第五話
どうやらこの悪天候は通り雨の類だったらしく、十五分後にはだいぶ弱まってきた。風もほとんど止んで、視界もそこまで悪くない。次第に暴風雨から通常の雨降りへと変遷していった。
――しかし、ロットからの連絡はまだない。
……これは、戦いが長引いてるのか、それとも、もしかして――
ロッジ内にそんな不安が渦巻く中、いよいよルーとウェリィがいても立ってもいられないようにソワソワし始めたところで、アンディさんが窓を開けて外を確認。ここでようやく、
「……よし。ロットを探しにくぞ」
と許可が下りた。
それを聞くや否や、焦燥した表情で一目散に外へ飛び出すルーとウェリィ。アンディさんの
「おい! カザミドリが潜んでるかもしれねえんだから、慎重に行けよ!」
という注意も、果たして二人に届いたのか疑問なほどに、つむじ風のように駆け出して行ってしまった。
「……ったく」
その背中を見送りつつアンディさんは嘆息して、俺達の方を振り返りながら、
「とにかく、俺達も行くぞ。お前達も十分注意しろよ? ……あと、あいつがここに帰ってくるかも知れねえから、とりあえずムツナはここで待機してろ」
「了解です!」
敬礼まがいの仕草をしながら答えるムツナ。
ムツナにロッジを任せ、アンディさんに続いて俺とギーンもロッジを出た。
そしてドアの前に立ったアンディさんの
「じゃあ、俺らも手分けしてロットを探すが、もし見つけたらトランシーバーで連絡すること。いいな?」
という指示に、俺とギーンは「はい」とハモリながら答えて、
三方に散った。
――そして、雑草を蹴散らして山狩りをしている最中、トランシーバーにアンディさんから連絡が入ったのは、ロッジを出てから三十分後のことだった。
『……全員集まれ。場所は、北東エリアの北端の崖のところだ』
という指示に従ってその場所に行くと、すでに俺以外の全員――アンディさん、ルー、ウェリィ、ギーン、ムツナ――が集まっていた。何やら落ち着かない様子で、みんな一方向へ視線を向けている。
俺がそちらへと駆け寄ると、俺に気付いたルーが手を振りながら、
「あっ! ダルク! こっちだよ!」
「ロットはいたのか?」
「うん。多分……いた。だけど――」
歯切れの悪い返事をするルー。
「――あれだと思うんだけど、その、遠くて確認できなくて……」
そう言いながら、ルーはちらりと視線を横に泳がせた。
ルーの視線を追っていった先には谷がある。九十度に限りなく近い絶壁。とても人が簡単に上り下りできるような角度ではなかった。斜面ではなく、万人をして崖と言わしめるものである。
その谷底は、かなり深い。
下の地面に生えている木々もかろうじて見えるが、それはもはや砂粒よりも小さい程度。高低差は三、四百メートルくらいだろうか。覗き込むだけで目眩がしてきそうな深さである。
そして前方百メートル程先、ぽっかりと穴が空いたような谷の中に、台地がある。
この谷を海に例えるなら、浮島のようなものだ。
その台地はちょうどこちらと同じくらいの高さである。もし陸続きだったなら段差もなく渡れるだろうというくらい、ちょうど真正面にその陸地はある。しかし、こちらと向こう側にはかなりの幅があり、とても直接跳んで行けるような場所ではなかった。
そしてその台地の上、地面に〈何か〉が横たわっている。遠過ぎて、『地面の上に何かが積まれている』ということがかろうじて分かる程度のものだが――
「……あれ、遠くてよく見えないけど、多分、人……だよね? もしかしたらあれがロットじゃないかって……」
よぎる不安に声を震わせながら、ルーが俺に説明してくる。
と、
「ロット様〜っ!」
さっきから一生懸命台地の方へ目を凝らしていたウェリィが、手で筒を作って、その横たわったものに向かって叫んだ。
しかし、〈それ〉はまったく反応しない。ピクリとも動かない。動く気配がない。かすかな山彦が返ってくるだけだった。
再度、ウェリィは
「ロットさ〜ま〜っ!」
と叫んでみたが、やはり同じだ。リアクションがない。
俺の隣に立っていたギーンがアンディさんに、
「……ここ、渡れないんですか?」
「ああ、一応ここにはつり橋が架かってたんだが――」
答えながら、アンディさんはすたすたと崖の淵の方に歩いていった。
そこには、地面に突き刺さった木の杭と、それに巻きついているロープがあった。その巻きつき方は頑丈そうだが、その片端は途中で切れている。力任せに引き裂かれたように、ブチブチにちぎれていた。
ギーンはそれを見つめながら、
「……それは?」
「つり橋の成れの果てだ。ロープが引きちぎられてる。恐らく、さっきの風雨で飛ばされたんだろう」
「じゃ、じゃあ、どうやって〈あれ〉を確認するんですか? 向こう岸に渡らなきゃ、ロットさんかどうか確認が――」
「……まあ、強行策でいくしかないだろうな」
そう答えながら、アンディさんはおもむろに肩に掛けていたバッグからするするとロープを取り出した。
結構太めの頑丈なヒモ。一体それで何をするつもりなのかと眺めていると、アンディさんはそのロープの片方を結んで輪っかを作り、次いでその逆の端を握ると、カウボーイよろしく頭上でぶんぶん振り回し始めた。
何となくこのあとの展開が予想できてきた俺の目の前、アンディさんがそのロープをぴゅっと前方へ放り投げると、その輪っかは谷を飛び越え、向こう岸の地面に埋まった杭にホールインワン。谷に一本の線がかかった。
杭がしっかり固定されているのを確かめるようにぐいぐいとヒモを引っ張っていたアンディさんは、ふいに俺とギーンの方を振り返ってきて、
「……どうする? 結構丈夫なロープだから、数人分の体重にも耐えられると思うが……お前らも来るか?」
「あ、あたし行く!」
「わ、わたくしもいきますわ!」
ルーとウェリィが身を乗り出して手を上げてきた。
なんつー度胸だ、これも愛の力だろうか、と俺はただただ感心していたのだが、アンディさんは首を横に振って、
「……いや。お前らの細腕じゃ、登るのは無理だろ。落っこちたらジ・エンドなんだからな。確認作業は、とりあえず男に任せとけ――――ってことで、どうする? ダルク、ギーン」
再度俺達のほうへ顔を向けてくるアンディさん。
……ロットが心配なら、ルーやウェリィのように率先して行くのが当然のような気もする――――が、しかし、正直なところ、この高さはさすがに怖いし……。
と、風渦巻く谷底を覗き込みながら俺が返答を迷っていると、
「あ、はい。行きます」
俺の脇、ギーンが躊躇なく答えた。……答えてしまった。
その返答にこくりと頷き、三度俺の方を見てくるアンディさん。
年下にこんな先手を打たれては、年長者として、人生の先輩として、拒むことなどできるはずもなく――
「――じゃ、じゃあ、俺も」
と、俺も答えた。……答えてしまった。
アンディさんは一つ頷くと、俺とギーンにもロープを握らせ、
「絶対離すなよ?」
という一言と共に、心の準備をする猶予も神頼みをする時間も遺言を残す暇もくれないままに、あっけなく地面を蹴ってしまった。
アーアアー、なんて叫ぶ余裕もなく、俺とギーンとアンディさんは、谷底からおよそ数百メートル上空を振り子のように斜め下に飛んでいき、垂直な地面にスタンと着地した。
一応谷を渡ることができたことに安堵したのも束の間、
「はれ、早く登るぞ」
と言って、アンディさんはすいすいとロープを伝って上へ登っていってしまう。
それに続いて、ギーンも軽快そうに登り始めていった。
俺は、眼下に広がるまるで地獄のような地底に身震いしながら、
「これ……上の杭は抜けたりしないんですか?」
「くはは。そんな心配ねえよ。なんせ橋を支えてたんだから。それなりに丈夫なはずだろ?」
「そ、そうですよね」
俺は取り繕うように答えつつ、この恐怖を脱するには早く登ることが先決だということにようやく気付き、ロープを伝い始めた。
登りながらチラリと下方を見ると、地面は目を凝らさなければ見えないほど遠い場所。今さらながらこの手を離した瞬間に俺の人生は終わるということに考えがいたり、いよいよもって寒気がしてくる。俺はどうにかこうにか思考を別方向に向けようと、目の前をずんずん登っていくギーンの背中に向かって、
「……な、なあ。ここって一体どういう場所なんだ? どうにも、特別な地形みたいだけど……」
「いや、まあ、見ての通りの崖なんですが――」
ギーンは少しだけ首を回して、
「――何でも、千年以上前に起こった地震でこうなったらしいです。その頃は地元民族の儀式の祭壇として使われたり、あるいはその名残で罪人の断罪に使われたりもしたそうですよ。……ただ、ここの『赤石』の発掘が始まってからは、誰も寄り付かない場所になってたんですが、ね」
含み笑いのような苦笑いのような顔で説明してくるギーン。
この辺りの歴史について俺はまったく詳しくないが、何やらいわくつきの場所らしいことは分かる。こんな歪な地形があれば、何か宗教的意味を押し付けたくなるのも理解できないでもない。……まあ、イヴはそれを知ってて決闘の場としてここを選んだのかどうかは、俺の知ったことではないが。
――そんなことを考えつつ、えっちらおっちらとロープをたぐること数分。
手が痺れてきた頃合でようやくたどり着いた、天空の離れ小島。
地面が水平であることがこんなに幸せだったとはと思いながら台地の中ほどへ進むと、俺より数分先にこの地面にたどり着いていたアンディさんとギーンが、立ったまま動かなくなっていた。
「一体どうしたんです?」
と尋ねつつそちらへ近づいていき、二人の視線の先に眼を遣ると――――そこに横たわっていたのは、赤い水たまりの中、大剣『グレン』を右手に握り、その鞘を背中に掛け、白いフリースに黒ズボンという、ついさっきまでロットがしていた服装とまったく同じものをまとった――
――首のない死体だった。