01.吸血鬼とハロウィン
ハロウィン。
それは、あの世に行きそびれた霊が悠々と人里に下りられる、年に一日だけの特別な日だった。ある霊は生家を訪ねて家族の無事を確認し、ある霊は思い出深い歌を恋人の枕元で囁いた。
ところが、人間は悪霊が甦る日だと信じていた。窓ガラスに映る人影や眠る間際に聞こえる幻聴に怯え、身を守るために化け物や魔女に扮する目眩ましを考え出し、魔除けの火を焚いて忌まわしい一日を乗り切った。
そして、山奥で密かに暮らす吸血鬼にとってはというと、ハロウィンほど都合のいい日はなかった。扮装した人間に紛れて吸血行為を容易くこなし、一年分の保存食の確保のため、各地で採血を繰り返した。この日ほど吸血鬼が遠慮なく喉を潤せる機会はなかったのである。
しかし、現在の人間のハロウィンの過ごし方は、過去のものとはすっかり変わってしまった――。
花火が夜空を鳴らす音が、山奥に佇む吸血鬼城にまで微かに届いていた。暗く深い森の中でぼうっと浮かぶように佇む白い城では、バルコニーの欄干に体をもたれ、木々のシルエットの向こうに煌めく星を見つめる青年の姿があった。
「ハロウィンの前夜祭だそうだ。今年から盛大に行うらしい」
アリエスは、背後で姿勢よく立つメイドのベルに言った。
「本来ならば、人間はひっそりと身をひそめるはずのハロウィンに、打ち上げ花火とは……」
ベルは、呆れながら冷たい眼差しを天に向ける。
「魔の者の存在を信じる人間が少なくなったということは、我々が魔の者だと悟られにくくなったとも言える。それはそれで、好都合」
袖の真っ白なフリルが風にたなびくと、アリエスの耳がぴくりと動いた。遥か遠くから運ばれた物音に気づいたのは、ベルも同じだった。
「踊っていた“彼女”のヒールの音が止んだね」
「お出掛けなさいますか」
「ああ。浮かれる人間の血を吸ってくるとしよう」
ベルに目配せをすると、アリエスの姿は半透明になり、あっという間に塵となって消えてしまった。
「いってらっしゃいませ、アリエス様」
ベルは頭を下げて見送った。
森の木々を揺らす不自然な突風は、山の麓へと駆け下りていった。
同じ頃、丘の上に建つホリホック城には、屋上から街を見下ろす吸血鬼と霊達がいた。
「すっげー! どんどん打ち上げろー!」
「ヴァルゴ、ネコの形の花火よ! かわいい〜!」
ヴァルゴと呼ばれた欄干から身を乗り出す勢いの少年は、オレンジジュースが入ったグラスを片手に、花火が開く度に歓声を上げている。
「ヴァルゴさんもヴィヴィさんも花火を見るのは構いませんけど、そろそろ寝ないと明日に差し支えますよ」
テーブルに散らかったお菓子を片付けながら、モリオは言った。
「ゆっくり行けばいいよ。賑やかになるのは昼からだろー?」
「またいい加減な……。遊びに行くんじゃないんですよ」
振り返りもせず答える主人に、モリオは呆れる。
「モリオさんは行くんですか?」
霊の一人が訊ねた。
「はい。僕は付き添いで」
「僕も久しぶりに街へ下りるんですよ。急に懐かしくなりましてね」
朗らかに語る彼につられ、側にいた他の霊も口を開く。
「私、死んでから初めて街に行くんです。家族の様子が気になるので」
「俺は、流行っているという『ぷくぷくモンスターⅡ』の映画を見てみたいなぁ」
半透明の人々は言った。
「皆、楽しみだな!」
霊達に交じって目を輝かせるヴァルゴに、モリオは溜め息を吐く。
「ヴァルゴさんはホリホックの王子なんですから、明日の吸血行為は大王様と女王様に報告しなくちゃならないんです。皆をアッと驚かせるくらいの成果がないと困りますよ!」
「あのさ、俺に“吸血鬼のお手本”になることを求めるのは諦めろって言ってるだろ。じいちゃんの、連続三十人吸血の記録を破れとか、無茶なの。俺には俺のやり方があるし」
ヴァルゴは口を尖らせるが、モリオは引かない。
「王子がお手本にならなくてどうするんですか。そんなことを言っているから、直系の方々にバカにされるんですよ」
「あいつらの言うことは気にしてないからいいんだよ」
能天気なヴァルゴに、モリオの言葉はまったく響いていなかった。
「ほら。モリオも見てみなさいよ。今度は星の形をした花火よ!」
「いだっ!」
ヴィヴィに強引に首を捻られ、モリオは涙で滲んだ色鮮やかな花火を見つめた。
「もう、知りませんからね……」
翌日、ハロウィンの祭りで活気づくガーネットの街は、快晴に恵まれた。
カボチャをくり貫いて作られたランタンが塀にも庭にも並び、店や家の軒先ではお化けや魔女をモチーフとした装飾が客を出迎える。
人々は扮装を楽しみ、過去の偉人、本の中のヒーロー、角の生えた魔の者や美しい姫が愉快な演奏と共に石畳をパレードすると、観客は沸いた。
「ハロウィンってワクワクしちゃうよな!」
「一年で一番好きなお祭りだわ」
込み合う観客をアパートの屋根の上から見下ろして、ヴァルゴとヴィヴィは言う。
「どうしてですか?」
楽しげな二人を不思議がるモリオに、ヴァルゴは笑顔を向ける。
「仲間が増えたような気分になるじゃん」
「吸血鬼の扮装をしている人なんていないじゃないですか」
「雰囲気の話だよ。人間と魔の者が融合してる感じがだな……」
「何かしら? この匂い」
ヴィヴィが鼻をひくつかせたずっと先には、市場があった。パラソルの下では新鮮な野菜や果物が売られ、ジュースが絞られ、パンやパイを売る露店もある。
「お? 鼻で何か見つけたか」
「おいしそうな匂い……、カボチャのポンデケージョだわ!」
甘い匂いの正体を正確に掴んだヴィヴィは、声を弾ませた。
「こっちにいる間はこっちの食べ物で栄養を摂らなきゃだからな。腹ごしらえしておくか」
「直系の方達が寝ている間に、吸血する人間の目星を付けておいたほうがいいんじゃないですか?」
「そんなの夜になってからでも見つかるよ〜」
裏路地に下り立ち、歩いて市場に向かった三人は、ヴィヴィが見つけた小さくて丸いパンとミルクを買うと、隣接する広場の芝生に腰を下ろした。
袋からパンをつまんで、ヴァルゴが言った。
「ヴィヴィってそんなにこのパンが好きだったっけ?」
「ヴァルゴ、もしかして覚えてないの?」
ヴィヴィは眉間に皺を寄せる。
「え、何?」
「ひどい! 初めてハロウィンデートしたときにヴァルゴが買ってくれたんじゃない! 思い出の味なのに!」
ヴィヴィにポカポカと叩かれながらもヴァルゴはパンを食べ進め、
「わかったわかった。今度は覚えるよ」
と言って、ヴィヴィの口にもパンを一つ入れた。
「あれ? ヴァルゴさん、あの子……」
黙々と食べていたモリオが気に留めたのは、四人組の子どもだった。小学生と見え、そのうちの一番背の低い男の子が、吸血鬼の扮装をしていた。
「おお! マントにシルクハットにステッキ……クラシックな吸血鬼だ!」
子ども達はジュースのカップを片手に木陰で休んだが、会話はヴァルゴ達にも聞こえる距離だった。
「リノンが本当に吸血鬼を選ぶとは思わなかったな。どこがいいんだ?」
吸血鬼の扮装をした少年は、リノンと呼ばれていた。
「吸血鬼は不気味でかっこいいよ。君達の扮装なんて、着ぐるみみたいで少しも怖くないじゃないか」
ケチをつけられたリノンは、ムッとして言い返す。
「『ぷくぷくモンスターⅡ』っていう映画のキャラクターだよ。人気なのに知らないのか?」
ペンギンのような衣装で頭から爪先までを覆ったモンスター達は、自慢気に立ち上がった。
「それに比べて、吸血鬼なんて何百年前の怪物だ? 時代遅れだよ」
「ホント。とっくに絶滅してる」
「吸血鬼ってオッサンだったんだろ? かっこよくもなんともない」
ブルーとイエローとピンクのペンギンに散々にこき下ろされ、話が聞こえていたヴァルゴは怒りに震えた。
「何なんだあいつらは! 言いたい放題言いやがって!」
「ヴァルゴさん、芝生をむしらないでください。怒られますよ」
リノンは、負けじと食い下がった。
「タソガレ山にある城には、今も吸血鬼が棲んでるんだ」
ペンギン達は呆気にとられて顔を見合わせると、一斉に笑った。
「丘の上にある城のことか? あれは、昔ここの領主だったエリー様の城だよ」
「たしか、今は私有地だよな」
「そう。いるのは、人間」
「吸血鬼って……ハハハ!」
リノンが反発して言い返そうとしても、もはや彼らの笑いの種にしかならなかった。
その様子を見ていたヴァルゴは、泣いて少年を見守っていた。
「リノンってやつ、吸血鬼の存在を信じてくれてるんだなぁ。嬉しいなぁ」
「ヴァルゴさん、鼻水が出てます」
モリオはハンカチを差し出す。
そんな中、ヴィヴィは冷静だった。
「あの子、よく知ってるわね。ホリホック城に吸血鬼がいるなんて、普通の人間は知らないし信じないわ」
「ただの空想か、何か証拠でもあるんでしょうか……」
モリオもミルクを飲み干し、口の周りに白いヒゲをつけて言った。
リノンの話は、間違ってはいなかった。
元はエリーという女領主の住まいだった城が、現在では吸血鬼の間でホリホック城と呼ばれ、ヴァルゴ達の城になっている。
昔々、女領主と吸血鬼が恋に落ち、女領主が吸血鬼の血を吸うことで、彼女も吸血鬼になった。人間から吸血鬼となった彼女は完璧な吸血鬼にはなれなかったが、新鮮な血を吸わなければ生き長らえない体になった。そして、彼女から生まれた吸血鬼がヴァルゴ達の先祖であり、ホリホックの吸血鬼の始まりだった。
*
日が暮れてヴァルゴ達が街へ出直してくると、昼の雰囲気とは一変していた。
無数のカボチャのランタンには火が入り、軒先に数珠状に吊るされた頭蓋骨のレプリカは不気味な陰影と共に浮かび上がる。昼間は陽気に見えた扮装の人々も、月が昇らない闇に立つと奇妙な生き物が徘徊しているようだった。
「やだなぁ。お化けとか出そうじゃん」
三人は、街灯の少ない路地を歩いていた。
「変なこと言わないでよ、ヴァルゴ」
ヴィヴィはヴァルゴの影に隠れるが、モリオは呆れる。
「毎日霊と世間話をしている人が何を今更……」
「あいつらは悪さはしないの! 人を脅かすのがお化けなの!」
「違いがわかりませんよ」
ヴァルゴとモリオが言い争っている背後に、人影が近づいていた。二人の話が止んだ一瞬に、コツ、と地面を鳴らす靴音が響き、三人はそっと後ろを振り向いた。
「……え?」
「こんばんは」
低い声を発し、アパートの窓明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がったのは、道化の顔をした白い仮面だった。
「ぎゃああああっ!」
三人がのけ反って悲鳴を上げると、仮面をつけたマント姿の男は、懐からリボンが結ばれた可愛らしい包みを差し出した。
「……ハロウィン記念メダルのサービスです。どうぞ」
目の前に出されたヴァルゴは怖々と受け取り、
「……どうも」
と、かろうじて礼を言った。
仮面の男はお辞儀をしてその場を去ると、また他の歩行者に声を掛け、ヴァルゴに渡した物と同じ包みを差し出していた。
「やっぱり表通りに行こう。明るい所でも吸血しやすい人間は見つかるだろう……」
ヴァルゴは半泣きで言った。
表通りは夜でもオルガンの音色が流れ、酒を片手に歌い踊る人々によって賑やかだった。
「お菓子をくれないと、いたずらするぞ!」
「はいはい。あげますから、いい子にしておうちに帰ってくださいね」
家々の玄関には、黒い衣装を身に纏った子ども達がお決まりの台詞を携えて訪ねていた。
「俺もどうせならお菓子がほしいなぁ」
遠くから子ども達を眺めていたヴァルゴに、別方向を見ていたモリオが突然肩を叩いた。
「ヴァルゴさん!」
「何だよ?」
モリオが小さく指差す反対側の道には、昼に見掛けた吸血鬼姿のリノンとぷくぷくモンスター達がいた。
「ああっ! あのペンギン野郎!」
「お菓子を貰いに来たのかしら」
「あいつらの血を吸ってやろうか……!」
「ヴァルゴさん、子どもはだめですよ」
モリオは荒ぶるヴァルゴを抑える。
子ども達はアパートの玄関口をノックすることなく、辺りをきょろきょろと見回していた。
「どの裏道に入ればいいんだ?」
ブルーが訊ねると、リノンは前方を見据えて答える。
「次の角を曲がるよ。山の入口がいくつかあるんだ」
「本当に城に行くつもりかよ」
イエローはつまらなそうに言う。
「城で吸血鬼の痕跡が見つかれば、僕の話を信じてくれるんだろ。……それとも、怖いの?」
「ば、バカだな! 怖いわけないだろ。なあ!」
「う、うん……」
イエローとピンクが焦るのを尻目に、リノンは先頭を歩いた。
話が聞こえてしまったヴァルゴ達は、眉間に皺を寄せた。
「城に行くって、言ったな。ホリホック城のことか?」
「おそらく。皆さんお出掛けですから使用人のコウモリしかいないと思いますが、あまり城を観察されると困りますね」
「ホリホック城に行くにしても、普通に歩いたら一時間は掛かるだろ」
ヴァルゴの言葉に、モリオは首を横に振る。
「今日はハロウィンですよ。霊達のために、山から街へ下りる特別なルートが解放されています」
「それが見つかったら、山の中腹まで二十分も掛からないわね」
ヴィヴィの指摘に、ヴァルゴは口をあんぐりと開けた。
「ってことは、止めないとまずくないか?」
「でも、今ここで堂々と近づけますか?」
「とりあえず、後を追いましょう」
子ども達は、角を折れてヴァルゴ達が来た裏道へと入っていった。
街の喧騒から離れると、草むらの一帯に出る。リノンは開いた手帳を片手に、懐中電灯で地面を照らしながら山道を探していた。
「俺達が下りてきたルートとは違うな」
「ヴァルゴ、どうするの?」
「んー。全員まとめて金縛りにできればいいんだけどさ……」
ヴァルゴの視線の先には、注意深く探索するリノンの姿があった。そして、こっそりと後をつける三人の元に、
「あった!」
というリノンの喜びの声が届いた。
リノン達が山道に飛び込んでいったあと、ヴァルゴが掌に出現させた小さな炎で入口を照らすと、『タソガレ山 近道』と蛍光色のペンキで書かれた看板が立っていた。
「わかりやすい! いつからこんなわかりやすい案内が!」
ヴァルゴが地団駄を踏む横で、モリオは冷静に想像した。
「迷子になって帰れなくなった霊がいたんでしょうね」
リノン達の後を追って山道に入った三人は、いよいよ子ども達を足止めしなければならなくなった。分かりやすい道は始めだけで、進路には森が立ちはだかっていた。
「モリオ、森を抜けたら城に着くよな。っていうか、どっちに行けばいいの?」
「ホリホック城は左方向です」
ところが、先を行くリノン達は右へと進んでしまった。
「あっ! そっちは吸血鬼城ですよ」
「何だと?」
モリオが発した吸血鬼城の名に、ヴァルゴは青ざめた。吸血鬼城には直系の吸血鬼しかおらず、彼らは人間の言い分が通じる相手ではなかった。
「ホリホック城よりだめじゃん! モリオ、今すぐ行け!」
「行くって?」
「子ども達を襲って、Uターンさせるんだ」
「はっ……わかりました!」
珍しくまともな案を出したヴァルゴの気迫に、モリオも気合いを入れて頷いた。モリオは一瞬でコウモリの姿になると、翼をあおいで子ども達の元へと飛んでいった。
キーキーという鳴き声に気づいたリノン達は、歩みを止めた。
「この鳴き声……」
リノンは、すぐにピンときた。
「何? 鳥?」
ビビリのピンクが暗闇で木々を見上げたときだった。一匹のコウモリが、頭突きで突撃してきた。
「うわあ! 何か当たった!」
「うわあ、うわあっ」
泣きべそをかくピンクの焦りが移り、イエローまでもが騒ぎ出す。
「落ち着いて。ただのコウモリだよ」
二人にリノンの言葉は届かず、
「おい、大丈夫かよ……うわっ! 来るな!」
心配したブルーにもモリオは襲い掛かり、子ども達はパニックに陥った。そして、どこへ向かうともなく走り出してしまったのだった。
「なんで向こうに行くんだ」
後方で見守っていたヴァルゴとヴィヴィは、思わぬ方向に走り出した子ども達を慌てて追った。しかし、道らしい道のない暗闇の森で子どもの姿を見つけるのは容易ではなかった。
「ヴィヴィ、子ども達の匂いはわかるか?」
「吸血鬼城のほうへどんどん遠退いてる」
そこに、馴染みのある声が聞こえた。
「ヴァルゴさん? ヴィヴィさん?」
森の奥から現れたのは、昨日の霊達だった。
「お前達、どうしたんだこんな所で」
「これから遊びに行くんですよ」
ヴァルゴは上機嫌な彼らの手を握り、
「悪いんだが、力を貸してくれ」
と懇願した。
リノン達が森を抜けて辿り着いたのは、夜にも関わらず白く輝きを放つ城だった。美しい細工が施された門が、来訪者を手招くかのように、ギイと僅かに開く。
「初めて見る城だ……」
リノンは、目的とは違う城の登場に息を呑んだ。いくつもの塔を有する城は、迫力と美しさを兼ね備えていた。
「リノン、もうわかったよ。だから帰ろうぜ」
ブルーの説得に、イエローとピンクも激しく頷いた。
ところが、いつの間にか彼らをひんやりとした空気が包み、無表情の霊達が取り囲んでいた。
「ヴァルゴさん、すみません。子ども達を見失ってしまって……」
吸血鬼城にやって来たヴァルゴ達を、疲労でふらふらと低空飛行するモリオが迎えた。ヴァルゴは、小さなコウモリを掌に受け止める。
「中に入ったのか?」
「僕が着いたときには、門も扉も鍵は掛かっていませんでした……」
「人間の匂いは途切れてない。きっと中にいるわ」
ヴィヴィは言った。
ヴァルゴ達は門をくぐると、城の大きな扉をそっと開けた。だだっ広い城内は薄暗く、通路の奥にろうそくの明かりが確認できる程度だった。
「おーい、誰かいるかー?」
ヴァルゴが呼び掛けても、声が反響するだけで物音一つ返ってこない。
「皆、街へ下りたのかしら」
「無用心だな。入っちゃうぞ」
ヴァルゴの声は、城に侵入したリノン達には微かに聞こえていた。
「今、人の声がしなかった?」
「さっきのお化けが追ってきたのかも」
体を寄せ合うイエローとピンクは震え上がる。
霊から逃げるために城に侵入した彼らだったが、ほとんど明かりのない広い城内で迷いかけていた。
「少し休もうか」
廊下で立ち止まり、リノンは言った。逃げ惑った子ども達は疲弊し、床にへたりこんだ。
しかし、そこに靴音も立てず、人影が現れた。
「休む? ここをどこだと思っている」
彼が現れた途端、沈黙していた燭台のろうそくに一斉に火が灯った。アリエスだった。
「あの、勝手にお邪魔してごめんなさい。僕達、森で迷ってしまって」
リノンは立ち上がった。その拍子に、胸ポケットから手帳が落ち、あるページが開けた。
アリエスが視線をやった紙の上には、吸血鬼の特徴が記され、タソガレ山の名前もあった。
手帳を拾うリノンの扮装に気づいたアリエスは、冷ややかに訊ねた。
「お前達は、吸血鬼を探しに来たのか」
「え……?」
リノンとモンスター達は、心を読まれたような発言に絶句した。そして、アリエスの開いた口腔に、光る鋭い牙を見つけてしまった。
「こいつ、もしかして……吸血鬼」
ブルーの呟きは、消え入るようだった。
「誰だよ、吸血鬼がオッサンだって言ったのは! イケメンじゃんか!」
「そこはべつに驚かなくていいだろ。それどころじゃないよ!」
イエローとピンクはパニックがぶり返している。
「吸血鬼を探しに来たのなら、吸血鬼が人間の血を吸う存在だということもわかっているのだろうな?」
アリエスは表情一つ変えずににじり寄り、子ども達はアリエスから目を離せないまま後退する。
「やばいって、逃げよう!」
子ども達が駆け出した瞬間だった。ろうそくの灯りに気づいたヴァルゴ達が、廊下を折れて姿を現した。
「いたぞ! 無事か?」
味方と思われるヴァルゴ達の登場に、リノン達は安堵してすがろうとした。
「た、助けてくださ……いいっ!?」
しかし、リノン達はヴァルゴの背後に浮遊する霊に気づいて、血の気が引いた。
「あああっ、お化けだ!」
「あああっ、こっちは吸血鬼だ!」
前も後ろも逃げ場を失い、子ども達は涙目で右往左往するしかない。
そのとき、アリエスがおもむろに左手を上げた。すると、廊下の突き当たりの扉が開き、乾いた風が入り込んだ。
「いや、逃げるなよ! 俺達は助けに……」
「うわああああっ」
ヴァルゴの言葉は届くことなく、子ども達は出口へと一目散に走っていった。
「仕方ないな。モリオ、先回りして山を下りる道を教えてやれ。今度は人間の姿でな」
「はい」
モリオが来た通路を戻っていくのを見送ると、城には元の静けさが戻った。
「なぜ、ホリホックの吸血鬼がここにいる」
あからさまに不愉快そうな表情を浮かべ、アリエスは言う。
「あの子達がこの城に向かうのが見えたから、心配してついてきたんだよ」
ヴァルゴは溜め息を吐く。
「人間の心配か。呑気だな」
「お前達に見つかったら全員の血が吸い尽くされると思ったからな!」
「下世話な大人ならそうしていた」
「あ、意外とルールは守ってるのね。子どもから吸血しちゃいけないっていうのは」
「種を潰せば、実を味わう機会を逃す」
「へー。よくわかんないけど」
ヴァルゴは適当に相槌を打つと、苛立ちを募らせるアリエスには気づかず霊達に向き直った。
「お前達もごめんな、助けに来てもらったのに出番がなくて」
「いえいえ。それにしても、あんなに怖がってもらったのは久しぶりだったな〜」
「こんなに嬉しいとはねぇ。俺って霊だったんだなって、改めて自覚したよ」
半透明の人々は揃って頷いた。
「のんびりしている暇があるのか? 眠くなる前に街へ戻らないと、吸血し損ねるぞ」
アリエスは、解放したままの出口を視線で示す。
「はっ! そうだった。アリエスも行くのか?」
ヴァルゴは、ヴィヴィと霊達に先に行くよう促しながら言う。
「僕は、お前達がいなくなった後に、ゆっくりと獲物を探す。夜は長いからね」
「羨ましいぞ、夜型め!」
「それが普通だ。……ああ、ホリホックの吸血鬼は、普通の吸血鬼ではなかったな。これは失礼」
アリエスは口の端を上げた。
「嫌味は余計なんだよっ」
「ヴァルゴ、急いで。私、八時には家に帰るように言われてるの」
ヴィヴィに呼ばれ、ヴァルゴも仲間の後を追う。
「じゃあなー」
律儀に扉を閉めていくヴァルゴに、
「迷惑な奴らだ」
とアリエスは呟いた。
翌日。ホリホック城の謁見の間では、歴代の大王女王の銅像に見つめられながら、居心地悪そうにヴァルゴが立っていた。やけに背もたれが高い立派な椅子に座る大王と女王を目の前に、落ち着かない。
穏やかな笑顔で息子を迎えた女王は、早速訊ねた。
「で。ハロウィンの成果はどうだったのかしら?」
目は泳ぎ、冷や汗が滴るヴァルゴは、
「え〜っと……、お母様方はいかがでゴザラレマシタカ?」
と、カタコトで場を繋ぐのが精一杯。
「私達は、酔っぱらって眠りこけている富豪達から、たっぷりとすすってきたわよ。死なない程度にね」
女王の話を受け、大王も機嫌よくヴァルゴに語りかける。
「セキュリティが甘くなっていたから、父さんも久しぶりに良いものを食べている人達から吸血できたぞ。はっはっはっはっ」
「あなた、惨めな話はしないで」
「ハイ……」
「それで、ヴァルゴは?」
期待を帯びた女王の質問に、ヴァルゴは俯き縮こまりながら、どうにか口を動かした。
「……掃除夫を、一人」
「は?」
笑顔の女王は、威圧的に問い直す。
「……掃除夫を、一人」
「だから、は?」
ますます威圧的な女王に、ヴァルゴの冷や汗は絨毯まで滴るのではないかという程溢れ出る。
「ハロウィンに、掃除夫を、たった一人? ……モリオ。どういうことなのか説明しなさい」
ヴァルゴの後方に立っていたモリオは、女王の厳しい視線に刺され、丁寧に話し始めた。
「はい。街へ下りたヴァルゴ様は就寝間際の掃除夫から吸血されたのですが、更に吸血する人間を探している途中、パーティーをする人間の誘いを受けられてしまい……。僕がヴィヴィさんを家まで送って戻ってみると、飲めないお酒に口を付けて酔われたヴァルゴ様が体育座りで、同じく酔ったおじいさんが始めた『秋の星座講座』を聴講されている所でございました。『冬の星座講座』に移る前にヴァルゴ様を外へお連れ致しましたが、城へ戻るとおっしゃられ、そのままお休みになられたのでございます――」
場の空気は、重々しく張り詰めた。心なしか、銅像までもが冷や汗を滲ませているようにも見える。
「そう……。他の吸血鬼には、人間のハーレムを従えたと伝えることにしましょう」
女王は額に青筋を立ててぽつりとこぼすと、
「ヴァルゴ。お尻を出しなさい」
と言って立ち上がった。
「ヒッ! い、いや、待ってよ母さん!」
女王は後退りするヴァルゴの体を背中から抱え込み、ズボンを引きずり下ろした。
「母さん、そんなお仕置きは古すぎるよ!」
大王の静止は意味を成さず、女王の右手は振りかぶられた。
「問答無用! お尻ペンペンよ!」
「いやあ〜〜っ!」
謁見の間に虚しく響き渡る尻叩きの音とヴァルゴの悲鳴は、数分の間続いた。
その後、街へおつかいに出たモリオは、ハロウィンに仮面を付けて記念メダルを配り歩くボランティアをしていた掃除夫が、宝くじで小金を得て原付を買ったという風の噂を耳にした。
ハロウィンの祭りが終わった街は、秋晴れのもと、平和な日常を取り戻していた。
(おわり)