5月14日
五月十四日 晴れ
忙しい一日だった。
朝は客室係のライラが持ってきてくれた紅茶で目を覚ました。
「ミスター。おはようございます。よくお休みになられましたか?」
「ミスターはよしてくれないか? こそばゆい。千早でいいよ」
「お客様をお呼びしますのに、そういうわけにはいきません」
「じゃあ、『千早さま』でどう? なんかそっちのが偉い気がする。僕もライラって呼んでいいかな?」
「はい。では、千早さま」
「おー、いいねー」
そんな会話を楽しんだ。
実際に、心配していた不眠は、船の心地よい揺れに誘われてどこかへ行ってしまった。ベッドで寝た時よりもはるかにスッキリしている。
「今日は船長主催のディナーです。ぜひ、参加なさってくださいね」
「そのつもりだよ。紅茶ありがとう」
「明朝もお持ちいたしますね。千早さま」
朝から笑顔が爽やかだ。声もナイチンゲールのさえずりに聞こえてくる。
問題は、自分専属のメイドさんと勘違いしそうなことか。
爽やかなのはライラの笑顔だけではなかった。サンデッキに朝食を食べに行くと、太陽の眩しさと潮の香りを運んでくる風が何とも気持ちよかった。船旅の醍醐味なのかもしれない。
朝食はまだ日本国内ということもあってか、和と洋が選べた。間違いなく恋しくなるであろう日本食を美味しく頂いた。この船が特別というわけはないのだろうが、どの料理も口に合う。順を追って書こうと思っているが、これだけは先に書いておこう。
間違いなく、太る。
何をするわけでもなく、気が付いたら昼食の時刻。バイキング形式だったのだが、皿に山盛り。
三時のおやつにと、ティールーム『クリムゾン』でお茶とケーキを。
夕御飯が入るだろうか? と、全て平らげた後で悩む。
ま、食べ物のことは置いといて。
船内には様々な店が並ぶフロアがある。美容室、マッサージ店、クリーニング店、カラオケルームに洋服店や宝飾店などなど。メインのショップ、記念品が置いてある『フレイ』へ。Tシャツや灰皿など、ここでしか買えないロゴの入ったグッズがたくさんあった。
そこで、二種類のマグカップを購入した。なんとなく「ひとつください」が言えなくて。親父さんへの土産にしよう。
それから、図書室に行き、夜のお供にと本を借りた。
そんな中、避難訓練も行われた。
全員参加で、救命胴着の着脱方法や自分の乗るべき救命ボートの確認。エレベーターは使用できない設定の中での階段はきつかったが、万が一の時のため真剣に取り組んだ。点呼にも元気よく返事をした。
そういえば昔、学校で気分が悪くなり保健室で寝ていた時、火災訓練が始まったことがあったななんと、火元が保健室。わざわざ廊下で発煙筒まで焚いて。部屋に流れてくる煙のおかげで涙が止まらなかった。教室に帰ったら、「よっ。火事からの生還か」って言われたっけ。
夕刻、部屋に戻りシャワーを浴びて、正装へと衣装チェンジした。鏡で何度も見返してみたが、似合わないという思いが消えることはなかった。わかってる。自分が一番よーく、わかってる自分に何の特徴もなく、華がないことは……。
メインダイニング『カーマイン』へ行くと、スタッフに六人がけの丸テーブルへと案内された。
私より先に席に着いていた方々に挨拶をし、椅子に腰かけた。その時に丁度隣のテーブルも同じような光景だった。ただ、私の立場と同じなのが女性という違いはあった。
自分より遅く来た女性に対しては、席を立って迎え入れる。その人の着席を待って腰かける。男性のルールか。スマートに出来るようにがんばろう。
相席のメンバーは、イギリスから来ているクルーズベテランの夫婦、アルバート・レイニックとレベッカ・レイニック。アラウンド八〇。アルバートは眼鏡をかけた細面の男性で、レベッカは彼の倍以上の大きさだ。胸元の大きく開いた白いドレスがシーツに見える。
二人ともとても気さくで、特に奥さんは話し好きのようだ。会話が普通にできて良かった。
「船長からシャンパンのサービスがあるから、前菜は取っておいたほうがいいわよ」
メニューから頂くものを悩んでいると教えてくれた。
「全部はやめておいたほうがいいけどね」
とも、付け足してくれた。私は彼女の教え通り、前菜とメインとデザートを頼んだ。スープやサラダ、メインのもう一品はやめた。結果、正解だった。
「あなたは医師ですか。しかも歯。いいね」
「え?」
目を細めてにっこりと言うアルバートの補足を奥さんがしていた。
「うちの人はね、調香師でしたの。あなたの匂いが気になったのね」
「調香師?」
「ええ、香水とかアロマとかのね。それはそれは、いい腕をしてますのよ。ほら、この香りも素敵でしょう?」
そう言って、彼女は首を近づけてきた。確かに柑橘系のやさしい香りがした。仄かなのがまたいい。
「好きな匂いです」
私は正直に言った。
「でしょう? 食事のときでも邪魔にならないの」
レベッカはとても嬉しそうにほほ笑んだ。
「でも、なぜ私が歯科医だと? そんなに匂いがしますか?」
同じようにほほ笑んでいるアルバートに尋ねてみた。
「いや、普通の人間にはわからんだろう。私はね、無類の歯医者好きなのだよ」
「……変ってますね。たいていの人は顔をしかめて嫌がるんですけど」
「そうかもしれんなぁ。だがね、特に歯石を取っている時のあの快感、たまらんねぇ。すぐに睡魔が襲って来る」
歯石取ってる最中に寝られても、衛生士が大変だろうな。
「医者と歯科医じゃ匂いは全く違う」
そうかな? 自分の匂いはあまり気にしたことがないし、病院にはあまり用事がないので確かなことは言えない。
満足そうなアルバートをレベッカがたしなめる。
「このままでは、この船の上で治療してくれって言いだしそうね」
クスクス笑っている向い側にいる女性は、オーストラリアから来ているキャサリン・ベイカー。年上のレディを愛称で呼ぶのはと思ったが、本人の希望なので「キャシーさん」と日本語の「さん付け」で呼ぶことにした。
これは、なかなかいいアイデアだと思い、全員これで対応することにした。
彼女は、レベッカとは対照的に小柄な体。ピンクのドレスが可愛らしい。といっても彼女も七十近く。同い年のマークという旦那さんが隣にいる。彼は、ちょっとガサツなようだ。
何をするにしても、優しくないのだ。ポツリポツリと会話はするが、楽しいのかどうかもわからない。
あと一人、アメリカ人のデビッド・スミス。がっちりとした体がちょっとうらやましい。だが、本名だろうか? ちょっと違和感あるけど。年齢は、五十近いらしい。
ということは、私が一番の下っ端だ。四十二で若造か。
「俺の他にも独り者がいて助かったよ。肩身の狭い思いをしてたんだぜ」
彼は、充分に広い肩を軽く持ち上げた。
それに対して、苦笑いで答えた。
「実は私もです」
シャンパンが各テーブルに配られると、白い制服を着た船長始め数人が登場した。
「ようこそ、フレイアへ。船長の田之上諭吉です。早速ですが、まずは乾杯をしましょう。出会いの喜びと航海の安全を祈って。乾杯!」
「乾杯!」
全員が立ち上がりグラスを掲げた。
そして、席に着き料理が運ばれてくる中、整列したクルーの紹介が始められた。(後で書き足した→高級船員はオフィサーやエンジニアと言うらしい)
クルーは皆、綺麗な英語を話す。私の英語は訛っていないか、少し不安になった。
「改めまして。この女神をエスコートしています、船長の田之上諭吉です。皆さまが楽しい日々を過ごせますよう、しっかりと職務を果たしたいと思います。特に、ダンスやお茶のお相手を」
田之上船長は、がっしりとした体格に不釣り合いな幼顔でにっこりと笑った。肩章の黒に金色四本線が眩しい。黒々とした髪も地毛なのだろうか、よく似合っている。パンフレットの紹介にあったが、私より十も上には見えない。
「機関長の立花健二です。船の技術部分を統括しています。クーラーなどの故障も我が部門が引き受けていますので、機械的な悩みでしたらいつでもご相談に乗ります」
機関長は背が高く、精悍な顔つきをしていた。裏方にいるのがもったいないくらいのオトコマエ。あ、肩章は紫に金色四本線なんだ。
「ホテルマネージャーの堀池学です。私の担当は客室全体です。お部屋のこと、客室係のこと、ショップでのお困りのこと等々、とりあえずご相談ください」
ホテル部分に関してすべてということか。ホテルマネージャーの物腰は柔らかい。さすがに対人だ。見た目からすでに人のよさそうな、付き合いやすそうな、騙されやすそうな、トップには見えない。この中で一番若い。私とも二つくらいしか違わないはず。お、こちらは、緑か。
「船医の小川栄二郎です。レセプションの階にあります医務局に常駐しております。看護師も二名ほど。食べ過ぎ、二日酔い等の軽症から心身的なものまで、なにかあれば薬を差し上げます。ただし、ダイエットの薬はありませんので、皆さまには運動をお勧めします」
小川先生はずんぐりしていた。白い制服がきつそうに皺を作っている。肩章は赤だ。パッと見、シルバーの眼鏡がきつい印象を持たせるが、ゴマ塩の髪と眼鏡の奥の細い眼は愛らしいマスコットのようだった。五十五歳。老けて見えるな。
各々が個性的な分、顔や名前も覚えやすい。人柄は話してみないとわからないけど。どれくらいのクルーがこの船で働いているのか分からないが、結構な人数なんだろうと推察する。とてもじゃないが、全員覚えるのは無理だな。
彼らは食事をともに済ませ、食後のコーヒータイムになると、各テーブルを回った。
「ようこそ」
「お久しぶりですね」
「お元気でしたか?」
私から見れば彼らは一人ずつだが、彼らから見たら私たちは膨大な人数だ。それなのに私たちの顔や名前、出身地など覚えている。船長とホテルマネージャーは過去に乗船していた思い出までも、だ職業柄と言ってしまえばそれまでだが……。
「ようこそ。お会いできて光栄です」
田之上船長は私に手を差し伸べた。私も手を伸ばした。
「初めてのクルーズはいかがですか? お困りのことはございませんか?」
日本語で優しく尋ねてきた。
「楽しいことだらけです。船旅はリピーターが多いと聞いていますが、理由がわかりました。私自身もまた乗りたいと思います」
「まだ二日しか経っておらん。船の恐ろしさを知るのは、これからかも」
そっと横から船医の小川先生が言った。
「あまり脅さないでください」
「ほっほ。船酔いで多いのは三日目の朝じゃよ。診断書によると、渡辺さんは乗り物酔いを経験したことがないとか。だからこんなことも言える。海釣りが出来る人にとって、この船の揺れはたいしたことないですからな」
船医は日本語になると、柔らかい話し方をする。
「細かく書きすぎましたか? でも、漁船に乗ったことがあるっていうくらいですよ。先生は釣りがお好きで?」
「『暇な時間にこの船で釣竿をたらしとったら怒られた』ってなエピソードもあるが、いかがかな?」
「怒ったのは私ですがね」
船長の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
船旅最高! 人も料理も素晴らしい。
食後のダンスをと誘うご婦人がたを笑顔でかわし、船室へと戻った。
まだ二日しか経ってない……か。夢ってことはないと思うけど。そう思っていたら、欠伸が止まらなくなってしまった。まだ十時だけど、布団に潜り込むことにしよう。