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64 犬猿の仲

 雪が降り始めた昼過ぎ。ぼくはよだかさんと果物の詰め合わせを持って見舞いに行ったが、扉を開けると土竜さんの部屋は蛻の殻だった。照明や暖房はついたままで、昼食の食器が残されていた。よだかさんがずかずかと室内に入り、布団がずり落ちたベッドに触れる。

「まだ少しだけ体温が残ってる」

「ちょうど入れ違いになったんだろうね」

 ぼくの隣にいた八雲さんが呆れ顔で言う。部屋に入ると手に持っていた義足をベッド脇に置き、空の食器を片付け始めた。

「あいつ、よく抜け出すんだよ。きっと今頃庭だから行ってみてくれるかい」

「庭? 雪が降ってるのにですか?」

「土竜にとっては天気なんて関係ないよ。雪だろうと土砂降りだろうと、義足も松葉杖も私が預かっていようと、這いずってでも外に出てあれをせずにはいられないんだ」

 あれ、とは何なのか。

 八雲さんから聞いたときはわからなかったが、急いで庭に出た先でぼくは理解した。土竜さんは薄着のまま地べたに座り込み、園芸用のスコップで地面を掘っていた。これまでに何度も見かけた。土竜さんの地面を掘るときの、何かに取り憑かれたような顔。一心不乱に右腕を動かしている。彼のもとに駆け寄ろうとしていた足が思わず止まる。

「来い」

 不意に後ろからよだかさんに襟首を掴まれ、カーポートの下まで引っ張られた。

「何するんですか」

「どうやって部屋に連れ戻すか考えてたんだろ。そんな必要ないぜ。あれは放っておいた方がいい。風邪や肺炎を引き起こしそうになったら八雲の方から先に動くだろうからな」

 ぼくが黙っているとよだかさんは白く見える息を吐き出し、カーポートの柱に凭れて腕を組む。それからどこか遠くを眺めるような目つきになって話し始めた。

「八雲が言うには、土竜がああやって穴を掘るのは小学生の頃から続いてるらしい。原因はあいつを虐待していた母親だ。土の中にいる――つまり死去したって意味だが――父親を捜してきてと言われたその日以降、土竜はどこでも穴を掘るようになった。あと、何かを調べることにやたら執着するようにもな。八雲は強迫行為って言ってるぜ。潔癖症が何度も手を洗うのと同じことだ。昔ほどひどくはなくなったらしいが、今でもあいつの中に残ってる」

 物事を調べるということだけに関しては、まるで冗談のような才能と執着を見せる。よだかさんは土竜さんについてそう語っていた。

「じゃあ、もしかして……探索屋の仕事をするようになったのも母親に言われたことがそもそもの始まりだった、かもしれないんですか?」

 よだかさんが首肯し、ぼくは胸の奥が少しだけ痛んだ。

「あいつもお前と同じように肉親から虐待されてたんだよ」

「………………」

 以前、土竜さんの部屋で見た写真を思い出す。土竜さんと彼の母親を撮影したもの。父親の姿がいなかったから、てっきり父親が二人を撮ったのかと思っていた。実際は、もうすでに土竜さんの父親はいなくなっていたんだろう。

「薬師寺病院は知ってるだろ」

「都内にある大学病院のことですよね」

「ああ、薬師寺は由緒正しい名家だ。昔から数多く優秀な医療関係者を世に送り出してる。じゃあいちがつ三枝さえぐさよつしきりっなな――これが何かはわかるか?」

 数字の入っている二字熟語を羅列していき、よだかさんは訊ねた。ぼくは首を横に振る。

「八雲の兄や姉の名前だ」

「話の流れからそうじゃないかと思ってましたが……八人兄弟なんですか」

「それも末っ子。八番目、末弟の八雲。だがあいつは薬師寺の家でも逸脱していた。兄弟がそれぞれ脳外科医、精神科医、小児科医と道を決めて進んでいく頃には誰も敵わないほど優秀な医者になっていた。いや、医者になれるはずだったと言うべきか。なのに八雲は医師免許も薬剤師免許も取得せず、どういうわけかこんな犯罪都市での闇医者になることを希望した。もちろん家族は大反対したけど薬師寺は実力主義な家だったからな。親よりも立場が強くなったあいつは自分の好きにしてるんだとよ」

「…………二人は、どうして出会ったんですか?」

「元々土竜の親はともに杏落市出身だったが、結婚すると同時に上京したんだ。その後間もなくして特定疾患に罹った父親が通院したのが薬師寺病院。母親が土竜を産んだのも薬師寺病院。もちろん八雲も同じ年に薬師寺病院で産まれた。父親が病死した後、母親が土竜を虐待するようになってから院内で出会ったらしい。母親の方も精神面で薬師寺病院の世話になってたみたいだな。以来、顔を合わせると殺し合いに近い喧嘩をする犬猿の仲」

 そう締めくくってよだかさんは再び庭の方へ足を向けた。ぼくはとっさに喪服の裾を掴んで引き止めてしまう。

「待ってください。重要な部分をまだ聞いてません」

「重要な部分?」

「どうしてあの二人があんなにも喧嘩をする仲になったのかです。生い立ちや家庭事情はよくわかりましたが、まだ聞いていないそこが一番気になります」

 くるりと身を翻してよだかさんはまたぼくと向き合った。雪が降る中に佇むその姿は、雪の精が現れたのかと思うほど美しい。シニカルな笑みを浮かべて彼は言った。

「あいつら、あんなにわかりやすく嫌い合ってる相手はお互いしかいねえんだよ」

「それがなんです」

「八雲も土竜も卓越した才能を持ってる。さらにどちらも人付き合いのいい性格をしてない。むしろ悪い方だ。そのせいで、あまり周囲から共感されることがない」

 もっとも俺達殺人鬼ほどじゃないがな、と嘆息して続ける。

「理解者がいないことはかなりストレスが溜まるんだよ。ただでさえ家族関係でも軋轢が多そうだったしな。そんなあいつらが子供みたいに罵り、傷つけ、徹底的に否定するのはお互いだけ。その相手がいるだけで二人ともストレスが解消できる。煙草が嫌い、酒が嫌いなんて言うのは表向きの適当な理由に過ぎねえよ。それなら鉢合わせる可能性が高い同じ市内にいないでさっさと移動すればいい。技術も才能も違うけど、同じ土俵に立ってるのがお互いだけだって早くに気づいたんじゃねえのか? 二人とも同時期に杏落市に来たって言ってたが、それも偶然じゃなくて必然だったんだろ。ある意味すげえ依存だ」

 よだかさんの話を聞いていくうちに、ぼくは頭の中でさあっと温度が下がっていくような心地を感じた。十月三十一日、八雲さんと土竜さんが杏落高校の文化祭で喧嘩を始めようとしていた。あのとき自分が二人を止めるため言ってしまった言葉を思い出す。

 喧嘩する二人の間に無理矢理入り込んで、二人が止めるまで邪魔することならできます。

「何も知らなかったとは言え、図々し過ぎだろ……畜生」

 彼らの喧嘩は止めるべきものじゃなかっただなんて誰が知り得ただろう。それでも事情を知ってしまった今、ぼくは過去の行動を悔やむしかない。二人に謝っておくべきか。

「はは、いいぞ処女。そうやって失敗に気づいて反省すれば成長できる」

「しかし何故二人のことを教えてくれたんですか?」

「気になるって言ったのはお前だろ」

「話し始めたのはよだかさんでしょう」

「そうだな」

 無邪気に笑ってよだかさんは頷く。

「愛織の過去は昨夜のうちに俺達三人が知った。親にも秘密にするようなことだ。せっかくだからあいつら二人の過去も知っておいていいだろうと思ったんだよ」

 だったらよだかさんの過去も話してくれたらいいのに。

「俺の過去は前に話しただろ。初体験は少年時代の逆レイプだって」

「外で平然と言わないでください。それにあんな内容、ぼくや八雲さんと土竜さんの過去に比べたらごく一部だけじゃないですか」

「俺が何を話すかは俺が決めることだ」

「こ、この殺人鬼……」

 勝手に他人の過去を暴露しておいて、自分のことは話さないつもりなのか。声に出さずそう訴えてみてもよだかさんはどこ吹く風で、土竜さんのいる庭に悠々と歩いていった。

「おい土竜。いい加減その辺りでやめとけよ」

 背後から話しかけられても土竜さんは手を止めず、穴を掘り続けていた。前よりも少しだけ伸びた彼の髪に雪の白さが目立つ。防寒しているぼくでさえ十分寒いと思える外気の中、こんな薄着でい続ければ本当に風邪や肺炎になってしまいかねない。どうしたものかと思っていると、不意によだかさんはポケットに手を入れた。またロリポップやキャラメルを取り出すのかと思いきや、予想外のものが出てきた。

「よだかさん。それって」

 見たことのあるシガレットケースとジッポーライター。よだかさんがその二つを土竜さんに見せると、ぴたりとスコップの動きが止まった。

「愛織が自分の部屋で着替えと荷作りをしてる間、土竜の部屋に入ったんだ。そこで取ってきた。どうせここに来てから吸えてないんだろ」

 よだかさんが言い終えるよりも早く、土竜さんは土塗れの両手でシガレットケースとジッポーライターを受け取った。中に入っていたラッキーストライクの煙草を銜え、火を点ける。慌ただしい仕草だったが左手の中指と薬指とで挟み、その手で顔を覆うような吸い方は変わらない。土竜さんは頬が土で汚れるのも構わず、どこか恍惚とした表情で煙草をゆっくり吸っていた。雪が降ってくる上空に白い煙が風に吹かれる。しばらくしてようやく彼はぼく達の顔をちゃんと見てくれた。

「何か用があって来たんか」

「お見舞いに来たんです。でも部屋にいなかったから、八雲さんがここだろうって。早く部屋に戻りましょう。こんなに雪が降ってる中に薄着で寒くないんですか?」

 ぼくの言葉に土竜さんは自分の着ている服装を確認するように見下ろした。そしてぶるりと震え、両手で二の腕をさすりながら小さく「寒いのう」と呟く。今頃かよ、と思ったそのときぼく達の後方から足音が聞こえた。振り返るよりも先に、金属音が立て続けに響く。一拍の間を置いてぼくのすぐ足元に突き立ったのは小振りの鋭いメス。

「いきなり何しやがる、八雲」

 沈黙を破ったのは左目にメスが突き刺さった状態のよだかさんだった。どろりとした赤黒い血が左頬を伝っている姿は凄惨だが、当の本人は平然としている。土竜さんの手にはいつの間にかスコップが。そしてぼく達の後ろにいた八雲さん。あの金属音から考えて、どうやら彼が二人に向かってメスを投げたらしい。

「それはこっちの台詞だよ。私の敷地内で煙草を吸わせるなんて」

「無理に我慢させるのもよくねえだろ」

 言いながらよだかさんがメスを抜き取った途端、血液と一緒によくわからない粘性の何かが眼窩から頬に伝った。それに目を背けていると、ずかずかと近づいてきた八雲さんが土竜さんの胸倉を掴んだ。土竜さんの持つスコップが八雲さんの顔に迫ったが、寸でのところでかわす。そのまま二人は喧嘩と呼ぶには生温い戦闘を始めてしまった。久しぶりに見る光景。

「あ、あの二人とも……っ」

 慌ててぼくはよだかさんと一緒に二人から距離を取った。止めようとしたが先ほど聞いた話を思い出して声が引っ込む。こうしてよく見ると、二人の実力はほぼ拮抗しているらしい。だからこそ二人が喧嘩をしても、大怪我を負ったところを見ることがなかったのかもしれない。今は片脚のない土竜さんが不利だろうと思っていたが、意外にもそれほど劣勢になっている様子はなかった。もしかすると、八雲さんが手加減しているのだろうか。

「俺達は部屋に戻ろうぜ、チェリー」

 背後からよだかさんが声をかけてきた。いつの間にか元通りになっていた左目を確認するようにさすっている。

「あいつらが喧嘩をしたとき、放っておくのが一番いいんだよ。ちなみに八雲が手榴弾を取り出したら――種類にもよるが一応百メートルくらい距離を取れ」

 それを聞き、ぼくは白熱し始めたその場からよだかさんと離れた。


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