67 再確認
暦は駆け足で過ぎ去り、今日で十二月になる。瀬戸内海に面している広島なら東京の冬よりも寒くないかもしれない。そう考えていた時期もあったが決してそんなことはなかった。この杏落市も東京と大して変わらない。それどころか気象庁によると今年は例年よりも早くに気温が下がっているらしい。道理で十一月のうちから雪が降っていた。
「寒い……」
暖房が効いているはずの教室で思わず手を擦り合わせた。窓も扉もしっかりと閉め、登校したときから暖房の電源を入れた。それでも寒さを感じるのは、やはり室内にぼく一人しかいないからだろうか。今は現代文の授業だが、担当教師が休んでいるため自習。ぼく以外一年四組の教室には誰もいない状態だ。もっと人がいれば暖かくなるのかもしれない。ぼく以外の机は見事に置物と化している。少し前まで色々と供えてくる他クラスや他学年の生徒もいたのだが、最近はもうすっかり途絶えて誰の机にも供え物がない。日本一、人の死に慣れている杏落市だから無理もないのだろう。ぼくに言いがかりをつけてくる人も――これは串山先生もおかげもあるだろうが――いなくなった。
「………………」
問題集に走らせていたシャープペンの動きは何度も止まる。この教科は苦手ではないのだが、鼻の奥や眉間の辺りにつんとした痛みを感じて集中できない。壁の時計を見ても授業終了まであと三十分以上もある。ぼくは自習を中断し、指先が冷たい両手を頬に当てた。隣のクラスから聞こえてくるかすかな喧噪を耳にしながら、そのまま目を閉じる。
土竜さんはリハビリを続ける傍ら、兄さんや《猫の事務所》に関する情報を集めている。しかし《猫の事務所》にいるコラットも対抗しているのだろう。あの土竜さんでもなかなか思うように有益な情報を入手できないでいるらしい。
八雲さんは土竜さんの世話をするほか、ぼくの体力作りを手伝ってくれている。これまでぼくがやってきた特訓に、彼が考案した新しいメニューが追加されて二週間が経つ。最初の頃はきつく感じていたが、今ではもうかなり慣れてきた。体力が増えてきていることは自分でも実感している。少しでも強くなれているのなら、嬉しい。
よだかさんはぼくの登下校に付き添いながら人を殺している。杏落市の住人を無差別に殺す《猫の事務所》関係者らしき人物に狙いを絞って。最近は通り魔やテロが犯行直前に防がれ、その犯人が殺人鬼に殺された事件が数多く報道されている。そのうち殺人鬼を神聖化する妙な宗教でも生まれそうだ。もしかしたらもう存在するのかもしれない。
「教祖やってるのも似合いそうだな……あの人」
そんなことを呟いた直後、扉の開く音がした。串山先生が様子見に来たのだろうかと思いつつ目を開けて、どくん、と心臓が大きく跳ね上がる。
「どーも。久しぶり、愛識さんの妹君」
黒地に蛍光色が目立つフードを外し、毛先が青く染まったアッシュブロンドが露わになる。薄い水色のレンズ越しに無感情な目でぼくを見つめる――コラットさんがいた。軽く上げられた右手の指には青いマニキュアが綺麗に塗られている。相変わらず人目を引くサイバーファッションだが、ここに来るまで誰にも見つからなかったのだろうか。ぼくは椅子から立ち上がり、彼から距離を取る。
「ああ、そんな警戒しなくていいよ。別に無理矢理連れ去ろうとか考えてないから。ここで妹君が悲鳴でも上げれば、僕は駆けつけてきた教員にあっさり捕まるだろうね。大体僕は武闘派じゃないんだよ。きみと素手勝負なんかしたらきっと負けてしまう」
そう軽い口振りで言われても警戒を緩めるわけにはいかない。ぼくは他に《猫の事務所》がいないか神経を尖らせつつ、コラットさんから目を離さずに言う。
「なら……どうしてあなたがここにいるんです」
「強いて言うなら話をしに、かな」
そして彼はすぐ近くにあった机の上に腰掛ける。何か怪しい薬を仕掛けた素振りは見えなかったが、油断はできない。ぼくは手近な窓を開けて風が入るようにした。もしものとき、この教室から脱出できるようにも。しかしコラットさんは話をしに来たと言っておきながら、取り出した携帯端末を操作し始めるなり黙ってしまった。
「連絡を取ってるんですか?」
「違うよ。そっちは探索屋が味方についてるだろ」
ここで否定しても、相手にとってはどうせわかり切っていることなのだろう。ぼくが頷くとコラットさんは溜め息をついてから語り出した。
「僕、結構昔から自分のことを天才なんじゃないかって思ってた。だから愛識さんにスカウトされたんだって、同じコラットの中でも僕が一番だって、自惚れてたんだよ。でもここ最近、探索屋と真っ向にぶつかり合って初めて気づいた。こうして一時間に何度も確認しないと落ち着かないくらい、手が抜けない相手がいることに」
つまり彼らコラットと土竜さんの実力は拮抗しているということか。相手は何人いるかわからない集団で、こちらは土竜さん一人だけ。正直不安だったが少しだけ安心できた。有益な情報を得られていないと土竜さんから聞かされていたが、それでも負けているわけじゃない。恐らく今彼が操作している携帯端末の中ではサイバー戦争が行われているのだろう。
「あの」
「ねえ、妹君」
話の内容が何なのか問おうとしたが、それを遮ってコラットさんは言った。まだ目は液晶画面に向けられ、指も忙しなく画面上を踊っているままで。
「愛識さんのところに戻ってくる気ない?」
「ありません」
大方予想通りだった言葉にぼくは即答できた。
「どうして恵まれた環境を自ら捨てようとするのか、僕には理解できないな」
「あなた達にぼくのことを理解してもらおうとは思ってません。あの人の傍が恵まれた環境だなんて言えるのは、隣の芝生が青く見えるのと同じことですよ」
「あの人の愛情を裏切るつもり?」
そう言ったコラットさんは相変わらずフランクな口調だったが、声色がこれまでと明らかに変わっていた。底冷えするようでありながら、その奥にちりちりとした熱を感じる。これは多分嫉妬している人の声だ。携帯端末をポケットに戻し、机から下りたコラットさんの表情はひどく不愉快そうだった。
「入学式、授業参観日、運動会、学習発表会、マラソン大会、卒業式――それらに必ず来てくれたのは誰? 高熱を出したきみを付きっ切りで看病してくれたのは誰? 金や人脈を惜しみなく使ってきみを強くしてくれたのは誰? きみを虐める人間から助けてくれたのは誰? 両親から大した関心を持たれなかったきみに唯一愛情を注いだのは、他でもない愛識さんだろ。それなのにどうしてあの人を簡単に裏切れるんだ」
「――――簡単なわけないでしょう」
ぼくはずっと兄さんに依存するような生き方をしてきたんだ。そう簡単に兄さんから離れられないことは自覚していた。だから最初はまず地元から離れた。進学を機に、自分よりも罪深い人で溢れていそうな杏落市で一人暮らしを始めた。そして長期休暇の間、一度も実家に帰らないようにした。連絡も取らなかった。せめてもの反抗。あの頃のぼくにはそれくらいしかできなかった。誰かに頼るなんてことをまだ考えていなかったから。それに、まだ当時は兄さんへの想いを切り捨てられていなかったんだ。
「だけど、よだかさん達がいてくれたから……ここまでやれる気になりました」
「…………残酷な奴だな、きみは」
ぼそりと呟くように言ってからコラットさんは天を仰いだ。まるでこの世の理不尽さに嘆くかのような顔で。
「僕達が一生かかっても手に入れられないあの人からの愛情を、生まれたときからこれまで散々受け取っておいて、今更拒絶するなんて最早傲慢じゃないか。僕達《猫の事務所》は皆、愛識さんのことを愛してるのに」
ああ、きっと彼も同じなんだ。
兄さんを慕う人間は誰も兄さんの異常性に気づいていない。本気でぼくが兄さんから愛されていると勘違いしている。あれはただの演技でしかない。愛を知っている人間のふりをしているだけ。兄さんから愛されることなんて、ぼくを含めて誰にもできないのに。そのことに気づけていない。兄さん自身が隠し通しているのもあるだろうが、彼らが兄さんを盲信しているからこそでもあるのだろう。とても哀れだ。
「わかってますよ。だからあなた達はぼくのことが嫌いなんでしょう」
「そうさ。あの人の愛情を独占できる唯一の存在だから、正直妬ましくて堪らない。でもきみがいなければ僕達は《猫の事務所》として愛識さんのもとで働くこともなかった。愛識さんと出会えなかった。そこはちょっとだけ感謝してる」
「………………」
「僕は、妹君には愛識さんのもとに戻ってきてほしいと思ってるんだよ。個人的にもね」
「穏やかな対応はありがたいですけど、兄さんのもとには戻りません。そんなことをしたら、また結局逃げることになるんです。ぼくはもう逃げないって決めました。自分の気持ちと兄さんとのことを今年のうちに清算してやります」
コラットさんはもう何も言わなかった。悲しんでいるようにも怒っているようにも見える顔で、ぼくをじっと見つめているだけだ。
「日程は近いうちに探索屋を通じて、そちらに連絡しますよ」
ぼくの言葉にコラットさんは何の反応も見せず、静かに教室を出ていった。ほどなくして授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、串山先生が現れる。
「ちゃんと自習してたか」
「はい。あの、今の時間に何か問題は起きませんでした?」
問題集を差し出しながら訊ねると、串山先生は少しだけ怪訝そうに眉を寄せた。
「さっき三年生の男子が一人、体育の授業中同級生数人に首の骨を折られた。問題と言ったらそれくらいだが、どうかしたのか」
「……いえ、なんでもありません」
誰にも見つからないようにここまで来れたのなら、コラットさんにとって誰にも見つからないように帰ることだって容易いのだろう。あんなサイバーファッション、視界に入っただけでも記憶に色濃く残りそうなものだが一体どうやっているのかわからない。
「もう十二月ですね。串山先生はクリスマス、誰と過ごすんですか」
「仕事」
「なんかすみません」
真顔で帰ってきた言葉にぼくは思わず謝ってしまった。これならむしろ余計なお世話だと怒られた方がよほどいい。
「補習を受ける生徒が少なければいくらかましなんだがな。……わかってると思うが来週だぞ、期末試験。ちゃんと勉強してるか?」
「ええ。福幸先輩に教えてもらってますから」
「お前……パチンコ屋や雀荘なんかに行ってねえだろうな」
疑いの目を向けられ、ぼくはすぐさま首を横に振る。福幸先輩とはたまに昼休みや放課後にこの教室で会うだけだ。彼の教え方はそこらの教師よりもわかりやすく、ほんの三十分程度でも積み重ねていくうちに理解が深まる。家庭教師に向いていそうだが、さすがにあの凄みのある外見では雇われにくいかもしれない。
「ギャンブルには興味ないですから」
「それならいいんだけどよ」
そう言って串山先生は教室から出ていこうとしたが、ふと何かを思い出したかのように「哀逆」と振り返った。同時に振るわれた牛追い鞭が冷たい空気を切り裂き、鋭い音を立てる。すっかり聞き慣れた音は何かを牽制するようでもあった。
「しばらくしたら冬休みに入るが、死ぬなよ」
「………………」
「お前がただの火遊びとは違った危険なことをしようとしてるって、担任の俺が見抜けないとでも思ってるのか」
「さすがですね」
さすがは一年四組の担任をし続けてきた超教師だ。
「……でも、これだけは先生に言われてもやめる気はありません。確かにぼくは冬休み中に死んでしまうか、死ぬよりつらい目に遭うかもしれません」
「そうとわかっていてやるつもりなのか。馬鹿のやることだぞ」
「ええ」
頷いてぼくは両の掌を上に向けた状態で串山先生に差し出した。串山先生は呆れたように肩を竦め、右手を小さく動かす。それだけで鞭はぼくの掌に痛みを走らせる。びくっと全身が震えた後で、一本の赤い痕ができた掌は疼く。
「つ、ぅ……っ!」
「今は一回だけで済ませてやる。もしも死にやがったら、そのときはお前の死体に十回鞭を打ってやるからな」
吐き捨てるように言って、串山先生は今度こそ教室を出ていった。




