哲学的ゾンビ
少年は家を飛び出した。纏わり付いてくる冷えた空気も、後ろから聞こえてくる母の声も置き去りにして、少年は夜の街を駆け抜けた。
きっかけは単純なことであった。学校の友達と一緒に通話をしながらオンラインゲームをしていたら、声が大きいと母に怒られたのだ。少年は自分が悪くて、怒られるのもまた当然のことだとは分かっていたが、それでも自身の間違いを安易に認めるほど、少年は大人ではなかった。
母が悪いのだ。自分は悪くなどない、と少年は自身に言い聞かせながら街を駆け、森も抜け、小高い丘の上へと降り立った。街の光が遠くまで大地を照らしているのを、丘の上から眺めることができた。
少年はこの丘から、夜の街を眺めるのが好きだった。虫が時々飛んできて不快ではあったが、それでも少年は、家で嫌なことがあるとすぐにこの小さな丘へと逃げ込んできた。そうして風に当たりながら頭を冷やし、1時間ほどすると家へと帰るのである。
夜風に揺れる草木を、遠くで歩く人影を、星などほとんど見えないけれども、それでも遥か彼方まで広がる大きな空をボーッと眺めながら少年は静かな時間を過ごした。やがて1時間経ったであろうか、少年がそろそろ帰るかと思い始めた頃、
「こんばんは」
と、そんな声が少年の背中にかけられた。少年はビクリと身体を跳ね上がらせ、自身に声をかけた存在へと顔を向けた。
そこには白く短い髪に、赤い髪飾りを結んだ大学生くらいの少女が立っていた。
「...僕に何か用でしょうか...?」
この場所は少年にとってはいわば秘密基地のような場所であった。街の外れの方にある厳しい坂の、道路沿いにある道無き林を抜けた先にある場所で、普通ではまず見つからないような場所であった。今までもこれからも、恐らく誰にも見つからないであろう筈であったそんな場所に、少女が偶然迷い込んだとは考えられなかった。人攫いだろうか、殺し屋だろうか、それとも別の何かだろうか。どっちみち普通ではないであろうそんな少女から、直ぐにでも逃げられるように少年は腰を浮かし、片膝を立てて少女の返答を待った。そんな少年を見てか、少女は
「あぁ、ごめんなさい!別に怪しい人じゃなくて、そのー、道に迷ったというか?そしたら偶然君がいたというか?そんな感じでー」
確実に怪しい人だ。少年はそう確信した。
「僕はもう帰りますので...付いてこないでください」
「あらー、せっかくこんな辺鄙な所で人と会えて運命感じてたのにー...まぁ、けど傍から見れば怪しさMAXだろうしね、うん、しょうがない。それじゃあね!」
そんな別れの言葉を言うと、少女はその場に腰を下ろし、静かに街の方を見つめ始めた。ゆっくりとその場から離れていく少年に一瞥もくれずに街を見つめるその少女に対し
「...本当に道に迷ってきたの?」
少年はそう尋ねた。ゆっくりと少年に視線を向けた少女は若干ぽかんとした顔をしながら口を開いた。
「...帰らないの?」
「最初はお姉さんが怪しい人だと思ったから帰ろうとしたけど、本当に道に迷ったように感じられてきたから...」
「お姉さんは怪しい人かもよ?」
「だったら僕が帰ろうとした所を襲ってくるだろうし...」
「なーるほどー!」
少女はそんな支局真っ当な回答をとても感心したようにしていた。そうして、少年の道に迷ったのかという質問に
「本当に道に迷ったんだよ」
と、無邪気な顔で返した。それを聞いた少年は少女から若干離れた所へ、まだ若干の警戒心を表しながらも腰を下ろした。そんな少年にはさして興味を示さないように街に目をやりながらも少女は少年に尋ねた。
「君はなんでこんな所にいたの?」
「...お母さんと喧嘩して家から逃げてきたから」
「それだけ?」
「それだけ」
少年のそんな返答に合わせるように、少女がクスッと笑う声が聞こえて、少年はムッとした。続けて少女に
「子供だね」
と言われ少年は更にムッとした。自分のことなど知りもしないくせに。そう思いながら、少年は街を眺める少女の顔を睨んだ。そんな少年の視線に気づいたのだろうか、少女が少年の方に顔を向けた。
「...もしかして怒ってる?」
少年の顔を見て、少女は心底意外そうな表情で少年に尋ねた。その言葉になんだが子供扱いでもされたかのような匂いを感じた少年は咄嗟に
「怒ってなんかない!」
と、傍から見れば怒っていることがハッキリ分かるような声で、少女の言葉を否定した。だが、怒ってることがハッキリ分かった少女はクスッと笑った。
「やっぱり怒ってる」
「怒ってない!!」
この少女はもしや自分のことを揶揄う為だけにここに来たのではないだろうか。だとしたらこのままここに居ても不快な気分にさせられるだけではないだろうか。そんな風に思い始め、そろそろ帰ろうと考えた少年の考えを読んだのだろうか、少女が
「帰るならその前に、一つだけ面白い話があるから聞いてくれる?」
と、そう少年に言ってきた。その表情には少年を小馬鹿にしたり、軽蔑するような雰囲気は微塵も感じられなかった。そろそろ帰らないと母親が本気で心配し始めるのではないだろうか、と思いながらも、少年は
「...あんまり長くなるようなら途中で帰るから」
少女の話というのを聞くことにした。その瞬間、本当に一瞬だけ少女の顔に邪悪な笑みが浮かんだような気がしたが、無邪気な顔で話し始めた少女を見て、少年は気のせいだろうと思った。
「君は、周りの人間。例えば君のお母さんだったり、友達だったりが人間だと思う?」
何を言っているんだろうかこの少女は。さてはまた自分のことを馬鹿にしているなと思った少年だったが、少女の顔からは彼のことを小馬鹿にするような態度は微塵も感じられず、むしろ真剣に質問しているということがその表情からはわかった。引っ掛けの類のようなものであろうかと思った少年は、母や友達が「人間かどうか」という問いをじっくり10秒程考えそして、
「...人間だと思う」
そう答えを出した。その答えが読んでいたであろう少女は間髪入れずに
「何故?」
と、再び問いを投げかけてきた。
「何故って言われても...逆に人間じゃなかったら僕のお母さんや友達はなんだって言うんだよ」
そんな少年の問いに、少女はわざとらしく考える素振りを見せた後にこう言った。
「...ゾンビとか?」
「は?」
いよいよもって彼女が何を言いたいのかわからなくなってくる。まだ幼い子供ではあるものの、少年にだってゾンビが何であるかなどわかる。血塗れで、うめき声をあげながら足を引きずって動く人だったもののことだ。そんな奴と自分の母や友達が一緒な訳がない。
「ゾンビは死んで、ウイルスでおかしくなった人間のことだろ?僕のお母さんや友達は生きてるし、おかしくなんてなってもいない。ゾンビな訳がないだろ」
「あー、私が言ったのはそういうゾンビじゃなくてー...」
数秒、考える素振りを見せた後に彼女はまた問いを投げかけてきた。
「人間ってなんだと思う?」
「...そろそろ帰っていい?変な質問ばっかりでそろそろ疲れてきたんだけど」
面白い話があると言っていたから聞いていたものの、少女の話すことは質問ばかりで、しかも何が伝えたいのか全くわからない。少女の表情は先ほどと同じく真面目なものであったが、表情がそうなだけで内心では自分のことを馬鹿にしているのではないだろうかと少年は思い始めた。だが、少年の気持ちを知ってか知らずか、少女は少年の言葉を無視してなおも”面白い話”を続けた。
「例えばそうねー、君のお母さんや友達の身体の中身がなくて皮だけのハリボテとかだった場合、それは人間と呼べるかしら」
「...それは人間じゃないでしょ。そもそもそんなのあり得ないけど」
「どうしてあり得ないと思うの?」
少女の顔に若干だが邪悪な笑みが浮かぶ。
「君はお母さんや友達の身体の中身を見たことなんかないでしょ?もしかしたら君のお母さんや友達は実は表面に人間の皮を被っただけの機械かもよ?」
「そんなのあり得ないだろ...だって...」
そこまで言って少年は、自分の母や友達が皮だけの存在なのではないかと思い始めた。少女の言っていることは馬鹿げてる。常識的に考えればあり得ない話である。が、同時にあり得ないと言うことを証明することもできなかった。母親を殺して、皮を剥げば人間であるということを証明できるだろうが...
「皮を剥いで確認して仮に肉塊が出てきたとしても、それが人間だと言うことになるのかしら」
まるで少年の心を読んだかの様に少女がそう言ってきた。そこには最初に会話した時の無邪気な表情はなく、ただただ、邪悪で残酷な、悪魔の様な笑みがあった。少年は、目の前の少女が人間なのかどうかわからなくなってきた。
「仮に中身が機械でなく肉塊であったとしても、その人間のようなものに心はあったのかしら?或いは感情はあったのかしら?実際には人間そっくりな姿をした...」
少女は邪悪な笑顔を少年に向けながら言った。
「感情のない、”ゾンビ”の様な物かもよ?」
少年は走り出した。一目散に少女の姿をした”何か”から逃げ切るべく林を駆け始めた。低木の枝が少年の手足を傷つけ、小さな石が何度か少年のことを転ばせたが、少年はひたすらに少女の姿をした”何か”から逃れるべく走り続けた。林を抜け、坂を下り、街中に入ってなお、彼の足が止まることは全くなかった。
どれだけ走っただろうか、少年は我が家の前に着くと無我夢中でインターフォンを連打した。数秒後、家の鍵が開く音と共に心配そうな表情をした少年の母親が出て来た。
「●●!どうしたのその手足の傷!」
「があ゛さ゛!があ゛さ゛ん゛ん゛!!」
少年は母親に抱きつき、母親もまた小さな自らの息子を抱き返した。母親が自分に対して、何があったのか問いかけて来ていたが、少年にはそんなことなどどうでもよかった。ただただ、あの少女の姿をした”何か”から逃げ切れた安心感と、自らを抱きしめてくれる人間がいる幸福感でいっぱいだった。だがそこで、まるで脳内に直接語りかけるかのごとく、少女の言葉が頭に響き渡った。
「君はお母さんや友達の身体の中身を見たことなんかないでしょ?もしかしたら君のお母さんや友達は実は表面に人間の皮を被っただけの機械かもよ?」
「感情のない、”ゾンビ”の様な物かもよ?」
瞬間、自分を抱きしめてくれている母親の温かい手が、急に恐ろしい物に感じられてきた。自分の母親は本当に人間なのだろうか?実はあの少女と同じように人の皮を被った”何か”なのではないだろうか。自らを案じ、心配し、抱きしめてくれる母親に対し、少年は底知れぬ恐怖を感じた。
数日後、少年はーーーー