5月13日
五月十三日 曇り
待ちに待った乗船の日。
出航を祝うかのような晴天ではなかったけど、気持ちのいい涼しさで丁度よかったと思う。せっかくのお洒落が汗でダクダクなんて、格好つかない。
横浜港は乗船客やら見送りやら、多くの人で賑わっていた。
私はひとりで乗船するため、ちょっと肩身が狭かったが、誰も気にしている人はいなかっただろう。
「千早さま」
「わざわざスイスから見送りに?」
振り返ると、背が高く、しゃきっとした、ロマンスグレーの紳士が立っていた。私たちの、というべきか。スイスでそれなりの会社を作っている。現在、取り締まっているのは彼。上天、スティーブ・ペールセン、六七歳のフィンランド生まれ。
「わざわざ、ですか。それなら言わせていただきますがね。千早さまこそ、わざわざ船旅に、ですか?」
「楽しそうだろう? 何かいけなかったかな?」
私はわざとらしく問う。
「まず、第一に。わざわざ宝くじが当たらなくても、いつでも旅行に行ける身分であるということ。第二に、わざわざ我々の目が届きにくい海に出る必要はないということ。第三に、なにかあってもご自分の力は使えないというのに、わざわざ遠出をすること。第四に……」
「あー、わかってるよ。わざわざ、出発前に言わなくてもいいだろうに。どうせ、情報は何日も前から入ってるんだろう」
ため息の一つも出る。
「現実問題として、気を付けて下さらねば困ります。生まれ変わると言っても、時間が必要ですし、致命傷を負われた場合など、どうなることやら……」
「それも、わかってる。渡辺千早という人生は一回だけだ。気を付けるよ。それよりも、君、一人で来たの? 大会社の社長が?」
いつもなら黒ずくめの御兄さん達が、ぴったりとくっついてるのに。
「一人で飛んで来られるならどんなに良かったか。日本まで来たのですから、御父上に御挨拶をと思ってたんですけどね」
本当に残念そうな顔をする。親父さんとは同じくらいの年齢なので気が合うのだろう。
「今生の養父、御父上は面白い方です。我ら皆、好感を持っております。多少、千早さまがフラフラなさる性格におなりでも、人見知りを克服しようと頑張るのが女性に対してだけにおなりでも、ええ、ええ、構いません」
「何が言いたいんだい?」
「お会いしたかったということです」
「ま、いいけどね。君が時間をとりにくいのは、仕方がないだろう? ね、大会社の社長さん」
「誰のせいでしょうね」
「さぁね」
諦めたのか、や、最初から諦めていたのだろう。スティーブは、にこやかに笑った。
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
「うん。ありがとう。行ってくるよ」
私が楽しみにしていた客船『フレイア』。北欧神話の女神の名前だ。
白い船体が美しく、ファンネルには黄色の地に赤文字の、太陽の光(三角形横型が二つ)と泪を象った(水滴が一つ)『F』のマーク。船首には女神像が浮き彫りになっている。彼女がフレイアね。もう少し気が強そうでもよかったのに。
船から伸びたタラップの下で手続きを済ませ、パスポート代わりにもなるという乗船券を受け取って乗船した。
まず、甲板に足を踏み入れると、日本人船長が一人一人握手をしていた。
「ようこそ、フレイアへ」
私も例に倣って、握手をした。すると、カメラのシャッター音が。その瞬間が、あとで船内にて売られるという。記念にはなるだろうが、あわてた作り笑いという情けない顔がそこには写っていることだろう。
それから、クルーに船内のロビー・レセプションへと案内された。
世界は一変した。
動くホテルとは、上手く言ったものだ。毛足の長い絨毯にキラキラ輝くシャンデリア。吹き抜けの大きな階段。蛍光灯が一切なく、仄かなランプの灯りが暖かい。観葉植物も青々と誇らしげに構えている。そして、アンティーク感満載の落ち着いた受付に、かしこまった受付係。船内とは思えないほど広く感じる。
「ようこそ。お待ちしておりました。渡辺千早さま。お部屋は六〇二号室のデラックスをご用意いたしております。ご案内いたしますのでどうぞ」
私はただ唖然として後をついて行くだけだった。このロビーが何階にあたるのかわからないけど、ここから六階上ということなのだろうか。エレベーターに表示された階数からしてそのようだけど。
部屋にはすでに荷物が届けられていた。
「なにか不都合な点や疑問が生じましたら、内線電話の〇番におかけください。モーニングコールもそちらで承っております。船内でのショップご利用やアルコール類の代金などは、別料金となっております。その際には恐れ入りますが、サインをお願いいたします。後ほど客室係が挨拶に参ります。何なりとお申し付けくださいませ。では、失礼いたします。素晴らしい航海を」
「あ、ども」
丁寧に応対してくれた案内の人に、なんて切り返し! 部屋に見とれていて心ここにあらず、だ。
それにしても、ひとりでデラックスなんて贅沢すぎたかな。思っていた以上に広くて困惑する。テラスもあって、いつでも海を感じられる。窓を開けると、風が海の香りを運んできた。
「高級ホテルにいる感じだ。海の上だということを忘れそう」
……ついさっき、いつでも海を感じられるなんて思ったくせに。
荷物をほどいているときに、客室係の女性がウェルカムティーを持ってきた。
「ミスター・ワタナベのお部屋を担当させていただく、ライラと申します。よろしくお願いします」
ライラはタンザニア出身という小柄な女性だ。英語で会話をしているのだが、洗練された言葉づかいが心地よい。それに、笑顔が何ともチャーミングだ。
「こちらこそ、お世話になります」
日本人らしく、挨拶はきちんとしないと。やっと落ち着きを取り戻した私の精一杯だが。
そんなこんなの、てんやわんやで、荷物をクローゼットに押し込み、もうすぐのはずの出航時刻まで船内を探索することにした。
同じようにキョロキョロしながら歩いている外国籍の方々は、目が合うと気軽に「ハイ!」と声をかけてくれる。だが、日本人はそうはいかない。中には会釈をしてくれる人がいるが、ほとんどが身内同士の会話に夢中の様子。どちらが心証いいかといえば……。人のふり見て我がふり直せ。私も気をつけようと思った。
クルーもせわしく動いているが、国籍を問わず皆にこやかに挨拶をしてくれる。すでに国外にいる気分になった。
結局、特に変わった場所の探索はできなかったけど、ま、いいさ。時間はたっぷりあるのだから。
さて、出航の時間。
汽笛を鳴らし、陸を離れる。想像していた紙テープの乱舞にはお目にかかれなかった。それでも、見送りに来ている人たちの掛け声と、船上の旅人たちの笑顔は、自分の気持ちもワクワクさせるものだった。
少し離れた所にスティーブが見えた。後ろには黒い影が。私は手を振った。風が優しく頬を撫でる。彼の想いだ。
「心配性だな」
苦笑交じりに呟いた。
船旅は面白いものになりそうだ。これを書いている今も、まだ高揚感がある。長いこと世界を見て来たが、初体験なんて、まだまだあるものだ。今晩、眠れるだろうか?
本当は遠ざかる横浜の景色だとか、美味しかった夕ご飯のこととか、いろいろと書き綴りたいことがあるが、それもまた改めて書こう。先は長い。
明日は(すでに今日)、船長主催のウェルカムパーティーだ。早くも正装の出番だ。