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「雁(かり)の涙」

 雁の泣き声は哀愁の象徴。雁の涙は秋の露をあらわすと同時に遠くの人を想う言葉。

 遠くてもね、想いは届くんだよ。

 わたしの想いも、あなたたちの想いも。





 そうして資格を取り、仕事を変え、僕は今まで憧れていた平穏な生活を手に入れることができた。

 同僚たちに嘘をつくこともなくなった。本当のことを言う相手は選ぶけれども、自分が自分のままだったら誰にも相手にされないと思うのはよすことにしたんだ。

 たまに飲み会に誘われることも増えてきて、何度か彼女のような女友達のような人と付き合うこともあった。

 僕は自分の生き方に葛藤を感じることが少なくなっていった。葛藤が少なくなると生きやすくなり、自分にも人にも素直になれた。

 だけど現在の問題が解決したとしても、過去の問題が解決したわけではない。

 僕が十八年過ごした天使園での日々をそう簡単に忘れられるわけではなかった。

 忘れたいと思って蓋をしていた。だけど忘れたくないという想いもどこかにあった。僕はなんだかんだ、今も天使園で過ごしたみんなのことを覚えている。


 エンジェルにのし上がるまで残ったメンバーは少しだけだけれども、特に仲の良かった奴らの記憶は悪いものよりもどちらかといえば口元がにやけるものが多い。

 冬馬とうまは自称ガリ勉の文系不良。小学生時代から頭がよく、いじめっ子たちが何を言っても「あいつらは馬鹿だ」とばっさり言い切って相手にしなかった。

 ほとんどの人間が中卒で終わる天使園で特別に高校に進学することを許され、みんなにおめでとうと言われた。

 そりゃあやっかむ奴もいたけれども、冬馬がみんなのために何が一番ためになるか知恵を使う奴だったから、祝福してくれる仲間のほうが多かったんだ。

 その冬馬といつもいっしょに行動していたのが幸次郎。天使園に煙草を持ち込んだ張本人。ちなみに一番煙草ジャンキーになったのは優等生な冬馬くんだ。

 幸次郎は普段おおらかな性格をしているのに一度キレると手がつけられない。

 あいつがキレたところは何度か見ているけれども、全員で取り押さえても全員吹っ飛ばしてあいつが掴みかかった相手がいる。

 孤児院の生徒は成績がよくても中卒だとタカをくくって、他の生徒の成績に冬馬のもらうはずだった成績をつけた教師がいた。

 確実に5が貰えるはずの成績で4がついて「おかしい」と言っていた冬馬の話を聞いて、学校のパソコンにハッキングをかけたのだ。

 あのときの幸次郎の怒りっぷりは半端ではなかったが、冬馬の怒り方も半端ではなかった。

「お前が傷害罪で少年院行きになったらどうしようかと思っただろうが。馬鹿!」

 と幸次郎を叱り飛ばした。

 冬馬は自分の成績を下げた教師に腹を立てる前に幸次郎の沸点の低さを叱ったから、幸次郎と冬馬はその場で喧嘩になった。

 冬馬の気持ちも幸次郎の気持ちもわかるから周囲はどっちの味方もしなかった。

 最終的に二人はタッグを組んで、点数を下げた教師のパソコンのデータをウィルスで学校中にばら撒いた。

 褒められたことではなかったけれども、天使園の奴らは彼らを英雄だと褒め称えた。

 幸次郎と冬馬はいつもいっしょに行動していた。本当に兄弟か双子のように、いつでもふたりでひとつのセットだった。

 未波みなみは僕たちの世代の天使園メンバーで唯一エンジェルに残った女の子。それも実力で残ったわけではない、天使園とエンジェルを束ねる園長の息子、公章を落としたから残ったのだ。

「未波をどこかに売るなんて嫌だ」

 と普段主張しない公章がガンとして譲らなかったから未波はエンジェルに残ることを許された。

 本人がどんな奴かって? 頭の足りない子ってイメージが正直なところだ。泣き虫で、すぐ笑って、思いやりはあるけれども空気は読めない、頭は悪いけれども愛嬌はある、そんな子だった。

 小さな天使園の子たちはみんな未波を慕った。というのも、あまりに頼りないお姉ちゃんだったので、周囲の子たちが「しっかりしなきゃ」と思ったようだ。

 自主的に未波を助けるようにがんばる妹分弟分たちはどんどんと力を伸ばし、未波はその代わりどんどん無能になっていった。

 だけどともかく愛された。あの愛される才能だけは誰にも真似できない才能だと僕は思う。

 逆にみんなに嫌われている奴もいた。それが久弥ひさやだ。

 ともかく性格が悪いのだ。意地悪なことしか言わない奴だったし、未波や公章のことをしょっちゅういじめていた。

 しかもそういう奴に限って美形で頭もキレるタイプだったりするのだ。

「あいつは結婚詐欺をやらせたら絶対トップにのし上がる」

 と言う奴もいたし、

「マルチ商法の教祖様になれるよ」

 と言う奴もいた。ともかく口から先に生まれて、性格のよさに回すはずのエネルギーを全部顔に注いじゃったような奴だった。

 あいつが小学校で一口百円のねずみ講を始めたときはその規模が拡大しすぎて学校中の大問題になった。そんな中で証拠という証拠を残さず

「僕は被害者です」

 みたいな顔をしながらしっかり貯金をしていたのが久弥だ。しかも冬馬と違ってあいつは、みんなのためにではなく、自分のためにそのお金を使う男なのだ。

 久弥が一番の金持ちだったから、どうしても金が入り用で園長が出してくれないときはみんな質草を持って久弥の元を訪れる。久弥は高利子で数百円を貸し付ける。さらに儲かり、さらに嫌われる。

 みんなあいつのことをあまり好きじゃあないと言っていたけれども、僕はあいつがわざと嫌われるようにしていたことが今ならばわかる。

 あいつはなんだかんだ、何が自分に必要なのかも、何が相手に必要なのかも理解していた。

 大人たちがいないときに弟分のひとりが庭のスズランを口にして死にかけたとき、混乱する園児たちの中で、当時誰も持っていなかった携帯で適切に処理して、あり金全部はたいてその子の命を救ったことがある。

 だからそのとき救われた比呂人ひろとは一生久弥に頭が上がらない。

 久弥は笑顔で

「あなたは一生僕の下僕でありパシリです」

 と三歳児に言った。未波が思わず泥団子を投げつけたけれども、泥をかぶってもあいつの顔は涼しく美しいままだった。

 あいつの顔に硫酸をかけてやろうと思った奴はきっとひとりやふたりではないはずだ。

 そして僕の世代の同僚の最後のひとりは、公章だ。天使園とエンジェルという極悪非道なふたつの組織の園長の息子。

 そのくせ泣き虫で、煮え切らない性格で、うじうじ悩み、NOと言えない奴で、非常にネガティブ。

 だけどあいつは誰よりもみんなの気持ちを理解する奴だった。だから絶対に

「俺は命令する立場にはならない」

 と言っていた。園長の息子に生まれたから偉いとか、拾われたり捨てられた子だから偉くないとか、そんなのはおかしいとはっきりと言う子だった。

 今思うと、公章の考える天使園のあり方のようなものがきっとあったのだろうと思う。だけど公章は恥ずかしがり屋で自信のない子だったから、それをうまく表現することができなかったのだ。

 僕が公章を一目置いているのは、たぶん僕が公章に一目置かれていたからだと思う。

 僕は天使園の中でも優秀なほうだった。頭もよく、体力もあり、技術も判断も申し分ないと言われていた。

 だけど僕は言うことがキツいからみんなから怖いと思われていた。公章だけが僕のことを怖がらずに接してくれた。

 いや、怖がっていたかもな。ともかく、怖がりながらも僕の近くをうろちょろしていた。そして僕のことを「雲雀さん、雲雀さん」と慕ってくれた。

 だから僕も公章のことが嫌いじゃあないのだ。

 英里香が消える一ヶ月くらい前だろうか。エンジェルの積荷のチェックを倉庫でしていた僕のところに公章がやってきた。

「雲雀さん、俺にしかできないことって何でしょうか」

 公章は思いつめた顔でそう聞いてきた。

「俺はなんだかんだ恵まれている。みんなみたいに親の顔を知らないわけではない、売られるわけでもない。お小遣いも貰えるし、みんなと平等じゃあない。だから久弥が俺のこと嫌いな気持ちが理解できるんだ。俺は結局、久弥の気持ちになりきることはできないから」

 また久弥にいじめられて悩んでいたのか。と呆れてしまった。親がいるのも、親がいないのも、子供たちの責任ではないのに。

 僕は積荷のチェックが忙しかったから公章の質問の答えに真剣に向き合うことはしなかった。

「公章にしかできないことは、公章が自分で納得する答えを探せばいい。僕はそんな自分にしかできないことが何なのかなんてどうでもいいよ。僕の替えはどれだけだっているんだし、僕じゃあなきゃできないことなんてないと思っている。目の前にあるひとつひとつをクリアしていくだけだ」

 そう言ってしまった。公章は俯いて沈黙して

「そうですよね。俺の替えなんてパチンコの玉ほどいっぱいありますよね」

 と呟いた。パチンコの玉は言いすぎだとちょっと思ったけれども公章のネガティブスイッチが一度入るとそれを止める手段はとことんネガティブになって底まで落ちるしかない。底まで行かないと浮上してこない奴なのだ。

 僕は公章が肩を落として倉庫を去って行くのを見送って、荷物の検査をしていた。

 今考えると、あいつはきっと何かやりたいことを探していたんだ。今の僕が本当は何がやりたいのか自分に質問しているように、もっと早くそれに取り組んでいたのだ。

 同年代以外の、まだエンジェルではなく、天使園にいたメンバーで自分ともっとも繋がりが深かったのは英里香と比呂人だと思う。

 天使園の前に捨てられている英里香を僕が発見した。

 名前がまだついていなかったから、園長が僕に名前をつけていいと言った。こういうのは第一発見者が名前をつけるのが天使園のルールなのだ。

 僕は彼女に、英里香と名づけた。園長は

「随分オシャレな名前だね」

 と言った。語彙の少ない僕は、近所のケーキ屋さんに並んでいるケーキのひとつの名前をつけたんだ。

 フルーツたっぷりのタルト。当時未波が食べたいと言っていたケーキだ。

「きっと可愛くてね、いい香りがしてね、口にいれるとふわっと甘酸っぱくてね、みんな幸せになれるような味なんだよ」

 未波は僕にそう熱弁した。ケーキなんて、誕生日の日に百円ケーキを食べることを特別許可される程度じゃあないか。そんなケーキ屋さんのケーキなんて夢のまた夢だった。

 だけどみんな、未波の言った英里香というケーキにすごく夢中だった。どんな味がするんだろうって。そりゃあ当時みんな小学生だったしね。

 だから僕は、みんなを幸せにする夢を託して、英里香って名づけたんだ。

「あなたは大きくなったら英里香ちゃんを食べるつもりでしょう」

 と下世話なことを言ったのは当然、久弥だった。そんなことはしないと憤ったのを覚えている。天使園で一番幸せな子になってほしいって思ったんだ。

 英里香はよく走り、よく笑い、ともかく元気な子だった。いつもいっしょに遊んでいる比呂人はちょっとトロくさく、だけど頭はけっこうよかった。

 比呂人が頭のいい理由は久弥にあると思う。あいつは比呂人の命を助けて以来、気紛れに算数ドリルや漢字ドリルを一週間以内にやるのだと押し付けて遊んでいたのだ。

「字が汚いから百回やりなおし」

 とあいつが言って、彼が泣き顔になったときは僕が久弥に何か言ってやろうと思った。

「いいんですよ。どうせトロい奴は賢いくらいじゃあないと使い道がありませんから」

 久弥はそう言った。まるで役立たずはいらないと聞こえて、周囲からまた反感を買った。

 比呂人に嫌ならやらなくてもいいと僕は言った。すると比呂人は困ったように笑って

「でも、本当にトロいだけの奴なんて、天使園には不要でしょ?」

 と言った。当時何歳だと思う? 五歳だよ。五歳の子が、自分が頭も悪いとその後どうなるかわかるような社会だったんだ。

「僕は英里香みたいに運動神経がいいわけじゃあない。木登りもできないし、不器用で銃の組み立ても失敗するし……」

 比呂人はぼそぼそと小声になりながらそう言った。かける言葉を考えていると、いきなり顔をあげてこう言うんだ。

「だけど、絶対頭よくなります! 久弥兄が僕にいっぱいドリルをくれるから、冬馬兄より頭よくなって、そして絶対学者になるんだ。学者になると論文が発表できるんだって。だから僕は『みんなが幸せになるためにはどうすればいいか』ってことを研究しようと思うんだ。天使園だけじゃなく、日本だけじゃなく、世界の人全部が幸せになれる論文を発表して、そして偉くなって、金持ちになって、そのお金でもっとみんなが幸せになれるようにってことを研究して……」

 ここらへんで僕は比呂人に「わかったよ」と言った。久弥の意地悪を厚意と解釈できるこの善良な子がどうして一番性格の悪いあいつの下っ端をやっているのだろう。

 というよりこいつ、生き残れるのか? 天使園というヘビィな環境でこのぬるくて甘い考えで生き残っていけるのだろうか。


 このメンバーだけの紹介をすると、天使園はお金はないけれどもいい場所だったように聞こえるかもしれない。だけど僕の印象に残っている奴が比較的いい奴が多かったというだけで、こいつは絶対将来ロクな人間にならないぞと思うような奴のほうが多かったかもしれない。

 それも仕方のないことだ。だって僕らはそういう、人を陥れる教育ばかりをされていた集団だったからね。

 だけど上に立つ資格のない奴らは、どうせ売られていく存在だった。だから僕の頭に残っているのは、中学を卒業しても天使園に残ることを許されたメンバーだけなのだ。

 僕はふと気づくと、いつも天使園のメンバーのことを考えている。

 正直あそこでの経験は全部忘れてしまいたい。だけど仲間だけは忘れたくない、宝物だ。僕の幸薄い人生の中できらきらと光った、大切でかけがえもない思い出たちなのだ。

 だけど僕が天使園に戻ることはもうない。

 エンジェルの機密を知ったまま逃亡した僕は見つかれば抹消される可能性がある。

 だから僕は、彼らと会いたくても、もう一度しゃべりたくても、それをする機会など与えられるはずもなかった。



 しかしきっかけなんて、唐突に訪れるものなのだ。

 二十八歳のある日、僕は仕事の関係で、僕が捨てられて、そして育った町に行った。

 それがよくなかったのだと思う。元同僚、天使園の人間に遭遇した。

「あっ」

 先に気づいたのは向こうだった。ダークチャコールのスーツを着た、久弥がこちらを見ていた。

「ひば……」

 僕は最後まで聞かずに走り出した。久弥も一歩遅れて追いかけてきた。

「雲雀! 雲雀! 待ってください」

 待てと言われてあっさり待つほどいい子ではない。鞄の遠心力も利用してぐんぐんスピードをあげる。が、久弥のほうも運動を怠っていなかったようで速い。

 しばらく走ったところで、久弥に肩を掴まれた。

「待ってくださいって言ったのに酷いですね」

 久弥が腹を立てたように言った。昔から慇懃な口調で話すところは変わっていない。

「雲雀、安心してください。もう天使園はあなたを追ったりしません」

 上がった呼吸を整えてから久弥は言った。

「公章くんがエンジェルのボスになったんですよ。あなたと仲直りはしたいみたいですけど、今更口封じとかは考えていません」

「公章が?」

 あの雨の日、泣き叫んでいた弱虫公章がエンジェルのボスになったというのか。たしかに黒井家の正統な跡継ぎはあいつしかいないんだけど。

「公章……元気にしてる?」

 気になって聞いてみると、久弥はにっこりと笑った。

「ええ。もっと泣き虫だった未波さんと結婚しました」

「幸次郎は? 冬馬は?」

「みんな元気にしていますよ。しばらくぶりに会ってみますか?」

「仕事があるから一時間だけしか無理だけど……」

「十分です。行きましょう」

 久弥が笑った。僕の中で何かが融解していった。天使園に対する憎しみや恨みは正直あったけれども、それでもあいつらに会えるって考えるだけで、それが許されるというだけで、何かが違うように感じたんだ。


「雲雀さん!」

「待て、公章」

 エンジェル本部の応接室にて、公章たちと会ったとき、僕は思わず公章の前で牽制のポーズをとっていた。つまり、抱きつくなと。

「雲雀さーん!」

「ひばりぃー!」

 が、やはり抱きつかれた。どさくさにまぎれて幸次郎まで暑苦しい歓迎に参加してくる。冬馬と久弥は遠目にそれを見ているだけ。

あれから十年も経ったんだ。みんな少しは変わっているかと思いきや、少しも変わっていない。

「今からでもいいです! お付き合いしましょう、雲雀さん」

「いや男はちょっと……」

「違うっての。エンジェルに少し顔出せよ、お前」

 幸次郎が僕の頬を抉るように拳でぐりぐりしながら笑う。

 冬馬が「アホらしい」と言って仕事場に戻っていく。ちょうどそのとき、未波がケーキを持って入ってきた。

「雲雀くん帰ってきたんだって? 未波すごく頑張ってパウンドケーキ焼いちゃった!」

 二十五歳になってまで自分のことを「未波」と一人称する未波の手にあるものは黒こげパウンドケーキ。

「そろそろ仕事の時間だから、帰るよ」

「えー、仕事なんてサボれよ」

 幸次郎はつまらなさそうにそう言った。

「サボれるわけないでしょ。未波、残念だけどエンジェルのメンバーだけでパウンドケーキは食べて」

「うん、そう言うと思って。未波はちゃんと雲雀くんの分だけ別に包んでバスケットに入れておきました!」

 賞めてー、と頭を突き出してくる未波の用意周到ぶりに頭痛を覚えながら、僕はバスケット持参で仕事場へと向かう羽目になった。


 その日、久しぶりに英一が帰ってきていた。

「この焦げたものって何?」

「幼馴染の焼いたパウンドケーキ」

 チョコレートケーキのように真っ黒なパウンドケーキに当然の疑問を持った英一にそう答える。

「天使園、行ってきたのか?」

「うん」

「どうだった?」

「みんな元気そうだった」

「で? どう感じた」

「……仲間も悪くないかなって、少し思った」

 僕の言葉に、英一は気持ち悪いくらい満面の笑みを浮かべた。

「気持ち悪いなあ」

「わり。おじさん最近頬の筋肉たるみっぱなしで」

 英一は今年で四十二歳になる。たしかに最近少し目尻のあたりに皺が増えてきたかな、と感じる。それ以外は会った頃と大して変わらないのだけれども。

「あ、そうそう」

 僕は自分の部屋に戻る直前、襖から顔を出して、英一に言った。

「今日この部屋、入ってこないでね」

「何で? ひとりでAVでも見るわけ?」

「違うよ。ともかく入ってこないで」

 ぴしゃっと言って、襖を閉めた。

 英一の足音が遠のくのをしっかり確認してから、僕はその場にしゃがみこんで泣いた。

 英里香、英里香。

 みんな十年前とまったく変わってないのに、どうして君だけがいないのだろう。生きていたら君は今頃十七歳じゃあないか、あの頃の僕と同じくらいだ。

 英里香はどこへ行ってしまったんだ。あの行方不明になった日、君は元気にランドセルを背負って学校へ行っただろう?

 そのランドセルだけを翌日置いて、君はどこへ行ったんだ。

 ねえ、今君は生きてどこかで幸せに暮らしているの? それともやっぱり何かの事件に巻き込まれて死んじゃったの?

 明確な別れもないまま、僕はまだ英里香への想いを引きずっている。

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