65 チョコレートフォンデュ
庭の二人がクールダウンするまで土竜さんの部屋で待機することになった。しかしよだかさんは自分が持ってきたキャリーバッグ――随分と大きいが何を入れているのか教えてくれなかった――を手に、部屋を出ていこうとする。
「何をしにどこへ行くつもりです」
「いいこと。後で教えてやるよ」
そう言ってよだかさんが去り、二十分が過ぎたが誰も帰ってこない。ぼくは一人で携帯端末を弄ったり、八雲さんが置いていった土竜さんの義足を眺めたり、適当に時間を潰していた。しかし退屈だ。あの二人はまだ喧嘩をしているのか、よだかさんはどこにいるのか、気になって外に出ようとしたそのとき携帯端末が震えた。確認するとよだかさんから《一階の応接間に来い》という簡潔なメッセージが届いている。急いで階段を駆け下り、一階に着くと濃厚な甘ったるい香りがした。チョコレートの香りだ。応接間の扉をノックして開けると、その香りはさらに濃いものとなって鼻をついた。
「あ、来たな愛織」
「…………人の家で何やってるんですか、あなた」
「何ってわからねえか? チョコレートフォンデュ」
よだかさんは鉄串のような細長いフォークを持ち、無邪気な笑顔で言った。応接間の大きなテーブルに置かれているのは、ステンレス製のチョコレートファウンテン。それも三段の螺旋型タワーだ。甘い香りを放つチョコレートの泉が沸き上がっている。その傍らにはマシュマロ、スコーン、果物が盛られた皿があった。
「八雲さんと土竜さんは」
「まだ戻ってきてねえな。最近あれくらい派手な喧嘩してなかったみたいだし、その分のカタルシスだろ。長引いても不思議じゃねえよ」
「つまり許可は取ってないってことですよね」
「ほら、あーん」
よだかさんは真っ赤な苺にチョコレートを纏わせ、ぼくに突き出した。今にもチョコレートが落ちてしまいそうで、とっさに舌ですくうようにして口に入れる。美味しい。
「チョコレートフォンデュなんて初めてです」
「おいおい。お前その年まで一体何を食ってきてたんだ?」
「そこまで言うことか」
ぼくの背後で扉が開いた。振り返った先には床に手足を投げ出している土竜さんと、彼の襟首を掴む八雲さん。どちらもかなり消耗しているようだった。しかしチョコレートファウンテンを見るなり八雲さんの眉がつり上がる。土竜さんを床に叩きつける勢いで襟首を離し、よだかさんに詰め寄った。
「甘ったるい匂いがすると思ったら、お前はまた勝手にそんなものをやって――」
「頭をよく回転させるには糖分が一番いいんだろ」
「それにしたって取り過ぎだ。もっと量を考えなさい」
「なんじゃ、よだか。これから頭をよく回転させるつもりなん?」
床を這う土竜さんの言葉に、はっとした。よだかさんはぼく達からの視線を浴びると、焦らすようにチョコレートがけにしたスコーンを食べる。
「とりあえずお前ら座れよ。話はチョコレートフォンデュを楽しみながらだ」
八雲さんはまだ少し不満げだったが、すでに土竜さんとたっぷり喧嘩した後だからかもう何も言わなかった。それどころか全員に取り皿と飲み物を用意してくれた。ぼくと土竜さんは珈琲、よだかさんはミネラルウォーター、そして彼自身は驚くべきことに赤ワイン。なんでもチョコレートと相性がいいらしい。それぞれがチョコレートの噴水に触れさせたものを口に運んでいると、そのうちよだかさんが話し始めた。
「なあ八雲。土竜の部屋にワークステーションとパソコンを持ち込んでいいか? どうせまだ《クルーエル》には戻らせない方がいいんだろ。だったら情報収集するにはここでやるしかない。そのための道具が必要だ」
「………………勝手にすれば」
ワインを煽り、溜め息交じりに八雲さんは了承した。
「ここ、しばらくは休みにするしかないね。患者として潜入される可能性もあるし」
「あ……すみません。お仕事に支障をきたして」
「愛織が謝ることじゃないよ。ここは休みにするけど、患者がいるところに行っての治療はできるんだから」
生意気盛りの中学生に見える顔立ちが、ふっ、とぼくに微笑んだ。
「依頼したのはお前だろう。もっと私達を信じて、気丈に振る舞いなさい。クライアントがそうじゃないと働き甲斐がない」
「はい」
「土竜。明日から情報収集頼むぞ」
ぼく達を余所によだかさんは土竜さんと話していた。その手にはマシュマロを三個連ねたフォークがあり、すぐにチョコレートをかけていく。
「《猫の事務所》のコラットと探索屋のお前、どっちが優れてるかちょっと気になるな」
シニカルな笑みを浮かべ、挑発的な口振りでよだかさんは言った。すると最初に果物を少し食べただけで、ずっと珈琲を飲んでいた土竜さんが「ふん」と鼻を鳴らす。そのときぼくの脳裏に浮かんだのは、あのマンションで出会った人達の顔。
「あの、兄さんと一緒にいたとき《猫の事務所》の人に会いましたよ。それぞれの代表みたいでした。顔も覚えてます」
「八雲、紙と鉛筆寄越せ」
すぐさまよだかさんの手に数枚の白紙と鉛筆が渡される。ぼくは覚えている限りの特徴を口にしていった。気づけば応接間にはぼくの声と鉛筆が紙を滑る音以外聞こえない。しばらくしてよだかさんは五人分の似顔絵を描き終えた。出来栄えは似顔絵捜査官顔負けだ。
「すごい。そっくりですよ」
「もしかしたら整形する可能性もあるだろうけどね」
「よだか。これコピーして一部ずつくれるか」
「ああ」
よだかさんは頷き、携帯端末を取り出すと素早く操作し始めた。ちらりと見えた画面は誰かに連絡を取っているようだったが相手がわからない。ぼくの視線に気づいたのか、よだかさんは指を動かしながらこちらに顔を向けて言った。
「杏落市に住んでる殺人鬼と連絡してるんだ」
「何故?」
「お前の兄、杏落市民を無差別に虐殺する可能性もあるだろ。それに関しての忠告だよ。殺さないと決めた奴が市内にいるなら気をつけとけってな」
「……よだかさん以外の殺人鬼って見たことがないんですけど」
「それは愛織が気づいてないだけだぜ。会いたいなら病院や消防署なんかに行ってみろ」
思わず溜め息が唇を割った。ぼくは見ず知らずの市民や殺人鬼にまで迷惑をかけているのだと改めて知らしめられる。
「あの、よだかさん」
「あ?」
さっさと連絡を終えたらしく携帯端末の電源を切り、よだかさんはまたチョコレートフォンデュを食べようとしていた。果物をいくつも突き刺しながら再びぼくを見る。
「ごめんなさいって伝えてもらえますか」
「誰に」
「知り合いの殺人鬼に、です」
もしかしたら一年四組のクラスメイト、柩木組の人間、《クルーエル》六階の住人の中にいたかもしれない。ぼくの同類――殺人鬼から殺さないと決められた人物が。
「駄目だ」
きっぱりとよだかさんに断わられた。取りつく島もないような否定の言葉。しかし何故か彼の口元は愉快そうに弧を描いている。
「自分の口で言え」
「えっ」
チョコレートがけの果物をあっという間に食べ終え、よだかさんは立ち上がりながらぼくの腕を掴んだ。有無を言わせない力に引っ張られる。
「ちょうどこれから会うことになったからな」




