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60 長い夜

 もうすぐ時刻は二時半――丑三つ刻だ。これほど夜更かしをした日は珍しい。八雲さんと土竜さんは事務所を出ていったが、ぼくは帰る場所がない。《クルーエル》の鍵もホテルに泊まる金もない。どうしようかとまごついていると向かいのよだかさんが言った。

「お前、風呂はもう入ったのか?」

「え?」

「風呂」

「あ、はい。夜行列車に乗ったらすぐ眠るつもりだったので」

 今ぼくが着ている服は薄水色のリボンが胸元で結ばれた青いブラウス、脛までの白いチュールスカート、黒のタイツだ。もちろんこの恰好で眠るつもりだったわけではない。ぼく達が乗る予定だった夜行列車には寝間着が用意されていると聞いていたから、わざわざネグリジェを持っていくことはせず、備えつけの寝間着を使うつもりだった。

「……そのままだと寝苦しいだろうな」

 そう呟いたかと思うとよだかさんは私室に行き、戻ってくるなり何かをぼくに放り投げる。とっさに受け取った黒いそれは衣服だった。よだかさんが着るにしても大きいサイズ、ゆったりとした長袖のロングTシャツだ。そして新品の歯ブラシが一緒になっている。

「よだかさん。まさかとは思いますが」

「それに着替えて歯を磨いたらさっさと寝ろ。俺は風呂に入ってくる」

「拒否権を与えないつもりですか」

「どうせお前、マンションの鍵もどこかに泊まれるだけの金も持ってないんだろ。だったらこの事務所で一晩過ごすのが妥当――いや、もういっそここに住め」

「は?」

「依頼が完遂するまで俺と同居しろってことだ。それが一番安全だろ」

 よだかさんの言っていることは正しい。いつまた兄さんが《猫の事務所》を杏落市に送り込んでくるかわからないのだから、なるべくよだかさんと行動を共にするべきだ。しかし突然こんなことになるとは思っていなかったから、心の準備ができていない。

「一度は同じベッドで寝た仲だろ」

「そう、ですけど……」

「お前がいるときはちゃんと服着て寝るから」

 それだけ言うとよだかさんは再び私室へ続く扉を開け、浴室がある方に行ってしまった。

「……………………ああ、くそ」

 ぼくはそっと静かな足取りで私室に入る。服を脱ぐ物音が聞こえ始めて気まずい。歯ブラシを取り出したところで、洗面所は今よだかさんがいるところにあるのだと気づいた。仕方ないためぼくはキチネットで歯磨きを済ませた。天蓋つきベッドはダブルサイズ。枕は当然のように一つだったがかなり大きい。どうやら二人用らしい。

 これまで――ぼくがよだかさんの助手になる以前――に来た依頼で、このベッドを使うようなものはなかったのだろうか。そんな妄想をしそうになって、頭を振る。ベッドの周辺では色々なものが散乱していた。視覚探索絵本、大きなテディベア、鉄道模型を乗せたレール、花札、タロットカード、お菓子の缶、キャンドルランタン、貝殻を詰め込んだ壜。ここまで近くでよく見てみるのは初めてだったが、なんだか子供部屋みたいだ。

 試しに今着ている服のまま、ブラウスのボタンを二つ外して布団に入ってみた。しかし寝苦しくなりそうなのは間違いない。

「やむを得ない」

 自分に言い聞かせるように呟いて、ぼくは下着以外の服を素早く脱いだ。そしてよだかさんから渡されたロングTシャツを着る。さすがに大きい。袖は何度も捲らないと手が出てこない長さだ。裾はぼくの膝頭を完全に覆い隠している。襟ぐりも広いため鎖骨がすっかり見えてしまうが、これなら最近着ていたネグリジェとそう大差ない。しかしこれから同衾するのは兄さんではなく、よだかさんだ。一度は同じベッドで寝た仲。彼はそう言っていたものの、あのときはベッドがもっと大きくて寝るときには離れていたからまだよかったんだ。それにちゃんとした寝間着もあった。今の状況では、まるで。

「恋人ど――無理だ」

 言い切る前に自分の口が否定していた。

 深い溜め息をついて布団の中に入り、眠ろうと目を閉じたが全然眠れる気配がない。目を覚ますためココアを飲んだからか、ここに来たばかりのとき少し眠っていたからか。できることならよだかさんが入浴を済ませる前に眠ってしまいたい。その願いは叶うことなく、結局よだかさんが浴室から出てきたときもぼくはベッドの上で起きていた。

「なんだ。まだ寝てなかったのか」

「寝れないんですよ。……よだかさん、頼むから上半身にも服着てください」

「やだ」

 よだかさんは黒いアンクルタイドパンツのみ身につけている。烏の濡れ羽色となった髪はもうすっかり乾かされていた。近づいてきた彼からほんのりと甘い香りが漂う。薔薇などのフローラルなものではない。もっと違うもの。

 この香りは、バニラだ。

「風呂の中でアイスでも食べてたんですか?」

 ぼくの言葉によだかさんは一瞬きょとんとして、すぐ納得したように笑った。

「入浴剤の香りだろ」

「入浴剤でバニラの香り……」

「愛用してるからな」

「さすが甘党」

 ぼくはなるべくよだかさんと目を合わせないようにして横になる。部屋の照明はすぐに消され、部屋は真っ暗になった。ごそごそとよだかさんが布団の中に入ってくる気配。ぼくの背中から一人分も離れていない先に彼がいる。そう思うと落ち着かない。

「学校、どうするつもりだ」

「今日は休みます」

 もしも登校するとしたら、普段よりずっと早くに起床しなければいけない。ここから《クルーエル》に戻って鍵を開けてもらい、支度や朝食を済ませて登校する。考えただけで憂鬱になる慌ただしさだ。今まで欠席したことがないのだから、昨日と今日くらい休んだとしてもそれほど評価に響かないだろう。

「あ、でも……病瀬町で行きたい場所があるんです。できれば今日のうちに」

「いつ」

「午前でも午後でも」

「なら朝のうちに連れて行ってやる。これからは外出するとき、間違っても一人になるなよ。行きたい場所があれば俺に言え」

「はい。……あの、よだかさん」

「ん?」

「本当にありがとうございます」

「それ、依頼が終わっていないうちから言うことじゃねえよ」

 そう言ってよだかさんは「おやすみ」と会話を終わらせた。相変わらず眠りにつくのが早い。すぐに隣から穏やかな寝息が聞こえてきた。ぼくも「おやすみなさい」と返して目を閉じる。

「……………………」

 どうしよう。ちっとも眠くならない。

 目を閉じて寝ようとしても色々なことを考えてしまって目が冴える。それに加え、またしてもよだかさんが背後から抱きついていることが大きな原因だ。吐息がちょうど項辺りにかかり、そこだけ少し熱い。ぼくはそっと包帯を巻かれた自分の首に触れる。よだかさんがぼくを殺そうとしたときの傷。自分ではどのようになっているのかわからない。あの後八雲さんに手当てをしてもらって、すぐに治ると言われた。ぼくが首に包帯を巻かれている最中よだかさんは「俺の初体験だったんだからな」などと妙にいかがわしい言い方をした。もしもあのままぼくを殺していたら、彼はどうなっていたのだろう。

 駄目だ。また考えなくてもいいようなことを考えてしまった。枕元に置いた携帯端末で時刻を確認すると、もう四時を迎える。これはもう起きていた方がいいかもしれない。よだかさんを起こさないよう、そっと彼の腕から逃れて上体を起こす。慎重にベッドを出て事務所の部屋に移動した。冬の夜は長くて静かだ。さすがに暖房が効いていないため寒い。ベッドを出てすぐ着替えればよかったと後悔するものの、今さら戻るのも億劫だ。ソファーに置いたままだったプリンセスコートを羽織り、照明をつける。本棚にあるファイルをいくつか抜き取り、床に座り込むと適当にぱらぱら捲っていった。

 いつ誰からどのような依頼を受けたか、その記録がファイリングされている。この事務所にはパソコンがないため必然的に全て手書きだ。ここ数ヶ月の間ではよだかさんが書いたものだけでなく、ぼくが書いたものも混ざっている。こうして手書きで統一しているということは、この事務所に侵入されない限りは情報漏洩することがない。そんなメリットもあるのだと気づいたのは最近だ。

「これって……」

 三冊目のファイルを適当なところで開いたとき、いつもの記録用紙とは明らかに違うものがあった。折り跡がついた薄桃色の縦書き便箋。手紙だ。拝啓の言葉から始まり、丁寧な字で依頼に関する感謝の言葉を述べている。そこからしばらくは同じような礼状が続いた。大学ノートの切れ端に乱雑な字で書き殴ったようなものもあれば、可愛らしいキャラクターものの便箋に平仮名ばかりの字でたどたどしく書かれたものもある。差出人は皆、よだかさんに感謝していた。

 いいな、と素直に思う。

 毎日息を吸うように人を殺す殺人鬼。それでもよだかさんは請負人として誰かの役に立って、その相手からは確実に感謝されている。そのことを改めて思い知らされた。


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