6月11日
六月十一日 晴れ
昼にピレウス出航。
朝の散歩も随分久しぶりだったが、皆元気そうだった。それぞれがそれぞれの歩みと、会話を楽しんでいた。ギリシアでの出来事も可笑しく楽しく話しているのだろう。
なぜそう思うか。夜、そのような話で盛り上がったから。
「あのお店は安かったわ」
「綺麗な宝石があってね」
「足を延ばして、遺跡巡りに行ったの」
「綺麗な夕日で、ロマンティックだったわ」
「はいはい」と、心の中で返事した。だって、話が途切れないんだから。
それは私だけじゃなく、二人の旦那も同じだったようだ。下を向いてひたすらお皿と格闘していたから。恐らく何度も聞かされた話なんだろうな。またしても、スケープゴートのようだ。
アリアとの夜の散歩も、ギリシアを挟んで久しぶり。スエズ運河から会話がなかったので、単純に嬉しい。
こんなに怪しいものの姿もないと、斐玲が私を動揺させるために言ったようにしか思えなくなってきた。
今日は、星空教室が開かれているため、船首方向に行くことにした。
女神像の真上、船先に見える少しぼやけた光りの玉。
「あれはなにかしら?」
「なんだろう?」
私たちは不思議に思い、足を進めた。私もその時点ではそれの正体が判らなかったから。
足を速めたその時、急激に冷たい風が、行くのを拒むかのように吹いた。
私は足を止めて、彼女をかばった。
「天候が崩れそうだ。客室へ戻ろう」
そう促したが、彼女は納得しかねる表情だった。
「こんなに星が見えるわ」
私は記憶の中から、それらしい話を探し出した。
「あれは『セントエルモの灯』と言って、船旅を安全に導く光だ」
「じゃあ、この旅は安全を約束されたのね。いいことだわ」
ちょっとがっかりした様子だったが、表情は変わらなかった。
「本当は、プラズマ現象なんだよ。雨が降る前兆だ」
「ロマンティックな話だったのに。みんないいように話を作るのね」
「その方が楽しいからね」
やっと、彼女は踵を返した。私の話に納得したわけじゃなく、光り玉が消えたからだ。
「……人魂だったらよかったのに」
「え?」
「いいえ。幽霊なら、なおいいわ。逢えるのなら逢いたいもの。幽霊だって、ゾンビだって」
彼女の心が何を想っているのか、はっきり見て取れた。
「そんなことは願うことじゃない。亡くなられた人にも失礼だ」
諭すように言ったつもりだった。
「そうかしら? 逢いたいと願う人は多いはずよ。亡くなった人たちだってそう」
「確かに、私にも逢いたい人は少なからずいる。けど、彷徨い人は不幸になるだけ。それは決していいことではない」
「あなた、幸せなのね」
彼女の口調は厳しく、皮肉たっぷりだった。
「そりゃあ、好きなことをして暮らしているし、幸せかもしれない。そう、自分で幸せだと思う分には何の問題もない。だがそれを他人に決めつけられるのは嫌だね」
「……」
私たちは無言で客室まで歩いた。
幸いにも、と言うべきか、船長が前方より歩いてくる。
「散歩ですか?」
「ええ」
答えたが、気まずい。
彼女はぶっきらぼうに「おやすみなさい」と言って、部屋へ消えた。
「お邪魔をしてしまったみたいですね」
私は、苦笑でごまかした。
「それより、船長。船首部分へ一緒に来てもらえますか?」
「船首へ、ですか?」
「はい」
さっきの突風。あれは、警告だ。確かめに行かねば。
さっきの場所へ戻ってみると、火の玉は消えていた。空は相変わらずの星昊で、風も地中海独特の穏やかなものだった。
「ここになにか?」
船長の問いに無言のまま、先端へ向かった。そこは、人が端っこまで行けないよう立ち入り禁止区域になっていた。コンテナが幾つか配置されており、ロープも張ってあった。つまり、タイタニックごっこは出来ない。
「ここ、入ってもいいですか?」
「……え、ええ」
船長も同行した。
二人で海の方へ身をかがめ、女神像部分を覗き込んだ。が、あの女神がほほ笑んでいただけだった。
「あの……」
「すみません、船長。気のせいだったようです」
今度は私が疑問を残したまま船長と別れ、部屋へ帰ることになった。
「アレが、なんの意味もなく吹くか?」
ベッドに身体を投げ出した。
「それにしても、大人げなかったな」
そして、独り言が増えたことに気がついた。




