63 兄弟の片割れ
揺籃町の《クルーエル》と病瀬町の《ルナティック》。二つの共通点は大抵のマンションで設置されるオートロックシステムがないことだ。エントランスは誰でも出入り可能で、用がある部屋の前までなら簡単に辿り着ける。犯罪都市の中でもこのようにセキュリティ性が欠けているマンションはそれなりにあるのだが、その分家賃が安い。さすがに監視カメラはいくつも設置され、インターホンはモニターで訪問者の顔を確認できる仕様となっている。しかし結局のところ最大の問題は、琴太郎先輩がぼくと会ってくれるかどうかだ。
「開けてくれますように」
そう祈って、ぼくは目の前にあるインターホンを押した。しばらく待っても反応はない。するとよだかさんがもう一度インターホンを押す。さらに二回、三回。
「ちょっと、やめてください。迷惑でしょう」
「あ? 居留守使ってるならこうでもしないと駄目だろうが」
「本当に留守だったらどうするんです」
そう言い合っていると不意に扉が開き、ぼく達の顔はそちらに向かう。部屋から出てきたのは琴太郎先輩じゃなかった。はっと目が覚めるような金の輝きを孕んだ髪が腰まで伸びている美しい女性。高価そうな白いファーコートの下に、冬なのにかなり短い丈の黒いワンピースとサイハイブーツ。容姿は若いがその堂々とした佇まいからは三十後半か、あるいはそれ以上の貫禄を感じさせる。香水らしい嗅ぎ慣れない香りが鼻をついた。
「あら。あなた達、琴太郎に何か用?」
「はい」
「ふうん……。残念だけど、今日は帰った方がいいわよ。あの子ったら弟の百太郎が殺されてから憔悴してるの。今日だってわざわざ私が房中術でも仕込んであげようと思って出向いたのに上の空でね。嫌になっちゃうわ」
「お前のテクニックがその程度だっただけのことだろ」
鼻で笑ったよだかさんの失礼極まりない言葉に相手は頬を紅潮させる。しかし彼女が言い返すよりも先によだかさんは畳みかけた。
「お前、ここの部屋を貸してる女だな。元は売れっ子の風俗嬢で、今は娼婦の斡旋を仲立ちする女衒ってところか。顔と身体の相性だけで気に入って随分貢ぎ続けてるみたいだな。けど、結局あいつらにとってお前はいい金蔓と性欲処理の相手に過ぎねえよ。いくら房中術を施して慰めようが、無理に決まってる。この処女は違うぜ。昔ヶ原兄弟の、普通の友達なんだからな」
「な……」
目を見開いたままの女性を押し退け、よだかさんはぼくを部屋の中に押し込むなり扉を閉めてしまった。外で何やら騒ぐ女性の声が聞こえたが、ぼくは気にせず廊下を進んだ。まず百太郎くんの部屋に入ってみる。意外にも綺麗に掃除されていたが、琴太郎先輩の姿はない。次に琴太郎先輩の部屋に入ってみたがこちらも無人。そしてリビングの扉を開けると暖房の温風が肌に触れ、カーペットの上で寝転がった琴太郎先輩を見つけた。情事の後であることを示すように、上半身には何も身につけていない。百太郎くんが身につけていたものと同じピアスが、臍にある。右腕で目元を隠していたが起きているらしい。
「琴太郎先輩、お邪魔しています」
「…………めーちゃんか」
「はい」
しばらく沈黙が流れた後で、琴太郎先輩は腹筋を使って起き上がった。相変わらず整った顔立ちだったが目の下には隈ができていて、明らかに寝不足だとわかる。それにどことなく痩せたような印象があった。今日はヘアチョークを使わなかったらしく、軽くぼさぼさと乱れている髪はただの金色だ。
「久しぶり。何、めーちゃんも俺に抱かれたくて来たの?」
くっ、と喉を鳴らして琴太郎先輩は笑う。怠そうな動きで近くにあった白いダウンシャツを着始めた。
「琴太郎先輩……」
「冗談だって。そんなところに突っ立ってないで、座れよ」
ぼくは壁際に荷物を下ろし、琴太郎先輩の隣に座った。
予想していたよりもひどい。
今こんな状態になっている彼に一体何を話せばいいのだろう。
「どうせめーちゃんはあの事件に関係ないんだろ。別に疑ってねえから安心しな」
「…………」
「あいつが最期に言い残したものとかある?」
「《めーちゃんは悪くない》って言ってました」
「ふうん」
またしても沈黙が流れる。何か話題を見つけようと思っても上手くいかない。昔ヶ原兄弟とは黙ったままでも気まずいと思わないほど親しくなっていたことが幸いだ。それにしても琴太郎先輩、ちゃんと食事は取っているのだろうか。
「あの。よかったら何か、食事でも――」
どん、と肩を押された。されるがままのぼくは琴太郎先輩に組み敷かれる。彼は馬乗りにはならず、ぼくの右側に両膝をついた。さらりと垂れてくる長めの金髪。端正な顔。これまで何人の女性がこの光景を眺めてきたのだろう。
「骨だけになったモモはすごく軽かった」
「…………」
「なんで、俺だけ生き残っちゃったんだろうな」
「…………」
「俺はお兄ちゃんなのに」
「…………」
「たった一歳しか違わないんだから兄も弟もないだろって昔は思ってたよ。でも俺は百太郎の兄で百太郎は俺の弟だった。でも俺はあいつのこと助けられなかったし、あいつを殺した相手に復讐することもできない。お兄ちゃんなのに」
「琴太郎、せんぱ……」
ぼくの両肩を掴む手が、喉に移動した。ぐっと握力に喉を押されていく。まだそこまで苦しいとは思わないが、このまま力を入れ続ければ血の流れが止まるだろう。
「めーちゃん。俺、すげえ苦しい。涙はこれまでになかったくらい流した。流し尽くした。もうずっとこんな気分でい続けるの、嫌なんだよ。犯罪都市で生きるんだから、どうせどっちかが先に死ぬんだろうなって思ってた。なのにいざ本当にモモが死んだら、こうなるなんてわからなかった。なあ、めーちゃん」
ぽつりぽつりと小さく囁くように言いながら、琴太郎先輩はぼくの喉を押えたままだ。まるで隙だらけ。百太郎くんが生きていたとき、彼と一緒に見事なコンビネーションで喧嘩をしていた姿からは考えられない。これならぼくじゃなくても簡単に反撃できるだろう。
「琴太郎先輩は、恨む相手が欲しいんでしょう」
ぼくの言葉に琴太郎先輩は目を少しだけ見開き、黙ってしまった。
「でも一年四組の生徒を殺した犯人は自殺した。だからやるせない気分なんですよね。喜んでいいですよ。あの自殺した犯人、本当は違うんです。真犯人は生きてますよ。それに百太郎くんはぼくに悪くないと言いましたが、全部ぼくのせいなんです。一年四組の生徒を――百太郎くんを、あんなふうに殺したのは」
「え……な、に」
明らかに動揺している琴太郎先輩の手から力が抜けていく。ぼくはその上から両手を重ねて、そのまま自らの喉を押すようにした。
「ぼくのせいで琴太郎先輩の大切な弟は殺されたんですよ。真犯人は、ただぼくと友達だったってだけで百太郎くんを殺した。いえ、殺させたって言った方が正しいですね。琴太郎先輩を殺さなかったのはわざと。兄弟仲のいいあなた達に対してはそうする方がいいと思ったから。許せないですよね。だったら琴太郎先輩の復讐対象は、ぼくだ」
徐々に琴太郎先輩の手に力が戻る。目には、わずかな殺意の光が浮かんでいた。琴太郎先輩にとってぼくは後輩で、友達。これまでにもよくしてくれた。それでも弟が殺された原因がぼくだと知った今、何もしないほど好きというわけではないはずだ。
「なんで、そんなこと喋るんだよ」
「友達だからですよ。琴太郎先輩は、ぼくの数少ない生き残っている友達なんです」
「その友達に、どんなことされるかわからないこの状況でそんなこと言えるのか?」
「ええ。だって」
右の掌底で琴太郎先輩の顎を打ち、ぼくは左手で彼の右手を掴んだ。それと同時に右脛を琴太郎先輩の胸まで押し込んで左脚を浮かせる。間髪入れず、両手で琴太郎先輩の右手を掴むと左足で顔面から蹴り飛ばした。とても格好よく整った顔だが、そこを狙わないとは一度も言っていない。
「こうやって抵抗しますから」
素早く身を起こし、立ち上がったぼくを仰向けの状態で見上げる琴太郎先輩。唖然としているその顔は、どこか自嘲的な笑みに変わった。
「……なんだよ、めーちゃん。ついさっきまでは俺からの復讐を受け入れます、みたいな態度見せてたくせに。思わせぶりだな」
「もっと自分に正直でいようと決めたんですよ。ぼくはまだ生きていたい。だから復讐だろうとなんだろうと、どんな理由があってもぼくの命を狙う者には反撃します。たとえ琴太郎先輩、あなたが相手だろうと容赦しません」
「………………くっ、は、はは」
琴太郎先輩の笑い声が部屋に響いた。自嘲的ではない。純粋に可笑しいと思って、笑っているようだった。笑い止んだ彼はゆっくりと立ち上がり、ぼくの目を真っ直ぐ見つめてから大きく溜め息をついた。
「乱暴して悪かったな」
「ぼくに復讐、しないんですか?」
「馬鹿。できるわけねえだろ」
「でも気が治まらないでしょう」
「そうだな。それじゃあ今から――」
不意に琴太郎先輩の両腕が伸びてきて、ぼくはとっさに身構える。しかし敵意、害意、ましてや殺意のようなものは感じられない。琴太郎先輩はぼくを正面から抱きしめた。
「一緒に寝てくれよ」
「え?」
「ここ最近、全然眠れない日が続いてるんだ。女を抱いた後にようやく短時間眠れる程度だけど今ならなんか眠れそう。だからめーちゃん、抱き枕になってほしい」
「それはあくまで抱きしめて眠るだけなんですよね」
「当たり前だろ。めーちゃんはセフレじゃない友達なんだから」
そう言って、琴太郎先輩はぼくを抱きしめたままカーペットの上に寝転んだ。見上げた先の彼はもう目を閉じている。ぼくの頭に外で待っているだろう、よだかさんのことがよぎった。抱きつかれている状態でなんとか携帯端末を取り出し、もう少しかかりそうです、とメッセージを送る。そのとき琴太郎先輩は出し抜けに小さな鍵を差し出した。
「これ。あげる」
「鍵、ですか」
「俺が持っててもしょうがないから」
そんな言い方をするとは、この部屋の合鍵ではなさそうだ。とりあえず受け取って鍵を眺めていると、眠たそうな声がまた耳元で聞こえる。
「このマンションのバイク置き場……壁に一番近いところ、赤くて、二人乗りでき、る……メット入ってるから」
最後の方はほとんど聞き取れない言葉になりつつあった。譲渡証明書がどうのと言っていたから、重要なことだと思う。また後日電話で確認してみなければいけない。ほどなくして琴太郎先輩は寝息を立て始めた。
「馬鹿じゃないんですか、琴太郎先輩」
この鍵は、百太郎くんが乗っていたバイクの鍵だ。形見。そんな大切なものを、本来復讐するべきだろう相手のぼくなんかに譲っていいのか。問い質したかったが、ぼくは結局鍵をポケットの中に入れた。嬉しくないわけでは、ない。しかしぼくは早生まれだから、もしバイクの免許を取得するとしたら三学期の終業式を迎えてからになる。
六月生まれの百太郎くんが五月には乗りこなしていたから、きっと彼らには無免許でバイクに乗っていた時期もあったのだろうが。さすがにそこまでは真似できない。
「もう寝ました……?」
そっと声をかけてみたが反応はない。これは熟睡しているということでいいだろう。ぼくは慎重に琴太郎先輩の腕から抜け出し、壁際に置いていた荷物を背負い、部屋を出てよだかさんのもとへ急いだ。
「思ってたより早かったな。もういいのかよ」
ロリポップを同時に二つ舐めながら彼は言う。廊下を見回すが、あの女性はいなくなっている。よだかさんが追い払ってしまったのだろうか。
「はい。琴太郎先輩が寝てしまいましたから」
ぼくは勝手に部屋の中から持ち出した鍵で施錠し、ドアポストの中に鍵を押し込んだ。鍵が開いているままにしておくよりはいいはずだ。
「この後行きたい場所はもうないのか?」
「そうですね。元々琴太郎先輩と話しておきたかっただけですし、ランニングもできましたから。兄さんが次に狙うと言っていた福幸先輩とむくろちゃんに注意喚起のメッセージも送ったので、今日やっておこうと考えてたことは済ませましたよ」
「だったら土竜の見舞いに行ったらどうだ」
「あ……」
言われて気づいた。確かにぼくはまだ、土竜さんに見舞いという形で会っていない。ぼくのせいで彼は右脚を失うことになったんだ。償うことはできなくても、何かちゃんとした見舞いの品を持って行かなければ。
「午後になったら買い物をして、土竜さんの見舞いに行きます」
よだかさんは何も言わず頷き、ぼく達は一度黒喰請負事務所に戻ることにした。その途中で気づいたことだが、よだかさんはずっとぼくの隣で車道側を歩いてくれていた。




