38.口づけ
朝食の席で、セシリアは再びエルヴィスと会う。
エルヴィスはいつものように身なりを整えていて、訓練場で見た気楽な姿から遠ざかっていた。
セシリアが去るときには、騎士たちにもみくちゃにされていたはずだが、その名残りも見当たらない。
だが、己の想いを自覚してしまったセシリアは、エルヴィスの姿がどうのというより、同じ部屋にいるというだけで、何となく落ち着かなくなってしまう。
「……先ほどは、お見苦しいところをお見せしました」
やや気まずそうに、エルヴィスが口を開く。
セシリアがそわそわとした様子なのを、訓練場での出来事が原因と思っているようだ。
「い……いえ、何も見苦しいところなどありませんでしたわ。騎士たちと、信頼し合っているのですわね。私も温かい気持ちになりましたわ」
慌てて、セシリアは誤解を解こうとする。
一人の若者らしいエルヴィスの姿を見ることができて、むしろ嬉しかった。彼にも心のよりどころがあったのだと、セシリアも救われたような気分だったのだ。
「そのように言っていただけると……まずは、食べてしまいましょうか」
照れ隠しなのか、エルヴィスは強引に話を打ち切った。
その様子を見て、少し緊張していたセシリアも、肩の力が抜ける。
「ええ、スープが冷めてしまいますものね。食事の後、少しお時間をいただけますか?」
「もちろんです」
今、先ほどのケヴィンの話をしては、食事どころではなくなってしまうかもしれない。少なくとも、味がまずくなってしまうのは、確実だ。
後から話すことにして、まずは食事を始める。
王太子宮では食事は冷めたものばかりだった。今はせっかく温かいスープが目の前にあるのに、冷ましてしまうのは冒涜だ。
二人は和やかに食事を終えると、談話室に移動した。
お茶を準備して、使用人たちは部屋から出ていく。
エルヴィスと二人きりになると、セシリアは緊張が襲い掛かってくる。落ち着かせるためにお茶を一口ゆっくりと飲んでから、口を開いた。
「……先ほど、隣国王から話がありました。王太子を排除するのに協力したい、と。ローズブレイドを引き込むのと……私を正妃にというのが条件のようですけれど……」
セシリアは、先ほどのケヴィンの申し出を説明する。
詳しく話している間も、エルヴィスはずっと穏やかに微笑んでいたが、目には剣呑な光が宿っていた。
「論外ですね」
セシリアが話し終えるなり、エルヴィスは断言した。
口元は笑っているのに、全身から怒りが立ち上っているかのようだ。
「あなたを正妃にとは、そこまでの恥知らずでしたか。王国から離脱するだけならば、まだ検討の余地はありましたが……婚約解消など冗談ではありません。私からも断っておきましょう」
「交渉して、王国からの離脱だけを条件に、ある程度力を貸してもらうのは……」
「それも却下です。あなたを狙っているような輩と、手を組めるはずがありません」
エルヴィスは、ケヴィンの申し出をかけらも受け入れる気はないようだ。
確かに、部分的に手を組んだところで、いつ手のひらを返されるかわかったものではない。セシリアも、ケヴィンを信用できる相手だとは思えなかった。
「申し出は断って、いいかげん追い返しましょう。まだ出ていかないつもりなら、そろそろ荷物を外に放り出してしまえばよい」
苛立ちもあらわに、エルヴィスは言い捨ててお茶を口に含む。
これで結論は出た。あとは、断った後にケヴィンがどういう反応をするかが恐ろしいが、それはそのときだろう。
それよりも、セシリアには確かめておくべきことがある。
「あの……もし、首尾よく全て罪を暴くことができたとして、その後はどうするのでしょうか……?」
セシリアが問いかけると、エルヴィスは不思議そうな顔をする。
「どう、とは? ああ……王国に留まり続けるのか、ということですか? それは黒幕が誰だったかと、そのときの状況にもよりますが……」
「い……いえ、そちらではなく……あなたと私のことで……」
ますます、エルヴィスの表情が怪訝なものになっていく。
「結婚式をいつ挙げるのかですか? 通常ならばあなたが学園を卒業したらすぐですが、これからの状況次第で変わってくるので、今は何とも……」
「その……全てが終わった後も、あなたの隣にいてもよいのですか?」
そう尋ねると、エルヴィスが目を見開いてセシリアを見つめてくる。
しばし唖然としていたエルヴィスは、ややあってから目を閉じて額を押さえ、大きなため息を吐き出した。
「……当たり前でしょう。私は、それほどあなたを不安にさせてしまっていましたか? あなたを愛していると、ずっと伝えてきたつもりだったのですが」
「それは……一目惚れした婚約者という設定のためだけではなく、本当に……?」
「演技ではないと何回も言っているはずですが……それとも、本当は私のことがお気に召さず、設定だからと我慢していたのですか?」
「い、いえ! そのようなことはありません! 私もあなたのことをお慕いしていて、それで……その……ええと……」
慌てて否定するセシリアだが、勢い任せで口にした言葉は、はっと我に返ると尻すぼみに消えていく。
すると、悲しげだったエルヴィスに微笑みが戻る。
「何やら行き違いがあったようですが、私たちが愛し合っているということは、これで確認できましたね。何の問題もありませんね」
「は……はい……」
有無を言わさぬエルヴィスの迫力に、セシリアは頷くことしかできない。
「どうやら愛情表現が足りなかったようです。言葉や態度では示してきたつもりでしたが、もっと直接的な行動も必要なようですね」
「直接的な行動……?」
エルヴィスは椅子から立ち上がると、首を傾げるセシリアに近づいてくる。そして身をかがめると、両手でセシリアの頬をそっと挟み込んだ。
状況がよくわからないまま、セシリアは頬に触れる手が大きく、硬いとだけ感じる。見た目は優雅な貴公子だが、やはり剣を握る手なのかと、現実逃避気味な思いが頭に浮かぶ。
整った顔が近づいてくると、セシリアは頭が真っ白になって、ぎゅっと目を閉じる。唇に柔らかい感触が伝わってくるのを、口づけされているのかと、まるで他人事のように考える自分がいた。
一瞬のようでもあり、果てしなく時間が流れたようでもあり、エルヴィスの唇が離れていっても、セシリアはそのまま目を固く閉じていた。
がちがちに固まってしまっているセシリアを見て、エルヴィスがくすりと笑い声を漏らす。
「婚約者なのですから、口づけくらいするべきでしたね。あまり紳士的に接しすぎるのも考え物ということでしょうか」
独白するエルヴィスに、何やら不穏なものを感じてセシリアは目を開ける。
すると、どことなく熱を帯びた藍色の目と目が合った。またも、セシリアは固まってしまう。
「もう少しだけ、先に進んでみますか?」
からかうようなエルヴィスの問いかけに、セシリアは逃げ出したくなってくる。
どう答えるべきかと頭の中がうまく働かないでいるうちに、騒がしい音が聞こえてきた。
響き渡る怒鳴り声らしきものに、聞き覚えがあるような気がする。セシリアは自分を取り戻し、同時にうんざりとした気持ちがわき上がってくる。
エルヴィスも甘い雰囲気は消え去り、不快そうな表情になっていた。
「失礼いたします。王太子殿下がお見えになっています……」
ややあってもたらされた知らせに、セシリアとエルヴィスは顔を見合わせる。同時に、ため息がこぼれ落ちた。










