ある夏の日
夢をみた。
幼い少女が膝をかかえて座っている。さらさらの栗色ロングヘア、上質な白いワンピース。上向きカールのパッチリまつげ。しかし可憐な外見とは裏腹に、唇を一の字に結び、表情は固かった。否、表情が読めない、といった方が正しいかもしれない。人を寄せ付けない雰囲気だ。今にも泣きだしてしまいそうな様子でありながら、少女の目からは、決して涙は流れなかった。
「婚約したんだ」
昼下がりの喫茶店。学生時代からの友人、優羽は照れながらそうつぶやいた。
「そっか。よかったね」すっかり溶けたかき氷をすすりながら、笑顔で祝福の言葉を贈る。
「プロポーズの様子を再現どうぞ」「えっ、なにそれ。恥ずかしいじゃん」
優羽は社会人になってから苦労していたことを知っている。一時期は体調が優れず、外にでることができなかったのだ。ずっと優等生で生きてきた彼女にとって、当時はとても苦しそうであった。だが、今はこうして笑えている。ちゃんと未来を大切な人と歩むところまできているのだ。顔を赤くしながら、律義にプロポーズを再現してくれる彼女を微笑ましく見守った。
「いいなぁ、大事な人が見つかったんだね」
優羽と会った帰り道、なんとも言えない複雑な気持ちを私は抱えていた。優羽に限らず、周りの友人は結婚ラッシュだ。自分も焦っているわけではないけれど、幸せそうな友人たちを見ていると、自分がダメ人間であることを仄めかされている気分になってしまう。そろそろ辺りも暗くなり始めるであろう、そんな時間。ふらふらと歩いていた私の目に、ふと温かい木の扉が写った。「こんなところにお店なんてあったっけ……? 」不思議に思いつつ、吸い寄せられるように私はその扉を押した。
「いらっしゃいませ」
優しそうなお兄さんが迎えてくれる。「こんにちは」笑顔で会釈をし、お兄さんに案内された席でコーヒーを注文した。「少々お待ちください」にっこりとほほ笑んだお兄さんは、カウンターへ戻っていった。中途半端な時間帯のためか、お客さんはほとんどいない。常連さんであろう、ゆっくりと語らう初老の夫婦、ノートパソコンとにらみ合うスーツを着たサラリーマンがいるのみだ。木目調の店内は、落ち着いた空間を演出していた。
「お待たせしました」気が付くと、お兄さんがコーヒーを持って来てくれていた。「ありがとうございます」「ごゆっくりどうぞ」またしも優しい笑顔を残し、お兄さんはカウンターへ戻っていった。「笑顔が優しいな……」ふと関心してしまう。所作のひとつひとつから、相手への思いやりをみることができる。
私自身は、慣れてしまった。もっと質の悪い、日常的な感情労働に。
物心つく頃には、気遣いすぎだよ、って一番近くにいた親友から言われていた。その当時は、そんなことないのにな、ってくらいで、特に気に留める様子もなく言葉をスルーしていた。社会に出て数年。よく、あんたはわかりにくい、と言われる。何事も涼しい顔でいる。そんなに意見を主張しない。そんな自分を咎められたこともあったけれど、私はそうでもしないと生きていけなかったのだ。
何でも無意識に人に譲る癖。別に我慢でもなんでもなかった。ただ、本当に苦じゃなかったんだ。別に不都合は感じなかった。必要な時はキャラを作る。必要なことは伝える。それで充分生きていけた。……それなのに。
演じ続けた結果、本当の気持ちなんてわからなくなった。自分の思いだと思っていたのは、実は「相手はこの言葉がほしいのだろうな」という理性からきた概念の思い込みだったのではないか。だって今、こんなにも虚無感を感じる。未だに人を愛せない。
どうしよう。絶望感が襲ってきた。
決定的な、人としての欠陥に気づいてしまったから。
「コーヒーおかわりいかがですか」ふと視線をあげると、お兄さんがコーヒーを片手に傍にいた。
「入れ直してきたので、温かいものをどうぞ」前のコーヒーを下げ、新しいものを置いてくれる。そういえば、まだコーヒーに口をつけていなかった。
「……せっかくいれて頂いていたのにすみません」「いいえ。こちらこそ厚かましくすみません。少し泣かれていたので気になって」そこで、初めて今自分が泣いているのに気が付いた。
「何があったかわかりませんけど、ゆっくり休んでいって下さい。今日はもうお客さんいませんから」ふと周りを見渡す。誰一人として人はいなかった。
「もしかして閉店時間でしたか」
「いえ、まだ一時間ほどありますが、勝手に店じまいしちゃいました」けろっと言い放ったのち、「後日ばれたらオーナーに怒られちゃうかな……」呟く彼をみて、すこし笑ってしまった。
「ありがとうございます。元気でました。……実は、最近周りが結婚ラッシュで。当てられちゃってました。私は彼氏いたこともない、人を好きになれないのに、って思っちゃって」
「……」お兄さんは無言で聞いている。初対面で引かれたかな。まぁ、いっか。今更だな。
「だから、今日お兄さんに出会えてよかったです。仕事中だ、ってわかっていても……優しくしてもらうと嬉しいものなんですね」
「……そう思って頂けてよかったです」最後にもう一度、お兄さんは優しく笑ってくれた。
「ご馳走様でした、コーヒーおいしかったです」
「またお待ちしております」優しいお兄さんの言葉を背に、一杯分のコーヒー代金を支払い店を後にした。
お兄さんの優しい言動が、仕事からくるものなのか、彼の人柄からくるものからはわからないけれど、今の私の心を救ってくれたのは、確かである。私も、人に合わせて演じてきた中で、少しでも相手に与えるものはあったのかな。立ち止まると、月の出ている夏の空をふと見上げた。
夢をみた。
あの幼い可憐な少女が座っている。表情は変わらずよめない。……が、なんとなく、あの暗い瞳の中に、過去の自分を垣間見た……気が、した。
外見は似つかわしくない。なぜ自分を重ねたのか、自分でもわからない。……だけど。
私はそっと少女に歩み寄った。小さく震えている。そして、横からそっと、少女を抱きしめた。
どんなことを言えば良いのだろう。正解なんてわからない。でも、もしも過去の自分に出会えたら、迷わずこう言うだろう。
「……いっぱい恋をするんだよ。頑張って、自分の考えは話す努力をするんだよ。そしたら、もっと人を信じられるし、もっと楽に生きられるから」少女は動かない。
「本当は、それらがなくても生きていける。あんた、頭も悪くないし、それなりに立ち回ることもできる。容姿も悪くない。でも、少なくとも、先輩の私が言うことだから、信じときな?……絶対後悔はさせない。約束。」少女が顔を上げる。無機質な幼い瞳に、泣きそうになりながら笑う自分が写る。あぁ、みっともない。……だけど。演じて生きてきた、すました自分よりは、よっぽど好きになれそうだった。
腕の中の少女が、小さく動く。私に向き合って、その小さな腕を、そっと回した。
ある夏の日。
真っ青な空の下、軽やかな足取りで、喫茶店に向かう一人の女性の姿がそこにはあった。