵巣に存在する、人になるかもしれない細胞たちは可哀想なのか、それとも細胞のまま終わってしまっておめでとうと言うべきなのか。二十と少しの年月しか生きていませんでしたので、私にはこの細胞たちに与えるべき最適な未来が全く分かりませんでした。
仕事上がりには、真冬の道を家まで歩きます。警備の服は重たいくせに冷たくって、なんて不自由なんだろうと思う反面、不自由を満喫している気がしていました。すっかり暗くなってしまった大寒の道。街灯が点滅する道をてくてくとアパートまで歩きました。
私が帰ると鳩はメタルラックに置いた、鳩用の籠の中にいました。
部屋の電気をつけたら、目を覚ましたようです。ぐるぐるの目で私を見つめてきます。ただいま、というとクウクウと喉を鳴らしました。
籠から出てきた鳩は私のそばに飛んできて、いつものように回ります。デーデーポッポーと鳴きながら。
鳩、私ね、今日不育症の話を聞いたのよ。
デーデーポッポー。
鳩はクルクルまわります。私はこの鳩と幸せになったりするのでしょうか。いいえ、そのために連れ合っているわけではありませんので。