5月24日
五月二十四日 晴れ
毎日の日課と共に一日が始まる。平和な証拠だとふと思う。ライラの紅茶も、レベッカのハグも。
幸か不幸か、昨晩のことは広まっていないようだった。
昨日は気づかなかったが、スワン会長の秘書はどうしたんだろう? 今日になって連絡を受けているのだろうか。
なんとなくそのことを引きずったまま、医務室に来た。来たからには暇を持て余していた船医と、対局しなければならない。喜んで引き受ける。飛車角抜きのハンデ付きで。
「先生、いますか?」
そんな中、突然、船長が入って来た。
「珍しいのう。船長がそんなに急いで」
「デビッド・スミス氏のカルテとか、なにかしらのデータないですか?」
「デビッド・スミス? ここには来たことないんじゃないかな。よっこらしょ」
先生は椅子をきしませ立ち上がり、ファイルがしまってあるらしいステンレス製の棚に手を伸ばした。
「スミス……スミスっと。提出用カルテには『特になし』のオンパレードだがね」
「……そうですか」
「デビッド氏がなにか?」
私は口を挟まずにはいられなかった。
「あ、ああ、渡辺さん。具合が悪いのですか?」
「いいえ。先生に将棋を教えていただいています」
「ほう。先生は嬉しいでしょうね。相手をしてくれる希有な方がいて」
私はイケニエという言葉を思い出していた。
「で、デビッド氏が?」
「ああ、そうだ。渡辺さんはデビッド・スミス氏と同席してらっしゃいましたよね。彼について何かご存じのことはありませんか? 彼は香港から乗船していなかったのですが、その人物らしき遺体が香港の海岸に打ち上げられていたと……。それで、船に確認の通知が来たのです。外見は確かに乗船していたデビッド・スミス氏に似ているんです。でも、決定的な証拠がなくて」
船長は困惑気味に話した。
「……亡くなられたのですか? パスポートもあるでしょうし、彼の国籍はアメリカでしょう? 本土に問い合わせた方が早いのでは?」
本人かそうでないか。それは大きな問題だ。
「それが……。パスポートの記録を問い合わせてみたのですが、それらしき人物はいないと言われまして……。所在がないんです」
「それで、万が一の希望にかけてここへ来たと」
先生がため息交じりに呟く。
「はい。私もこんなことは初めてですから……」
「ふうむ……」
「あ」
私が発した短い言葉に二人の視線が絡みつく。
「何か?」
「ええ、思い出しました。歯科医師として、思いだすのに時間がかかったことを恥ずかしく思いますよ」
「なんですか?」
二人が食いつく。迫力に押され気味に口を開く。
「彼の下歯列弓、左五番、第二小臼歯に金歯がありました。綺麗な歯なのにもったいないと。最近の日本では、治療痕が見えないようにセラミックを使用し、白くするものですから」
「早速、問い合わせてみます!」
船長は来た時よりも急いで部屋を出て行った。
「昨日の今日で、大変ですね」
「長く海の上にいれば、いろんなことがあるもんじゃ。嬉しいことも、悲しいことも、な」
船医の顔が曇った。
「今度、一緒に飲みましょう。ごちそうしますよ」
「そりゃ、ありがたい」
中断されていた将棋は、あっという間に終わった。
あ、せっかく船長が来たのに、秘書のことを聞き忘れた。
夕食までは部屋で本を読んで過ごした。実際は、テラスで日光浴。借りてきた本は、最初の三ページで止めたから。
「千早はダンスが嫌いかしら?」
レベッカに言われた。
「いえ、や、そうですね。苦手な方です」
「今日も夜にダンスパーティーがあるの。規模は小さいけど楽しいわよ。いかがかしら?」
「はぁ……」
「お前、困ってるじゃないか」
アルバートが話を止めてくれた。
「だって、あなた。千早ったら、一度も参加してないのよ? そりゃあ、こんなおばあちゃんが相手じゃ、気分も乗らないでしょうけど」
「いいえ、とんでもない。私が皆さんの、お相手できるレベルにいないんです。足を踏んでしまってはと……」
しかし気分を害さないようにってのは、難しい。別に、相手をするのがイヤという訳ではない。過去にダンスを習ったこともある。ただ、パーソナルスペースでの会話が不安なのだ。
「まぁ、いいわ。今は見逃してあげましょう。でも、ラストナイトは覚悟しててね」
「お手柔らかにお願いします」
テーブルが笑いに包まれた。
「やだぁ、本当?」
「そうなのよ。彼女のジュエリーが無くなってるんですって」
「有名なおじいさんの宝石だけかと思ってたけど、やっぱり盗まれたのかしら?」
「そうじゃない? 荷物を調べてみて気付いたのかもしれないわね」
「私も部屋に戻って調べてみるわ」
周りの声に少し気を付けてみると、そんな話をしていた。私のテーブルの同席者からは出ない話題だ。
なんか、楽しい会話で盛り上がってて、申し訳ないとか思ってしまう。
気合を入れ直し夜の散歩。
「すみません」
今日は、声を聴けるまで頑張るというモチベーションでやって来た。
「あの、少しいいですか?」
音楽を聴いているせいで、私の声が聞えなかったのだと思い、前に回り込んだ。だが、彼女はチラッとも視線を動かさず、声を発した。
「ごめんなさい。忙しいの」
何に忙しいのだろう。競馬中継を聴いていたとか、ナイターとか。誰かの部屋に盗聴器を仕掛けていて、それを聴いていたとか。
はっきりとした声質は、明らかに私を拒絶していた。でも、声が聴けた。進歩してるだろう。風の笑い声も聞こえたが。




