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風来歯科医の航海日記  作者: 時田柚樹
13/37

5月24日

五月二十四日 晴れ

 毎日の日課と共に一日が始まる。平和な証拠だとふと思う。ライラの紅茶も、レベッカのハグも。

 幸か不幸か、昨晩のことは広まっていないようだった。

 昨日は気づかなかったが、スワン会長の秘書はどうしたんだろう? 今日になって連絡を受けているのだろうか。

 なんとなくそのことを引きずったまま、医務室に来た。来たからには暇を持て余していた船医と、対局しなければならない。喜んで引き受ける。飛車角抜きのハンデ付きで。

「先生、いますか?」

 そんな中、突然、船長が入って来た。

「珍しいのう。船長がそんなに急いで」

「デビッド・スミス氏のカルテとか、なにかしらのデータないですか?」

「デビッド・スミス? ここには来たことないんじゃないかな。よっこらしょ」

 先生は椅子をきしませ立ち上がり、ファイルがしまってあるらしいステンレス製の棚に手を伸ばした。

「スミス……スミスっと。提出用カルテには『特になし』のオンパレードだがね」

「……そうですか」

「デビッド氏がなにか?」

 私は口を挟まずにはいられなかった。

「あ、ああ、渡辺さん。具合が悪いのですか?」

「いいえ。先生に将棋を教えていただいています」

「ほう。先生は嬉しいでしょうね。相手をしてくれる希有な方がいて」

 私はイケニエという言葉を思い出していた。

「で、デビッド氏が?」

「ああ、そうだ。渡辺さんはデビッド・スミス氏と同席してらっしゃいましたよね。彼について何かご存じのことはありませんか? 彼は香港から乗船していなかったのですが、その人物らしき遺体が香港の海岸に打ち上げられていたと……。それで、船に確認の通知が来たのです。外見は確かに乗船していたデビッド・スミス氏に似ているんです。でも、決定的な証拠がなくて」

 船長は困惑気味に話した。

「……亡くなられたのですか? パスポートもあるでしょうし、彼の国籍はアメリカでしょう? 本土に問い合わせた方が早いのでは?」

 本人かそうでないか。それは大きな問題だ。

「それが……。パスポートの記録を問い合わせてみたのですが、それらしき人物はいないと言われまして……。所在がないんです」

「それで、万が一の希望にかけてここへ来たと」

 先生がため息交じりに呟く。

「はい。私もこんなことは初めてですから……」

「ふうむ……」

「あ」

 私が発した短い言葉に二人の視線が絡みつく。

「何か?」

「ええ、思い出しました。歯科医師として、思いだすのに時間がかかったことを恥ずかしく思いますよ」

「なんですか?」

 二人が食いつく。迫力に押され気味に口を開く。

「彼の下歯列弓、左五番、第二小臼歯に金歯がありました。綺麗な歯なのにもったいないと。最近の日本では、治療痕が見えないようにセラミックを使用し、白くするものですから」

「早速、問い合わせてみます!」

 船長は来た時よりも急いで部屋を出て行った。

「昨日の今日で、大変ですね」

「長く海の上にいれば、いろんなことがあるもんじゃ。嬉しいことも、悲しいことも、な」

 船医の顔が曇った。

「今度、一緒に飲みましょう。ごちそうしますよ」

「そりゃ、ありがたい」

 中断されていた将棋は、あっという間に終わった。

 あ、せっかく船長が来たのに、秘書のことを聞き忘れた。


 夕食までは部屋で本を読んで過ごした。実際は、テラスで日光浴。借りてきた本は、最初の三ページで止めたから。

「千早はダンスが嫌いかしら?」

 レベッカに言われた。

「いえ、や、そうですね。苦手な方です」

「今日も夜にダンスパーティーがあるの。規模は小さいけど楽しいわよ。いかがかしら?」

「はぁ……」

「お前、困ってるじゃないか」

 アルバートが話を止めてくれた。

「だって、あなた。千早ったら、一度も参加してないのよ? そりゃあ、こんなおばあちゃんが相手じゃ、気分も乗らないでしょうけど」

「いいえ、とんでもない。私が皆さんの、お相手できるレベルにいないんです。足を踏んでしまってはと……」

 しかし気分を害さないようにってのは、難しい。別に、相手をするのがイヤという訳ではない。過去にダンスを習ったこともある。ただ、パーソナルスペースでの会話が不安なのだ。

「まぁ、いいわ。今は見逃してあげましょう。でも、ラストナイトは覚悟しててね」

「お手柔らかにお願いします」

 テーブルが笑いに包まれた。

「やだぁ、本当?」

「そうなのよ。彼女のジュエリーが無くなってるんですって」

「有名なおじいさんの宝石だけかと思ってたけど、やっぱり盗まれたのかしら?」

「そうじゃない? 荷物を調べてみて気付いたのかもしれないわね」

「私も部屋に戻って調べてみるわ」

 周りの声に少し気を付けてみると、そんな話をしていた。私のテーブルの同席者からは出ない話題だ。

 なんか、楽しい会話で盛り上がってて、申し訳ないとか思ってしまう。


 気合を入れ直し夜の散歩。

「すみません」

 今日は、声を聴けるまで頑張るというモチベーションでやって来た。

「あの、少しいいですか?」

 音楽を聴いているせいで、私の声が聞えなかったのだと思い、前に回り込んだ。だが、彼女はチラッとも視線を動かさず、声を発した。

「ごめんなさい。忙しいの」

 何に忙しいのだろう。競馬中継を聴いていたとか、ナイターとか。誰かの部屋に盗聴器を仕掛けていて、それを聴いていたとか。

 はっきりとした声質は、明らかに私を拒絶していた。でも、声が聴けた。進歩してるだろう。風の笑い声も聞こえたが。


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