愛情
私には『好きな人』がいた。
とある事故で記憶をなくした自分が唯一思い出せたのが、それだった。
それは誰なのか、いつ好きになったのかも覚えていない。それでも、『好きな人』がいたのは確かだ。
男か、女か。歳はいくつか、全く覚えていない。それでも、温かさは覚えていた。
一緒にいると落ち着いた。胸の中が満たされていた。
私には『好きな人』がいた。
雲に覆われた心の中で、『それ』は光とも言えた。
私には好きな人が、好きだと思える人が、自分が、心がいた。
そこで、部屋の扉が開く音がした。
「あら、起きてたのね」
明るい笑顔を浮かべる母親がそこにはいた。
母親の笑顔を見て、なぜか自分までも笑顔になってしまった。
心が温まる。まるで雲が晴れるような――あれ?
「どう? 何か思い出した?」
その言葉にハッとする。
思い出した。そう、一つだけ。
「自分には、好きな人が……いるの」
いる。確かに私には、『好きな人』がいる。
「その人といると、落ち着くの。 その人の笑顔が好きで、その笑顔を見ると自分まで笑顔になっちゃう」
記憶が洪水のように溢れだしてくる。
私には『好きな人』がいる。
その人の向日葵のように明るく、温かい笑顔は、何度も私を包み込んでくれる。
母親は口を開く。
「そうね……小さい頃のあなたはよく笑っていたわ。 その笑顔で、自然とこっちまで笑顔になるの」
思い出す。小さい頃の記憶。母親の笑顔。
「私はね、貴女の記憶がこのまま戻らなくても、戻っても、今までの貴女がいなくなってしまっても……それでも、貴女は私の大好きな娘よ」
母親は、昔よりも皴の増えた顔で笑ってみせる。頬には涙が伝う
「お母……さん」
私には『好きな人』がいる。
自分が笑うと、母親はいつも笑ってくれる。私はその『笑顔』が好き。
だから自分も、母親に倣って笑ってみせる。
涙で頬を濡らしながら。
「お母さん……大好き」