05.女子生徒の噂話
「あ……セシリア……で……す……」
震える声で、セシリアはどうにかそれだけを紡いだ。
淑女の挨拶としては失格もよいところだが、驚愕に打ち震えるセシリアにしてみれば、それだけでも口にできたのは、奇跡のようなものだった。
もっとも、セシリアが王家の出来損ないという話を聞いているのか、エルヴィスは無作法さに眉をひそめるような素振りもなく、微笑みを崩さない。
「この先に生徒用の教室はありませんが、何か御用がおありでしたか?」
「い……いいえ……迷ってしまって……」
穏やかに問いかけてくるエルヴィスに、セシリアは足下がおぼつかないような気分のまま、ぼそぼそと答える。
「そういえば、殿下はご入学されたばかりでしたね。よろしければ、一年生の教室までご案内いたしましょう」
「え……?」
思いもよらぬ申し出だったが、頷くことも断ることもできずに呆然としていると、エルヴィスはこちらですと案内を始めてしまった。
セシリアは慌てて、エルヴィスについていく。歩みをセシリアに合わせてくれているようで、早足で追いかける必要はなかった。
エルヴィスに付き従っていた者たちは何も言うことなく、少し離れて二人の後ろを歩いてくる。
本当は色々と尋ねたいことや、話したいことがある。
だが、いったい何を言えばよいのかと戸惑い、セシリアは何も口にすることができない。
ちらりとエルヴィスの様子をうかがってみれば、前世ではアデラインの胸あたりまでしかなかった身長がすっかり伸びて、見上げねばならないくらいだ。
すっきりと整った顔立ちからは幼さなど消え失せ、かつての面影はあるものの、大人の男性なのだとセシリアは心がかき乱される。
アデラインのときは十歳年下だったエルヴィスだが、今は逆にセシリアよりも十歳年上なのだ。
可愛い義弟が、急に別人になってしまったような戸惑いを覚える。だが、セシリアにしてみればまともに顔を合わせるのは初めての、赤の他人でしかない。
しかも、アデラインの記憶というのは、十七年も前のものなのだ。
セシリアとアデライン、両方の記憶や感覚が入り混じって混乱する。
「さあ、こちらです。殿下なら、こちらの教室でしょう。それでは、私は失礼いたします」
結局、何も言えないまま、教室に着いてしまった。
エルヴィスは礼儀正しかったが、彼もまた何も言わず、どこか冷たい壁のようなものを感じる。
その態度にセシリアは心苦しさを覚えながらも、考えてみれば、今の自分は彼にとっては義姉の仇の娘ということになるのだ。
むしろ、よく表面上だけでも礼儀正しく振る舞っているものだといえるだろう。
「あ……ありがとうございました」
立ち去ろうとするエルヴィスに向け、セシリアは慌てて礼を述べる。
すると、儀礼的に返礼するエルヴィスと、セシリアの目が合った。
その途端、これまで無感情だったはずのエルヴィスの藍色の目に、驚愕の色が宿った。かつて見知った、幼いエルヴィスの瞳に感情が揺らめく様が思い起こされるようで、懐かしさがわきあがってくる。
だが、次の瞬間には波立ったはずの感情が、穏やかに凪いでいた。もしかしたら、見間違いだったのだろうかと思うほどだ。
セシリアが今のは何だったのだろうと呆然としているうちに、エルヴィスは背を向けて去っていく。
遠ざかっていくエルヴィスの後ろ姿が見えなくなるまで、セシリアは立ち尽くした。
「あ……あの……セシリアさま……?」
そこに声をかけられ、セシリアははっとして現実に引き戻される。
振り返ると、教室にはすでに数名の女子生徒がいて、セシリアに注目していた。代表してなのか、その中の一人が遠慮がちに声をかけてきたのだ。
「はい……何でしょう?」
緊張しながら、セシリアは声をかけてきた女子生徒に向き合う。
前世の記憶が蘇ってからは、他人とも普通に関われると思っていたが、いざその場面になると、少しだけ足がすくむようだ。セシリアの性格が完全に塗り替わったわけではないらしい。
しかし、以前ならば返事ができたかどうかすら不明なので、変化しているのは確かだ。
声をかけてきた女子生徒は、クラスメイトとして顔を見たことがあるような気はするが、あまり印象には残っていない。
名前も覚えていないのだが、同じクラスということは、どこかの貴族令嬢であるはずだ。
「今のは、ローズブレイド公爵さまですわよね……? あのお方が、何の御用だったのでしょうか?」
「いえ……私もよくわかりませんの。恥ずかしながら、私が校舎内で道に迷っていたところを偶然お会いして、教室まで案内していただいただけなので……」
質問されて、セシリアは素直にそのままの事実を答える。
言われてみれば、エルヴィスが何故この校舎内にいたのだろうかと、セシリアも疑問を抱く。
彼は二十五歳のはずで、おそらく学園に通ったことはあるのだろうが、とっくに卒業しているはずだ。
まして、この校舎は女子生徒用で、仮に学生だったとしてもエルヴィスが通う校舎ではない。
ただ、教師には男性もいるようなので、まさか教える側の立場なのだろうか。
「まあ、そうでしたのね。学園に多大な寄付をしていらっしゃるそうなので、その関係なのかもしれませんわね。ところでセシリアさまは、ローズブレイド公爵さまとお親しいのでしょうか?」
「……いいえ、これまでに少しだけ噂を聞いたことがあるくらいで、あまり存じ上げませんの。もしご存知でしたら、どのような方かお聞かせくださいませんか?」
思い切って、セシリアは尋ねてみた。
かつての義弟が世間からどのような評価を受けているのか、興味があったのだ。
すると、女子生徒はどことなく得意げにも見える、嬉しそうな微笑みを浮かべて頷いた。
「ローズブレイド公爵家は一時期、令嬢の事件や跡目争いで落ち目になっていましたけれど、それを立て直したのが今の公爵さまですわ。優秀で見目麗しく、まだ独身とあって、令嬢たちの間では誰が彼を射止めるのかで話題になっていますのよ」
「最近は多少の身分の違いがあっても結婚が認められるようになってきていると、言い寄る令嬢は多いらしいですわよ。でも、公爵さまと親しくしている令嬢の噂は聞きませんわね」
「姉君の件で女性が苦手になったという噂もありますわよね。かんしゃく持ちで、かなりきつい方だったという話ですし……いじめられていたのかもしれませんわ」
女子生徒が話し始めると、これまで少し遠巻きにうかがっていた他の女子生徒も話に加わってきた。
それ自体は歓迎なのだが、話の中に驚きの内容があって、セシリアは唖然とする。
王太子夫妻の評判を高めるため、アデラインが悪役になっているのは知っていたが、かなり事実と異なる扱いをされているようだ。
「でも、姉君は実は噂とは違う方だったという話もありますわよね。王家が……」
「あら、ごきげんよう」
セシリアはじっと黙って、女子生徒の声に耳を傾けていたが、高圧的な声で場が引き裂かれた。
せっかくの気になる話を遮られたことに内心苛立ちを覚えながら、セシリアは声の主に振り向く。
すると、そこには見覚えのある女子生徒が二人いた。
入学した日に、セシリアに友達になってあげると声をかけてきた二人だと、セシリアは思い出す。
確か二人とも、上位貴族の令嬢だったはずだ。
「昨日はお休みになったから心配していましたのに、お友達である私たちを差し置いて、他の方と仲良くしているなんて……手ひどい裏切りですわ」
悲しげな口調に、隠しきれない嘲りの滲んだ声が響いた。










