10.好色王の側妃
セシリアを案内してきた侍女は、本当にセシリアがローガンを諫めたことに、信じられないような眼差しを向けていた。
だが、セシリアは構わずに、自分も部屋に戻ろうとする。
「あら、セシリア。ごきげんよう」
そこに、穏やかな微笑みを浮かべた第二王子妃マリエッタが通りかかった。
前世ではまだ第二王子の婚約者であり、アデラインのことをお姉さまと慕ってくれていた相手だ。
だが、セシリアの記憶では、これまで交流といったものはなく、何かで顔を合わせたときに挨拶を交わす程度の間柄でしかない。
「ごきげんよう、マリエッタ叔母さま」
今も、たまたま顔を合わせただけだろうと、セシリアは挨拶を返して立ち去ろうとする。
だが、マリエッタは興味深そうにセシリアを見つめているようだ。
「最近、少し変わってきたという話は聞いていたけれど、本当のようね。あなたの成長を感じることができて、嬉しいわ」
「……ありがとうございます」
意外な言葉をかけられ、セシリアは少し驚いたものの、冷静に礼を述べる。
たったそれだけの会話だったが、去って行くマリエッタを見送りながら、何故かセシリアは背筋に冷たいものを覚えていた。
前世ではマリエッタのことは可愛い妹のように思っていたはずだが、セシリアとしての立場からだろうか。苦手意識のようなものがある。
だが、今はそれだけではない。恐怖に似たものがわき上がってきて、震えてしまいそうなくらいだ。
怯えるような理由など、ないはずだ。
もしかしたら、アデラインのことを知る人物と会ったことで、二つの記憶が入り混じって混乱しているのだろうか。
今の話自体は、マリエッタはセシリアのことを褒めていたのだし、悪いことではないはずだ。
気にしないことにしようと己に言い聞かせて、セシリアは自室に戻っていく。
「……疲れたわ」
自室で一息つくと、セシリアはぐったりとしながら宙を仰いだ。
ローガンの身勝手さと愚かさを目の当たりにして、これが現在の父親なのかと、虚しさでいっぱいになる。
自分の器量が乏しいことは棚に上げ、セシリアとヘレナのことを罵っていた。
しかも、かつて真実の愛で結ばれたはずのヘレナのことを、葬りたいとでも思っているようだ。
ローガンとヘレナは離婚も再婚も許されないというのは国王が決めたそうだが、もしかしたら現在のようになることを見越して、ヘレナの命を守るためだったのかもしれない。
「婚約自体がなかったというのは、驚きだったわね」
前世の記憶が戻る前、セシリアはギルバートの妻になるのだと散々聞かされてきたが、正式に婚約を交わしていなかったなど、お粗末すぎる。
だが、ローガンの順番を飛ばしてギルバートが王になったほうが、国のためかもしれない。
セシリアとしても、ギルバート個人に思い入れは何もないので、婚約がされていようとされていなかろうと、どうでもよいことだ。
ただ、ローガンとヘレナの罪を暴くため、第二王子一家との繋がりはあったほうがよいだろうから、そこは惜しかったかもしれない。
しかし、アデラインの真実を明かすことが第二王子たちにとっての不利益となる可能性もある。
その場合は身動きが取れなくなってしまうので、かえって良かったのだろうか。
何にせよ、今のセシリアには何もできないので、受け入れるしかない。
どうせセシリアは政略結婚の道具にされるのだ。結婚相手が変わったところで、それは花を置くテーブルが変わるだけのこと。今のセシリアの扱いなどその程度である。
「……次はどうするつもりかしら」
ギルバートとの婚約が成り立っておらず、これから結ぶこともできないとなれば、ローガンはどうするのだろうか。
後ろ盾が弱いことを自覚しているローガンは、おそらく自分のためになるような相手にセシリアを宛がおうとするはずだ。
そこにセシリアの幸福など、一切考慮されることはない。たとえ、相手が老人だろうと、悪辣な人格の持ち主であろうと、ローガンにとって利益となるのならば、それがセシリアの夫となるのだろう。
だが、ローガンの後ろ盾となり得て、彼に友好的な貴族が、ぱっとは浮かばない。
もっとも、今のセシリアには何もすることができない。
だが、約三年の猶予があるはずだ。
学園に通うのは三年間で、その間は婚約することはあっても、よほど急を要することがなければ結婚には至らないだろう。
「今、できることをするだけよ。焦ってはいけないわ」
セシリアは、己に言い聞かせる。
焦りは失敗を生むだけだ。一歩ずつ、着実に進めていくしかない。
「あら、セシリアさま。お伺いしましたわよ。ギルバート殿下が、モラレス侯爵家のご令嬢とご婚約なさったそうですわね。私、てっきりギルバート殿下はセシリアさまとご婚約なさっていると思っていたので、驚きでしたわあ」
「まさか、婚約を破棄されたのかしら。これが因果応報っていうことなのかしらねえ。でも、セシリアさまに罪はないのに、おかわいそうですわあ。セシリアさまはこれから、どうなさるおつもりなのかしら?」
翌日、学園に行った途端にシンシアとイザベラからそう声をかけられた。
耳の早いことだと、セシリアはそっとため息を吐く。
「ギルバートと私が婚約しているなどというでたらめ、どこから聞いたのかしら。あいにく、婚約の書面など交わしたことはないわ。失礼な噂だこと」
セシリアが穏やかに微笑みながら答えると、歪んだ笑みを浮かべていたシンシアとイザベラの表情が固まった。
どうやら、捨てられて打ちひしがれているセシリアを想像していたようだ。
「ギルバートとモラレス侯爵家のご令嬢の婚約は、おめでたいことだわ。お祝いしないといけないわね。きっとお披露目のパーティーも開かれるでしょうけれど……あなたたちも招待されるのかしら。もし招待されたのなら、それまでに礼儀作法を勉強しておくことをおすすめするわ」
優雅な笑みを崩さず、セシリアはそう言ってシンシアとイザベラから視線をはずす。
二人は屈辱に震えていたが、授業が始まる時間になったため、結局は何も言い返すことなく、席に戻っていった。
この二人は態度があからさますぎる。
他の同級生の中にも、セシリアが出来損ないだという噂を聞いているのか、軽んじていることが伝わってくる者はいた。だが、こうして直接的な態度に出る者は他にいない。
もう少し隠すことを覚えたほうがよいと、セシリアは心配になってしまうくらいだ。
その後はいつものように放課後になり、少しおしゃべりをしてからセシリアは帰ってきた。
すると、ローガンがセシリアを待っているというのだ。
とても嫌な予感が這い上がってきて、足がすくむ。だが、会わないわけにもいかず、セシリアはローガンが待っているという部屋に向かう。
部屋では難しい顔をしたローガンが座っていて、セシリアを見るなり口を開く。
「セシリア、お前は好色お……じゃなくて、隣国ローバリーの王ケヴィンの側妃になれ。すでに十二人の側妃がいるそうだが、お前のことは重く扱うと言っていた。話が正式に決まれば、学園を辞めて隣国に嫁げ」
あまりにも衝撃的な内容で、セシリアはすぐに飲み込むことができず、黙って立ち尽くすしかなかった。