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61 殺人鬼という存在

「愛織?」

 突然声が聞こえて悲鳴を上げそうになった。振り返った先では静かに閉めたはずの扉が開いていて、毛布を半裸に纏ったよだかさんが眠たそうな顔で立っている。

「驚かさないでください」

 まだ鼓動が速まっている胸を押さえ、ぼくが言ってもよだかさんはぼんやりとこちらを見つめているだけだ。このまま見つめ合いを続けていたら魂でも抜かれてしまいそうな美貌。寝起きでも隙がない。ぼくは再びよだかさんに背を向け、ファイルの続きを読むことにした。しかし一分も経たないうちにずしりと背中に圧しかかられる。

「ちょ……ちょっと。よだかさん、重い」

「んん」

「んん、じゃなくてですね」

 ぼくが何を言っても身を捩っても無駄のようだ。軽く嘆息して諦める。よだかさんは最初仰け反るように自分の背中を預けていたが、すぐにごそごそと動き始めた。私室から持ってきた毛布を自分の背に回し、ぼくを背後から抱きしめるような態勢になる。大きな毛布はぼくまで包んだ。よだかさんの体温がコート越しに触れていて、さっきよりも暖かい。

「愛織」

「なんですか」

「お前、俺が寂しがり屋だって忘れたのかよ」

「冗談じゃなかったんですか?」

 みしっ、と音がしそうなほどに両腕できつく抱きしめられた。一瞬だけだったがあまりの痛さと苦しさで涙目になる。数時間前、ココア以外に何かを食べていたら間違いなく今吐き戻していただろう。すみません、と情けない声で謝る。

「俺もここにいるから」

「あ、はい」

「それって手紙を保存してたファイルだろ」

 よだかさんがぼくの後ろからファイルを覗き込んで言う。

「ええ。……もしかして、読んだら駄目なものでした?」

「別にそんなことはねえよ」

 ぼくが手にしたファイルをよだかさんの繊細な指が捲っていく。相変わらず男のものとは思えない、かと言ってやたらなよなよしているようにも見えない綺麗な手だ。手紙の内容よりもよだかさんの手に目が行ってしまう。

「こうやって見返すと懐かしいな。そのうちお前にもこういう礼状が送られてくるぜ」

「それはないと思いますよ。ぼくが引き受ける仕事って簡単なものが多いですし、何よりよだかさんみたいに綺麗じゃないから――あ、そう言えば気になっていたことが一つ」

「なんだ」

「よだかさんはどうして請負人をやってるんですか? そこまで眉目秀麗なら、芸能事務所からスカウトされたこともあったでしょう。この仕事ってあんまり安定した収入があるわけじゃないのに、なんだかやけにこだわりを持ってますよね」

 よだかさんはファイルを閉じて、しばらく間を空けてから話し始めた。

「役者、ファッションモデル、パーツモデル、ホスト、タレント……あとはポルノ媒体の出演にもスカウトされたな。スナッフフィルムも入れて合計すれば百回はある。確かに上手くいけばいい収入を得られる職業かもしれねえけど、俺が求めてるのはそんなものじゃねえんだよ。スカウトは全部断った。俺達殺人鬼が稼業とするのは、直接人を助けるようなものだけだからな」

「人を助ける?」

 殺人鬼と一緒にするにはとても不似合いな言葉。ぼくはよだかさんの言ったことを聞き間違えたのではないかと耳を疑った。

「そう、人助け」

 どうやら聞き間違いではなかったらしい。

「殺人鬼にとって人殺しは呼吸と同じだ。ずっと人を殺さないと息苦しく感じるし、生きている心地がしねえからな。欲望じゃなくて欲求だぜ。三大欲求よりも優先される殺人欲求。俺達が人殺しを続けるためにも、人類は常に一定数確保されていなければいけない。だから稼業として選ぶ仕事は、必然的に人助けができるものばかり。特に人気な職業は医者と特別救助隊だ。病気や災害から人命を直接助けることができるからな。ああいう仕事をやってる奴らの中には殺人鬼がよく紛れてるぜ。実際、俺の知ってる殺人鬼も九割近くが医者か特別救助隊だ。けど俺はてっとり早く色んな人間の要望に応えられる仕事をしようと思って、この事務所を開いた」

「…………だからって何故、請負人を選んだんですか?」

「医者も特別救助隊も仕事の内容はほぼ決まってるだろ。いくらやり甲斐があると言っても、俺にとっては同じ仕事を繰り返す毎日なんて少しも面白くねえよ。請負人なら医者や特別救助隊とは比べ物にならないくらい、面白そうな依頼が舞い込んでくると思ったんだ。直接人命を助ける仕事は少ないが、小さな依頼でも完遂すれば立派な人助けになる」

 ぼくのすぐ真横に顔を移動させ、よだかさんは笑っていた。なんとも表現しがたい倒錯的な魅力を放つ花のかんばせ。慌ててそれから目を逸らし、ぼくは適当に話を続ける。

「でも依頼者を殺すことだってあるじゃないですか。事務所に入った瞬間首を刎ねたり、話の最中に腹から内臓抜き取ったり。人殺しと人助け、どちらを優先させてるんです」

「意地の悪い質問だな、愛織。その二つは天秤にかけられねえよ。強いて言うなら、両立させてるってところだ」

「そんな勉強と部活動みたいな言い方されても……」

 取り出していたファイルを全て重ねながら、ふと思ったことを口にする。

「それにしても意外でした。よだかさんがお礼の手紙をきちんと保存してるの」

「俺達は寂しがり屋なんだよ」

 よだかさんが言うと同時に、またずしりと体重がぼくの背中に預けられた。座っている体勢なら全体重が預けられることはないはずだが、彼はわざと体重をかけている。ぼくは床に両手を突いてなんとか堪える。背中が熱い。今にも汗が滲み出てきそうだ。

「俺達、って……殺人鬼は皆そうってことですか?」

「ああ」

 ほんの少しだけぼくの背中に預けられた体重が減る。

「殺人鬼は社会的少数者と言っていい。それは俺も、俺以外の殺人鬼も自覚してる。生き方や考え方は同類にしか理解されないし共感もされない。まず受け入れられることのない人種だ。けど何の因果か――皆、人が大好きなんだ。人と話すのは楽しい。人と一緒に食事するのは嬉しい。人が大勢集まる場所は最高。ベッドで隣に寝てたはずの相手が、目覚めたときいなくなっていたら嫌になる」

《ウンディーネ》に泊まった夜のことを思い出した。あのときもぼくがよだかさんの腕から逃れ、ベッドを出た後に彼は起きていた。そして今夜も同様だ。もしかするとよだかさんは同衾していた相手が自分より先に起きてベッドから出ると、自然と目が覚めるようになっているのだろうか。そんな馬鹿な、と声には出さず呟く。

「毎晩この事務所で一人寝るのも本当は寂しくて堪らないくらいだ」

「嫌じゃないんですか……?」

 さすがに密着していると暑くなったらしく、よだかさんはぼくの背中から離れた。毛布がぼく達から剥がれて床に落ちる。立ち上がったよだかさんの艶めかしい鎖骨、滑らかな白い肌、自己主張し過ぎない腹筋が露わになった。神々しささえ漂うその美しさは、男女を問わず宗教的な人気があると言われても十分納得できる。

「嫌だけど、慣れるしかねえよ」

 溜め息交じりに言ったよだかさんは深窓の住人じみていた。物憂げで、儚い。眼差しの中に潜むわずかな翳りにぞくりとする。改めてぼくは気づかされた。あまりにも美しいこの殺人鬼がどうしようもなく孤高の存在だということに。だからこそぼくは初めて会った日に、彼を初恋相手の兄さんと重ね合わせてしまったのだろう。

 ひどく颯爽としていて、途轍もなく凛々しく、ずば抜けて恰好いい。周囲に集まる人は多くいても、孤独な存在。そんな人の特別な相手になれたらと思うのはきっとぼくだけじゃないはずだ。よだかさんと愛し合うことができたら、きっと幸せだろう。ぼくは単純に綺麗な容姿だけに惚れたと思っていたのに、ほんの一割くらいはそうじゃない理由もあるのかもしれない。

「あ……っ、あの。よだかさん」

 名前を呼びながら立ち上がると、真紅の瞳がこちらを向いた。

「ぼくを、抱いてもらえませんか?」

 平静を装った――いや、ちっとも装い切れていない声になった。ぼくが男にセクシャルな印象を与える可能性が低い容姿なのはわかっている。他でもないよだかさんがそう言ったのだから。ぼくの身体は触れば柔らかさよりも筋肉の硬さが目立つ。継ぎ接ぎのような縫合痕は気味が悪い。顔立ちは平凡、もしかしたらそれ以下。胸は小学生の頃からAカップのまま成長しない。色気も可愛げも皆無だ。こんなぼくに興奮するのは相当女に飢えているか、物好きかのどちらかだろう。

 わかっている。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 よだかさんの表情は少しだけ驚いたようにきょとんとして、少年のような幼いものになっている。しかし次の瞬間にはいつもの彼らしいシニカルな笑みを浮かべた。

「お前にはまだ早いだろ、チェリーガール」

 気が遠くなるほど綺麗な顔が急に迫る。思わず仰け反ろうとしたときにはもうよだかさんの長い睫毛が目の前にあり、唇には柔らかいものが触れていた。

 キスをされている。

 そう理解した瞬間、身体の奥深いところで灼熱が弾けたかのようだった。血が沸き立って全身が熱くなる。顔が真っ赤になっているかもしれない。ただ唇を重ねているだけの軽いキスだ。兄さんとはこれまでに何度もした。慣れているはず。それなのに息ができない。瞬きすらもできないほどに全身が硬直している。

 すっと瞼が持ち上がり、よだかさんと目が合った。いつも宝石みたいだと思っていた瞳にぼくの顔が大きく映っている。こんなにも間近で見たのは初めてだ。

「なんだ、その反応。キスは初めてじゃないんだろう」

 唇を離したよだかさんからは全くの動揺を感じられない。どう見ても余裕だ。口の端を吊り上げて、精巧な細工じみた白くて鋭い牙が見えている。

「それは、そうですけど……」

 兄さん以外の相手とは初めてだった。血の繋がりがない他人とのキスとしては、ファーストキスと言っていい。ついさっきまでよだかさんのそれと重なっていた唇に指先で触れる。まだ感触が残っているような心地だ。顔も熱い。

「本当に愛織って初々しい処女だな」

 ぼくは黙って床に置きっぱなしにしていたファイルを拾い上げ、本棚に押し込んだ。

 お前にはまだ早いだろ、チェリーガール。

 よだかさんは確かにそう言った。ぼくのことを拒絶はしなかった――と、捉えていいのだろうか。あの言葉が彼なりの優しさなのか躱し方なのかもわからない。それでも今、キスをされて確信したことが一つだけある。

「畜生……」

「どうした?」

「いえ」

 やっぱり、ぼくはよだかさんが好きだ。

 兄さんよりも。

 ぼくは他の誰でもないこの不死身の殺人鬼を愛している。

「急に眠たくなってきただけですよ。……すぐ朝になるとは思いますけど、向こうの部屋に戻って寝ませんか。一緒に」

 途端によだかさんはぱっと表情を明るくした。かと思うと落ちていた毛布を右足で蹴り上げ、それを両手で掴むとマントを羽織るように纏った。いそいそと私室に向かう彼の後ろを歩きながら、ぼくは溜め息をついた。

 意外とガードが堅いらしい。

 もしかすると単に処女を相手するのが嫌なのだろうか。

 たとえそうだとしても、よだかさんがあんな断り方をしてくれてよかった。本当にこの人にはちっとも適わない。

「おやすみ、愛織」

 ベッドの中に入るなりよだかさんはぼくを抱き寄せた。身体を正面から密着させ、長い両腕がぼくの背中に一周する。片腕が下敷きになっているが痺れないのか。きっとよだかさんだから大丈夫なのだろうと自己完結しながら、ぼくの方からも彼の背に手を回した。羨ましいくらいに滑らかな触り心地を掌に感じる。よだかさんの息遣い、鼓動、体温――それら全てが伝わってきて、さらにまだ残っていたバニラの香りがぼくの思考を乱す。きっとよだかさんにもぼくの息遣いなどが伝わっているはずだ。ぼくよりも正確に。

「おやすみなさい」

 本当は次の日がやってくるのが怖い。

 しかし眠っても眠らなくても、時間が経てば朝は夜になるし夜は朝になる。抗うことができない。それならこうして好きな人と一緒に寝てしまった方が、得なんだ。

 どうか今くらいはこの幸せを感じていたい。

 

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