気づいたら、終わり
都心のスクランブル交差点で信号が変わるのを待っている。
赤から青に変わる。
たくさんの黒い頭が、堰を切ったように流れ出てくる。
恐い。
僕の目にはいつもこの光景が恐ろしいものに映る。
黒、黒、黒、音、音、音、顔、顔、顔…
締め付けられるようだ。肺が動かなくなる。
けれど、立ち止まれない。後ろに人がいるから。彼は歩き出そうとしているから。
心は恐怖していても、心のままに蹲ることはできない。流れを止めてはいけない。青になったのだから、動きだすだろうという、彼らの期待を裏切ってはいけない。
胸を押さえて歩く。
ただし、猛然と、感情を浮かべず、眼は何を見つめるというのではなく、人々、その中心の奥、やや上方に焦点を合わせながら。
中心で、向かい側の人たちと交わる。
突如、胸が軽くなり、解放感に満ちる。ただし、なにか悲しい。
人ごみの中に入ると、「自分」の力ではどうにもならず、ただ流される。ここにはもはや、「自分」というくくりが必要でなく、楽。
けれど、「自分」という一個の個体の価値―現実―を叩き込まれてしまい、沈む。
だれだって、「自分」は特別でありたいと思う。括弧を付けたいと思う。日々の生活に満足し、何をするでもなく時の流れにうずもれて、やがて死に、灰になって風に流れ、忘れ去られ括弧が消えることを果たして良しとする人がいるのか。存在しえるのか?
自分。
現実はこれだ。
努力、才能、実績…どれだけ括弧を補強したところで、決してかなわない。
これを信じたくない人は、こんな言葉を思い起こして僕に反論するだろう。
『我思うゆえに我あり』
しかし、僕はこう反論しよう。
『君が思っていることは、本当に「君が思っていること」といえるのか?』と。
独自の感受性、オリジナリティなんてものは存在しない。感情は機械だ。特定のトリガーに特定の反応を返すだけの装置だ。それとも、母親がいなくなったときに喜ぶ赤ん坊がいるだろうか?
思考についても同様に論じることができる。思考は感情に起因するものであるし、思考するときに使う言葉という道具は、広く共有される個の中の他であるから。
つまり、自分の思考は、他人である
よって
決して満たされない欲望がある。いや、欲望というものは決して満たされない…?
ならば、欲望の充足のために動く生物という物は何なのだろう。僕にはよくわからない。そして、僕がこう思えるということは、たくさんの人がこう思っているということだろう。
思うに、「考える」という能力を持ってしまったことが大いなる悲劇なのだ。思考できるのは神だけでよかった。僕たちにはその『資格がない』
たまにこういう人ごみの中で刃物を振り回し、無作為に人を殺すなんて事件が起こる。
僕にはその気持ちがわかる。
…………………………
スッ
グチュッ
「キャアアアアアアアアアアアアアアア」
だから、あなたもわかるはず。
「会心の笑み」にコメントをどうもありがとうございます!!
しかし、また教育に悪いものを投下してしまった…