55.セシリアの葛藤
「……ふざけないで」
誰もが口を開かず、沈黙が広がる場に、セシリアの小さな呟きが響く。
「どうして! どうして! どうしてなのよ……!」
地面を拳で叩きつけながら、セシリアは叫ぶ。涙がぼろぼろとあふれ出し、目の前の景色が歪む。
さらに何かを叫ぼうとするが、口から出るのは言葉にならない嗚咽だけだ。
「セシリア……」
そっとエルヴィスが近寄ってきて、セシリアの手を取って包み込む。
セシリアはエルヴィスの胸にしがみついて、泣いた。人々にこのような姿を晒すべきではないのに、涙が止まらない。
その背に優しく腕を伸ばして数回さすると、エルヴィスはセシリアを抱き上げた。
「森に刺客が倒れている。回収しておけ。それと……侍女を呼んで、王太子妃を綺麗にして差し上げろ」
騎士たちにそう命じると、エルヴィスはセシリアを抱えたまま歩き出す。
かなり取り乱したセシリアだったが、見送る騎士たちの目は同情的で、痛ましそうな顔をしていた。母親をこのような形で喪ったのだから、当然だろうといった様子だ。
エルヴィスは少し離れた場所にある馬車まで行くと、二人で中に入って扉を閉める。
「……ここなら、誰も見ている者はいません」
「ごっ……ごめ……ううっ……ごめんな……さい……」
まだ問題が解決していない状況で、セシリアの個人的な事情のために時間を取らせてしまっている。
心苦しいのに、それ以上に気持ちがごちゃごちゃで、己を抑えられない。
「謝ることなどありません。悲しいのは当然のことです。いくら恨みを抱いていても、人の心はそう簡単に割り切れるものではないのですから」
「ちがっ……ちがうっ……の……」
しゃくりあげながら、セシリアは何回も深呼吸しようと繰り返す。
勝手に嗚咽が漏れるのがおさまるまで、ひたすら呼吸をすることだけに専念する。
その間、エルヴィスは何も言わず、ただセシリアの背中をさすっていた。
「……ちが……うの……ヘレナのために泣いているんじゃない……自分を哀れんでいるだけなの……」
ようやく少し落ち着いてきたセシリアは、涙を拭いながら呟く。
「散々ひどいことをしてきたくせに、たったこれだけで母親の役割を果たしたような顔をして、満足して死んでいくなんて……ふざけないで……ふざけないでよ……」
言葉にすると、再び涙がこぼれてしまう。
また嗚咽になってしまわないよう、セシリアはいったん口を閉じてから、ゆっくりと深呼吸する。
「素直に悲しんであげられない自分のことが、嫌……恨み言が先に出てしまうのが、嫌……命を捨ててまでかばってくれたのに、たったこれだけと言ってしまう自分が嫌……」
ややあって、ぼそぼそと漏らす。
セシリアの心に浮かぶのは、己への嫌悪感だ。
「何より嫌になるのが、かばってもらえて嬉しかったことなの……少しは愛されていたのかと、喜んでしまう自分が嫌い……あれだけひどいことをされてきたのに、憎しみを忘れてしまいそうになってしまう……」
セシリアが三歳の頃から、今の十五歳に至るまで、ずっと罵声を浴びせられてきた。それなのに、このたった数日守ってもらっただけで、それまでの月日が流されようとしているのだ。
これまでのつらい思いは何だったのか。簡単に忘れられるのか。ずっと苦しんでいた自分のことが哀れで、嘆いているのだ。
「罪を暴くと決めたのに……敵としか思っていなかったはずなのに……許せない、許したくない、許しては駄目……だって……私が許してしまったら……」
ヘレナは、アデラインを不幸にした元凶の一人なのだ。
これでセシリアがヘレナを許してしまっては、姉の敵を討とうとするエルヴィスに対する、裏切りとなってしまう。
「もし、私のことを考えて許してはいけないと思っているのでしたら、その心配は無用です」
ところが、ずっと黙ってセシリアの側にいたエルヴィスが、まるで心を読んだかのように口を開いた。
セシリアは唖然としてエルヴィスを見つめる。
「彼女は、おそらく姉の死に直接関わってはいないでしょう。それでいて、いまわの際に姉の名を出すほど、ずっと罪の意識に囚われていました。その苦しみを思うと……私は、もう十分だと思いました」
静かに、エルヴィスは語る。
その表情は穏やかで、優しかった。やや上向きに遠くを見ているようで、何らかの区切りをつけようとしているのかもしれない。
前に進もうとする意思が感じられ、セシリアは自分がエルヴィスの足を引っ張る存在に思えて、苦しくなってくる。
「でも、だからといって必ずしもあなたが許す必要はありません。あなたが受けた苦しみは、あなたにしかわからないのです。あなたは、あなたの好きなようにすればよい。私はあなたに寄り添い、共に歩んでいきましょう」
寄り添うエルヴィスの温もりが、セシリアに伝わってくる。
今は気持ちがぐちゃぐちゃで、どうしてよいのかもわからない。だが、何かを強要することなく、共に歩んでくれるエルヴィスのおかげで、心が軽くなってくる。
ヘレナは罪を自覚して、苦しんでいた。
王太子妃となりながらも、周囲から認められることもなく、心を病んでいった。それは自業自得ではあったものの、報いは受けていたといえるだろう。
それが正しいかどうかはともかく、自分の命を顧みず、罪に対する償いもした。
今はいったん、それでよいことにしておこうと、セシリアは己の心の中を区切る。
不幸の元凶は、まだ残っているのだ。
それも、ろくに報いを受けてもいない者が。










