5月16日
五月十六日 晴れ
「おはようございます」
「おはよう」
今日もライラの紅茶で目覚める。
「体調はいかがですか?」
「悪くないよ。今日もぐっすり眠れた。船長のアナウンスも聞えないくらいにね」
一日の始まりが毎日こうだと、気持ちがシャキッとする。チャーミングな笑顔の前では、格好いい大人でいたいから。
今日はなんと、スポーツジムへ足を運んだ。
身体を軽くほぐし、エアロバイクに狙いを定めた。海を見ながらのバイク。いいかもしれない。
そこで、デビッドに会った。
「やあ。えーっと、ワタナベ……だっけ? 日本人の名前は難しい」
「あってますよ。デビッドさん。千早と呼んでください。その方が簡単だと思います。毎日、ジムで汗を流してらっしゃるんですか?」
「おう。しかし、船ってのは身体を動かさねぇもんだな。体力が有り余っててさ」
彼は、上腕二頭筋にコブを作って見せた。
私たちは隣同士でエアロバイクをこぎ始めた。
「千早は、朝、プロムナードでウォーキングをしないのか?」
「ウォーキング?」
「あぁ。日本人をよく見かけるぜ。早朝にな」
「へぇー。健康のためには良さそうですね」
デビッドは爽やかに見えるが、なにか印象が違う。着やせするタイプなんだな。ごつい身体や顔に短髪。きらりと光る白い歯は、一本だけ治療の跡が窺えた。もったいない。
「そうそう、知ってるか? ロイヤルスイートにいる老人。アメリカでも有名な日本人だったぜ」
「どなたでしょう?」
「あのスワン会長だよ。一度でもいいから話してみたくないか? それとも、押しかけてサインでも貰うか?」
スワン。それは俗称で、デネブ・モーターズという車を扱う大会社だ。その会長、白鳥草一郎は私でも名前を知っている。約二十年前、突如として現れたその会社は、一躍トップまで上り詰めた。
「それはすごい」
クラシックな方が好みの私はスワンのディティールに何の魅力も感じないが、お目にかかれるならそれはそれで。評判は高い人物だし、ネタになるし。
それからは黙々とバイクを漕いだ。デビッドはウェイトトレーニングをするからと、パワー全開必要そうな機器に移った。
私はバイクだけですでに疲れており、早々に部屋へ引き上げた。
疲れと空腹は比例していないのかもしれない。普通、疲れていると食事が苦になったりするものだ。
とすると、私は疲れていないのかもしれない。デビッド奢りのワインはやっぱり美味しかったし、メインを二つ、しっかり取ってしまった。
夜はジャズを楽しむため、メインラウンジの『ヴァーミリアン』へ。ここはダンスホールにもなるらしい。適度な広さに音響システムが整えられている。
バンドはずっと乗船しているらしく、ときどきジャズの夕べ的な催しがある。彼らは、ダンスパーティーにも活躍する。また、小ラウンジにあたるピアノバー『グレナデン』でも、ピアノを披露しているとか。ピアノの音色の中で、グラスを傾ける。イケてるかもしれないな。
演奏の方も良かった。懐かしのブルーノート。バンドとして、トランペットやドラムも必要だと思うが、バイオリンやギターやピアノなどの弦楽器が好みだと初めて気がついた。雰囲気のせいか?
ただ……周りがおじさんだらけで……ちょっと色気はないかな。
ジャズの余韻か、部屋に帰っても眠れなかったので、夜の空を堪能しようと小さなプール付きの後方デッキに足を向けた。さすがに人影もなく、肌寒かった。風は夜も休まない。そこにはオレンジ色の本当にかすかな灯りがあったけど、あたり一面、この船以外、地球上になにも存在しないかのような海の影。空には無数の星が存在を主張し合っていた。
一、二歩足を進めたところでやっと気がついた。
長椅子の上、眠るように星空を仰いでいる女性がいた。こんな夜中にたった一人で。待ち合わせをしているような様子はなく、白いデッキチェアーに黒い服が異様に浮いて見えた。椅子が白でなければ、彼女の服も黒く長い髪も夜に溶けてしまっただろう。
この場所からではよく見えないが、きっと美人だ。首なし幽霊が美人だと決まっているように。
怖がられたり、睨まれたりしたらイヤだったから、声をかけることは避けた。今となっては話をすればよかったと思う。ちょっと胸がモヤモヤしている。
ま、いずれまた会えるだろう。なんせ船の上なんだから。