09.王太子
「王太子殿下は剣を抜きかねない勢いで……どうか、お諫めください!」
焦った様子で声を張り上げる侍女を、セシリアは冷ややかに見つめる。
すぐにセシリアに泣きついてくる侍女の態度には、いささか疑問があった。
セシリアにローガンを諫めさせようとするのは、いかがなものだろうか。
もし、セシリアが両親に愛されていて、彼らがセシリアの言葉なら聞き入れるというのなら、まだわかる。
だが、そうではない。まだ前世の記憶が戻る前にも同じようなことは何回もあったが、どれもセシリアが激しく罵られただけだ。
矛先をそらすための生贄にされているとしか思えなかった。
「……案内して」
だが、それでも婚約破棄という、穏やかではない内容を確かめたいという気持ちのほうが、勝った。
セシリアが頷くと、侍女はほっとした様子で案内を始める。
行き先は、第二王子の住まう宮殿だ。
ローガンが娘の婚約破棄に怒るとは、まさか娘に対する愛情がわずかなりともあるのだろうか。セシリアは自分のことでありながら、どこか他人事のようにそう考える。
アデラインの父は、きっと娘の婚約破棄に怒ってくれたことだろう。
だが、それを確かめることもできず、アデラインは亡くなってしまった。
その元凶の一人がローガンであることを思えば、自分が婚約破棄をやらかしておいて、怒る資格などないだろうと、セシリアは苛立ちを覚える。
「婚約者が決まったなど、ふざけたことをぬかすな! セシリアはどうなる! 婚約破棄など許されないぞ!」
宮殿では、ローガンの叫びが廊下まで響いてきた。
どの口でそれを言うのかと、セシリアはうんざりしながら、叫び声の聞こえる部屋に近づいていく。
「何をおっしゃっているのですか、兄上。ギルバートとセシリアは婚約などしていませんよ」
そこに冷静な声が響いて、セシリアは扉の前で足を止めた。
第二王子ジェームズの声だ。
聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。婚約していないとは、どういうことだろうか。
「以前、将来セシリアとギルバートを娶わせようと言っていたではないか!」
「それは、そういう可能性もあると話していただけでしょう。それに、仮にそう言っていたとしても、正式に婚約しているわけでもない以上、効力などありませんよ」
ローガンとジェームズの会話に、セシリアは頭を抱えたくなった。
どうやら婚約しているというのは、ローガンの独り合点だったようだ。
正式な婚約とは、書面を交わすものである。それもなしに婚約が成立していると思っていたのかと、頭が痛い。
「だが、それでも……!」
「それにしても、婚約破棄が許されないなど、よく言えたものですね。自ら命を絶った哀れな令嬢のことはお忘れですか?」
追いすがろうとするローガンを、ジェームズの冷たい声が遮る。
その内容に、セシリアは握り締めた手に力が入るのを感じながら、じっと続きを待つ。
間違いなく、アデラインのことだろう。
「いや……しかし、あいつは敵国と通じて……」
「まず、隣国ローバリーは敵国ではなく、友好国です。しかも、かの令嬢が隣国と通じていたという証拠は一切ありませんでした。兄上たちがそう言っているだけでしょう。そもそも、自ら命を絶ったというのも、本当のことかどうか……」
「なっ……まさか、僕が殺したとでも言うつもりか!?」
「私はそこまで言っていませんよ。ただ、先代のローズブレイド公爵があのようなことにならねば、大々的な調査が行われた可能性は高い。そうすれば、今頃兄上は王太子でいられたかどうか……その悪運の強さこそ、兄上が唯一お持ちの王の資質なのかもしれませんね」
ジェームズが場を支配しているようで、ローガンはたじたじになっている。
しかも、ジェームズはあからさまにローガンを嘲笑い、棘のある態度を隠そうともしない。
どうやらアデラインの真実をジェームズも知っているようだが、それを正すつもりはないようだ。おそらく、彼にはそうしたところで利点もないのだろう。やりきれなさはあるが、深入りを避けることは理解できる。
さらに当時、アデラインの父にも何かが起こったようだ。もしアデラインの父が健在だったならば、アデラインの冤罪も晴れた可能性があるらしい。
だが、そうはならなかった。もしかしたら、ローガンがアデラインの父を害したのではないかという考えが、セシリアに浮かぶ。
「話を戻しましょう。ギルバートは、将来王位を継ぐことになるでしょう。その妃としてふさわしい、モラレス侯爵家の令嬢と縁を結ぶこととなりました。ギルバートの良い後ろ盾となってくれることでしょう」
「た……たかが、侯爵令嬢ではないか。セシリアは王女だ」
「ええ、何の後ろ盾もない、ね」
ジェームズの冷たい一言で、ローガンは言葉に詰まったようだ。
「兄上の妃はろくに力も持たぬ男爵家の出に過ぎない。私の妃は名家ハワード侯爵家の出身、そして息子もモラレス侯爵家と縁続きになるとなれば……貴族たちは誰を支持するでしょうね」
「なっ……まさか貴様、王位を狙っているのか!?」
「いえいえ、将来の王となるのはギルバートですよ。ただ、その時期が早まるかもしれないというだけです」
次の王はローガン、さらにその次がギルバートというのが、現在の見方だ。
だがジェームズは、ローガンを飛ばしてギルバートが王になることを示唆しているのだろう。
とっさに言い返さないあたり、ローガンも自分に後ろ盾が乏しい自覚はあるようだ。
「そ……そのようなこと……そうだ! ギルバートを僕の養子によこせ! そうすれば、順番を狂わせずにすむだろう。親から子、そのまた子へと流れていくのが、正しい姿だ。本来、ギルバートは僕の娘婿になるはずだったんだから、本来の流れに正すだけだ」
「お話になりませんね。お断りします」
ローガンの苦し紛れの提案は、当然のことながらあっさり断られた。
そして、ローガンがセシリアとの婚約破棄など許さないと怒っていた理由はこれかと、セシリアはもはやため息すら出ない。
ギルバートがローガンの手の内から抜け出すことにより、自分の王位が危うくなることを恐れていたのだ。決して、セシリアのためではない。
「さて、お話は終わりですね。どうぞお引き取りください。……もし、ローズブレイド公爵令嬢を娶っていれば、このような悩みなどなかったでしょうにね」
「くっ……覚えていろよ!」
捨て台詞を吐いて、ローガンは荒々しく部屋を出てきた。
そして、扉の前にいたセシリアとばったり出会ってしまう。
ローガンは一瞬、驚いたようだったが、すぐにセシリアを睨みつけてくる。
「……お前が男でさえあったなら、こんな屈辱を受けることもなかったというのに! この役立たずが!」
案の定、ローガンはセシリアに苛立ちをぶつける。
「ヘレナの奴も忌々しい……! あいつが王子を無事に産めなかったのが悪いんだ! 離婚も再婚も許されないというふざけた縛りさえなければ、今すぐにでも……」
「いいかげんになさいませ」
冷たい声で、セシリアはローガンの言葉を遮る。
ローガンは唖然とした顔で言葉を引っ込め、セシリアを見つめてきた。これまでおとなしく、口答えなどしたことがなかったセシリアが言い返してきたことに、驚いているようだ。
「お前……」
「場所をわきまえてください。誰が何を聞いているか、わかったものではありません。不用意な発言はお控えください」
きっぱりと諭すセシリアに、ローガンは目を白黒させる。
怒鳴って叱りつけるべきか迷っているようだが、ローガンは周辺にちらりと視線を投げて、結局は口をつぐんだ。
何も言わずに、大きく足を踏み鳴らしながらセシリアの横を通り過ぎていく。
その後ろ姿を眺めながら、セシリアの胸に広がるのは、腹立たしさよりも虚しさだった。