34.聖女の噂
隣国の好色王ケヴィンが滞在することになってしまい、屋敷には緊張が漂う。
ケヴィンは少数の従者を連れただけのお忍びであり、表向きは隣国のエイリアス伯爵となっている。
だが、ローズブレイド公爵であるエルヴィスが彼に接する態度から、重要人物であることは伝わってしまう。隣国王だとはわからないにせよ、丁重に扱うべき存在なのだろうと使用人たちは認識していた。
「セシリア、あなたはアレが滞在している間、絶対に一人で出歩かないでください。狙いは間違いなく、あなたです。護衛はつけますが、部屋を出るとき……いえ、部屋にいるときも気を付けてください」
「……わかりましたわ。何を考えているかわからない以上、気を付けなくてはなりませんけれど……でも、狙いが私というのは違うのでは……」
エルヴィスの剣幕にいささか引きながら、セシリアは答える。
ケヴィンに何らかの目的があるのは間違いないだろう。しかし、セシリアを見ながら違うものを映していた彼の目を思うと、狙いは別にあるのではないかと思えた。
「いいえ。彼を、この国の見る目がない王族や貴族と一緒にしてはなりません。すでにあなたの魅力に気付いていると思うべきです」
「いえ、それほどたいした……」
「あなたの可憐な微笑み、愛らしい唇からこぼれる言葉が、どれほど私の心を捉えているかご存知ですか? あなたは自分の魅力に無頓着すぎます」
真剣な表情でそう言われてしまい、セシリアは言葉を失う。
顔が燃え上がるように熱くなるのを感じ、いたたまれなくなってセシリアは俯く。
そのように言ってくれるのはエルヴィスくらいのものだとも思うが、訂正するための口を開くことさえできず、結局は何も言えないままだ。
「己の価値を理解していない無防備な妖精を見つけたら、捕まえて閉じ込めてしまうでしょう。飛び立てないよう、そして誰の目にも触れさせず、自分だけのために歌わせるように。……あなたも用心してください」
「は……はい……」
その監禁を示唆した話は、ケヴィンのことなのか、それともエルヴィスのことなのか。
自分にそのようなことをさせるなと、エルヴィスが言っているようでもある。
しかし、恐ろしくて尋ねる気にはなれず、セシリアはただ頷く。
「え……ええと……技術者も連れてきたと言っていましたけれど、本当に調査を行うのでしょうか……?」
とにかく話を変えなくてはと焦りながら、セシリアは頭に浮かんだ話題を持ち出す。
「おそらく、本当に調査は行われると思います。もちろん見張りは付けますが、災害対策と称して何かを仕掛ける可能性は、低いでしょう。そういった、いかにもなところは完璧に仕上げて、その裏側で何かをひっそり進めるような奴ですよ」
「以前から顔見知りのようですけれど……何か、ひどい仕打ちでも受けましたの?」
エルヴィスがケヴィンのことを語るときには、棘がある。セシリアに関する因縁は最近のことだから、それ以前にも何かあったのだろうか。
不思議に思い、セシリアが尋ねてみると、エルヴィスは困ったように眉根を寄せた。
「そうですね……まずは、本人が意図したわけではないようですが、姉を追い込む一因となったことですね。ふざけたことに、姉に求婚したと聞いております」
「ああ……」
セシリアは乾いた笑いを漏らす。
かつてアデラインが婚約破棄されたとき、ケヴィンは求婚して場を引っ掻き回した。それがきっかけで、アデラインが懺悔の塔に送られたようなものだ。
思えば、アデラインに求婚したケヴィンが、今度はセシリアにも求婚と取れるようなことを言っている。因縁と、節操のなさをセシリアは感じる。
「その後、姉に対する罪滅ぼしと称して、彼はローズブレイド家に対して支援を行ってきました。災害対策もその一つと言えますが、狙いはローズブレイド家を引き込むためですね」
おそらく、アデラインに求婚してきたのも、ローズブレイド家を引き込めないかという目論見があったのだろう。
女好きなのは間違いないが、それだけではなく、いくつもの思惑があるようだ。
「実際に、叔父は篭絡されたといえるでしょう。私と叔父が対立した原因の一つでもあります。この国を捨てるのは私も構わなかったのですが、隣国王が胡散臭く感じられましてね。この国の国王などより、彼のほうがよほど油断なりませんよ」
「……爵位争いの原因の一つでもありましたのね。ということは、隣国王は叔父さまを支持していましたの?」
「そのとおりです。彼にとっては、叔父が爵位を継げば完全にローズブレイドを引き込めましたからね。叔父に支援もしていました。しかし、私が勝つと何事もなかったかのように、しれっと祝ってきましたよ」
恥も外聞もない態度だが、王侯貴族としては正しい面の皮の厚さだ。
確かに、セシリアに対して祝いの席でも堂々とふさわしくない言葉をかけてくる国王より、よほど油断ならないだろう。
「ここのところ、あなたが聖女だという噂が国中に広まりつつあり、順調に進んでいたところだったのですが……好事魔多しですね」
「……え?」
思いがけない言葉に、セシリアは不意を突かれて目を見開く。
すぐに、セシリアのおかげでローズブレイド公爵領にたいした災害被害がないのだという設定は思い出したが、噂が広がっているとは知らなかった。
もっとも、噂は広めようとしていたのだし、想定していたことだ。セシリアが知らなかったのはローズブレイド公爵領から動いていないせいで、エルヴィスのように広い目と耳を持たないからだと、理解できる。
だが、聖女というのはどういうことだろうか。
「ローズブレイド公爵領の災害を鎮めた聖女を次期女王に、という声は高まりつつあります。きっと女神が遣わした聖女に違いない、と」
「……まさか、聖女というのもあなたが流した噂ですか?」
「いいえ、民衆の中から自然と出たものですよ。きっと、己の身を投げ打ってでも全てを救おうとし、尽くしてくれるはずという願望ではありませんかね」
エルヴィスの口調には、皮肉が混じっているようだった。
セシリアも、順調に進んで嬉しいというよりも、心の中から靄がわき上がってくるようだ。
聖女と聞いて真っ先に頭に浮かんだのが、女神の忘れものの童話である。
人々のために尽くした聖女が力を失い、手のひらを返される話だ。
物語に出てきた聖女にすがりつく人々と、女神の加護に頼りきっている現状が、重なってしまう。
女王への道は近づいたようだが、素直に喜べない。
突然のケヴィンの訪問といい、まるで足首をつかまれて、泥沼に引きずられていくような不安を、セシリアは覚えていた。










