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62 穏やかな朝

 かちゃかちゃという物音で目が覚めた。中途半端な睡眠を取ったせいか身体が怠い。一緒に寝ていたよだかさんの姿はもうなかった。腕を伸ばした先のシーツに触れたが体温も残っていない。二度寝してしまおうかと思ったが、さすがに居候の身で家主が起きているのに二度寝は図々しいだろう。ゆっくりと身体を起こしたところで、先ほどから聞こえていた物音の正体に気づいた。

「よお、起きたか。おはよう」

「…………おはようございます」

 よだかさんがキチネットで朝食を作っていた。それも半裸のままで。もう何も言うまいと携帯端末の電源を入れると午前八時。結局四時間程度しか眠れなかったらしい。

 さすがに今朝はあの訓練ができない。せめてランニングに付き合ってもらえるか頼んでみようか。着替えは昨夜着ていた服でいいだろう。入浴後に着たものだから、それほど汚れていないはず。ぼくはベッドから下りて軽く畳んでおいた服を手に取った。

「向こうで着替えてきます」

「ああ。……あ、愛織」

「はい?」

「その下着、シンデレラバスト向けで有名なランジェリーブランドだろ。お前もそういうブランドもの身につけるんだな。珍しい」

 一瞬何を言われたのか理解できなかった。そう、一瞬だけ。

「みっ、見た……んですか」

「寝相でずり上がった服の裾を戻してやっただけだぜ」

「それは……ええと、どうも」

「裾がずり上がっていたのは腹の辺りまでだけどな」

 ぼくは黙ってよだかさんの背に上段蹴りを仕掛けたが、ぱしん、という音が下から聞こえたかと思うと床に転がっていた。よだかさんは蹴りを受けるよりも先に一回転するようにぼくの左足を払ったらしい。じんじんと痺れるように痛む踝辺りを撫でながら見上げる。よだかさんはまた何事もなかったかのように背を向けて、朝食の準備を進めていた。

「さっさと着替えろよ。あと十分したら向こうにこれ運ぶからな」

 皮を剥いて切ったオレンジが投入され、ミキサーが回転を始める。急き立てるようなその音に、ぼくは落としてしまった服を急いで拾った。事務所の部屋に移動して扉を閉め、さっさと着替える。意識しないようにしても自分の下着が視界に入るたび「これを見られたのか」という気持ちで自然と溜め息が出た。

「こんなひらひらしたもの、ぼくの趣味じゃないのに……」

 着替え終わり、ソファーに座っているとよだかさんが扉を開けて入ってきた。盆に載った二人分の朝食をテーブルの上に並べていく。ミキサーにかけたばかりのオレンジジュース、甘い香りの湯気を立てているフレンチトースト、壜入りのヨーグルト。どうやらこの殺人鬼、朝は洋食派らしい。しかし盆にあったものを一通り並べて、席に着くかと思った彼は再びキチネットへ引き返した。朝食はこれで全部ではなかったらしく、よだかさんは別のものを盆に載せて運んできた。

「あの、よだかさん。これってなんですか?」

 新しくテーブルの上に並べられたものは、グラノーラを盛った白い器が二つ。カフェ・オ・レボウルに見えなくもない。その横にスムージーかピューレと思われる紫色の何か、蜂蜜のボトル、さらにたくさんの果物がある。スライスされたバナナ、キウイフルーツ、苺、それから大粒のブルーベリー。色鮮やかな果物から視線を上げると、よだかさんの顔はきょとんとしていた。

「アサイーボウル。知らないのかよ」

「知りません」

「そうかそうか。じゃあ優しいよだかさんが親切に教えてやるよ」

 そこでようやくよだかさんはぼくの向かいに座った。朝食を運ぶことくらい手伝っておけばよかった、と今さらながら後悔する。

「この紫色のがアサイーって果実だ。栄養価は八雲が絶賛するくらい高いんだぜ。見た目はブルーベリーに近いけど、アサイーそのものには味がほとんどない。だからこうしてスムージーにして、グラノーラや果物と一緒に食べる。それをアサイーボウルって言うんだ」

 説明しながら白い器の一つを手に取り、よだかさんはグラノーラにスムージーをかけていった。グラノーラがほぼ見えなくなると、次に果物をトッピングする。最後に蜂蜜をぐるりと一周させるように垂らし、スプーンで一口美味しそうに食べた。

「ほら、お前も早く食えよ」

「あ……いただきます」

「どうぞ」

 とりあえずオレンジジュースを飲んでみると、甘酸っぱくて美味しかった。さすがに手作りしただけあってさらさらとはしていなく、攪拌し切れなかった果肉が少し残っている。新鮮な感じだ。フレンチトーストは粉砂糖がふんだんにかけられていたせいかやけに甘い。その分ヨーグルトのさっぱりとした味わいが舌に心地よかった。よだかさんを真似てトッピングしてみたアサイーボウルは最初慣れない味や食感に戸惑ったが、食べ進めていると美味しく感じてきた。すっかり食べ終え、残っていたオレンジジュースを飲み干す。

「ご馳走様でした。とても美味しかったです」

「ああ、お粗末様」

「食器を洗うのはぼくにやらせてください。さすがに何もしないわけにはいきません」

 ぼくがよだかさんよりも先に食器を重ねていくと、彼は何も言わずひらひらと片手を振った。好きにしろと言っているのだろう。そう都合よく解釈してぼくは食器洗いを始めた。フライパンやミキサーなど調理器具のほとんどはすでに片付けられていたため、思っていたよりも早く済んだ。キチネットから事務所の部屋に戻ると、いつの間にかよだかさんは黒い喪服に着替えていた。事務机にチェスボードを置き、白と黒の駒を手にしている。詰め将棋のようにチェスも一人でできるものなのかと思いきや、違った。彼はチェスボードの上でチェスの駒を絶妙なバランスで積み上げている。まるで積み木だ。

「何やってるんです」

「積み木が壊れたから代理だよ。キング二個、クイーン二個、ビショップ四個、ナイト四個、ルーク四個、ポーン十六個――計三十二個の駒を余すことなく使ってやる」

「積み木買えよ」

 そもそも積み木を壊すって、一体どんな遊び方をしたんだ。

 その後よだかさんは本当に三十二個の駒を全て使い、奇妙なオブジェを作り上げた。完成にかかった時間は三分足らず。ぼくは記念に写真を撮っておいた。

「それで愛織。お前が行きたい場所って病瀬町のどこなんだ?」

「マンション《ルナティック》の最上階、角部屋。琴太郎先輩に会いたいんです」

 もう随分と長い間、声を聞いていないし顔も見ていない。正確には一ヶ月も経っていないもののそんな気がする。きっと彼もぼくのせいで百太郎くんが死んでしまったと思っているのだろう。それでも構わない。構わないが、一度だけでいいから話がしたい。琴太郎先輩はぼくの友達なのだから。

「今から行くか」

「はい。あ、できれば走りたいんですけど……」

「ああ、お前って毎朝身体鍛えてるんだよな。それも兄の教えなんだったか」

「…………そうです」

「別にそんな後ろめたく思わなくたっていいんじゃねえのか。それはもうとっくにお前の一部なんだから、無理して削り取る必要はないだろ」

 思いがけない言葉にぼくはどう返せばいいのかわからず、それでも嬉しいと思ったことは確かで、ただ頷くことしかできなかった。

 しかし今の服装ではランニングしづらいからと、結局ぼく達は一旦揺籠町の《クルーエル》に向かった。現在住人がいない六階の廊下は奇妙なほどに静かな空気が流れている。六○六号室の扉を開けようとしたが、鍵がかかっていた。

「よだかさん、ここに来たときどうやって中に入ったんですか?」

「ピッキング」

 いつの間にか持っていた細長い錐のようなものを鍵穴に差し込み、よだかさんはがちゃがちゃと左右に揺らす。しばらくすると開錠される音が聞こえた。

「……すごい。便利ですね」

「さすがに力技でドアノブごと壊すわけにもいかないからな」

 よだかさんが扉を開け、ぼくは中に入ろうとしたところで足を止める。

「ちょっと待ってください。鍵を開けられたのはわかりましたけど、帰るときはどうやって鍵をかけたんですか?」

「どうでもいいだろ、そんなこと。ほら早く着替えてこいよ」

 これ以上粘ってもきっとよだかさんは教えてくれないだろう。ぼくは彼に背中を押されるがまま部屋の中に入った。一通り見て回ったが家具の様子は以前と変わっていない。《猫の事務所》の人間はまだ来ていなかったのだろうか。もしかすると盗聴器や盗撮カメラなどが置かれているかもしれないとも思ったが、あまりよだかさんを待たせたくはない。兄さんに捨てられたものと同じランニング用の服に着替え、服や日用品などを登山用リュックサックに入れる。数日分の荷物を詰め込んだそれを背負い、スペアキーで扉の鍵をかけた。よだかさんは壁に凭れてロリポップを舐めていた。

「お待たせしました。行きましょうか」

「ああ」

 無事に《クルーエル》から出たぼく達は、軽くその場で柔軟体操をする。それから言葉や合図を交わすことなく病瀬町を目指して並走し始めた。


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