2. 愛する娘を襲う絶望
カルティア公爵夫妻は、権力を求めていなかった。
公爵家にしては広く豊かな領地と活力に満ちた領民たち、災害にも襲われにくい地形。
公爵も夫人も過度に自分たちを飾り立てることに興味はなく、大量のドレスや宝石は必要としていなかった。
なにかあっても数年は困らない程度の蓄えもあり、今以上に高い地位も求めていなかった。
娘のディオリーゼに求めることはただ一つ。
愛する人と結ばれて何不自由なく幸せに生きてほしい。
ただそれだけだった。
しかし、たったそれだけの願いが叶わない。
王弟からの婚約を一介の公爵家が断れるはずがない。断れば、最悪一家断絶もありえるだろう。
これは、要請という形をとっているものの、王家からの命令に等しい。
既に婚約者がいたならば、まだ辞退する道もあったかもしれないが、ディオリーゼには現在、婚約者がいない。
愛する人と結ばれてほしいという夫妻の思いが仇となった。
そもそも夫妻がこれほどまでに王弟との婚約に絶望するには理由があった。
王弟についてのある噂だ。
そう、『王弟は小児性愛者である』という。
〈年頃になっても婚約者の一人もいないのはおかしい。同性愛者なのではないか〉と密かに噂されていた王弟は、いつしか確信をもって『王弟は小児性愛者である』と言われるようになった。
〈婚約者候補たちの争いを見て年頃の女が怖くなった〉
〈王弟と関係を持つために薬を盛った女がいたからだ〉
〈初恋は20下の赤ん坊だった〉
など、多くの噂が、まことしやかに囁かれていた。
そのため、多くの貴族は王子たちに娘を会わせようとしつつも、登城することだけは避けていた。
もしも王弟の目に留まってしまえば、一介の貴族に出来ることなど何もない。
カルティア公爵夫妻は、そもそも娘を王子たちに会わせようなどという気がなかったので、王弟のことを考えることすらなかった。
どこか他人事のように思っていたのだ。
しかし、その王弟からディオリーゼへ婚約の申し込みが来てしまった。
それは、カルティア公爵夫妻にとって、あまりにも急な絶望の来訪であった。
ディオリーゼは先日5歳の誕生日を迎えたばかり。
対して、王弟は齢30。
小児性愛でないことを疑うほうが難しい。
王弟から婚約の申し込みと言えど、王家の紋章がある以上、それは王命に他ならない。
カルティア公爵家が取れる選択肢は2つ。
1つ。ディオリーゼを王弟の婚約者として献上する。
1つ。ディオリーゼを連れて他国へ亡命する。
他国へ亡命すれば、ディオリーゼを王弟に差し出すことは避けられる。
しかし、亡命しようとしていることが王家に露見すれば、公爵家の者は無事では済まない。
領民たちにも被害が及ぶだろう。
そして、王弟から婚約の申し込みを受けたカルティア公爵家が亡命を考えることを、王家が考えないわけがない。
すでに包囲網が張り巡らされているだろう。
公爵家には、まだ幼いディオリーゼを差し出すしか道は残されていなかった。