59 懺悔とこれから
「っ、う」
突然鋭い痛みを感じて、ぼくは歯を食い縛った。それは脳髄と眼球と鼓膜にガラスを突き立てられたみたいな痛み。ハンマーで叩きつけられたような胸の動悸。思い出したくない。できることなら墓まで胸の奥に封じ込めておきたかった。こんなこと思い出したくなんてなかったが、ぼくはゆっくりと回想を続ける。
「ぼくがまだ小学生の頃から、兄さんは何か怪しいことをしているようでした。顔が多方面に広いことは明らかで、何かしらの権力を持っていることも子供ながらに想像できたんです。実際に現場を見たわけじゃない。それでも誰より兄さんの近くにいたせいか、ぼくはその気配を肌で感じていました」
兄さんが人を殺しているのではないか、と。
特にそれを強く感じたのは中学一年生のとき。入学当初からぼくのことが気に入らないらしく、何かと嫌がらせをしてきた女子生徒三人がいた。クラスメイトも担任も助けてはくれなかったが、ぼくはそれほど苦痛に感じていなかった。普段の身体を鍛えるための訓練や兄さんからの虐待の方がよっぽど苦しくて痛い。そう思ってなるべく無視するようにしたところ相手は嫌がらせをエスカレートさせた。あれは虐めと言ってよかっただろう。しかし三人は同じ日に死んでしまった。下校中、彼女達がいた歩道にトラックが猛スピードで突っ込んだらしい。他にも下校中の生徒がいたのだが、その三人以外は傷一つ負わなかったという。報道によると即死したトラックの運転手からは違法な薬物が検出された。
「よかったな、愛織。これでお前を虐めていた奴は全員死んだ」
新聞を読みながら兄さんはそう言っていた。誰もが見惚れるような微笑を顔に浮かべて。その言葉を聞いたとき、ぼくは兄さんがあの三人を何らかの方法で殺したのだと確信した。恐ろしく感じると同時に「やっぱり」という思いがぼくの中にあった。やっぱり兄さんは人を平気で傷つけ、殺すことができる。
ぼくが兄さんを殺せなかったせいで。
何の罪もないとは決して言えなくても、あの三人はぼくのせいで死んだ。兄さんに殺された。突っ込んできたトラックに当たり、ぐちゃぐちゃの肉塊に変わってしまった。彼女達だけじゃない。兄さんはこれまでにぼくと関わる人々をもう何人も殺してきた。最初はぼくを虐めていた相手だったのに、今ではただ同じマンションの同じ階に住んでいて交流があった人達すらも含まれるようになってしまった。
「よだかさん。初めて病瀬町で会った日、スイパラでぼくに訊きましたよね。犯罪都市に興味でもあったのかって」
「ああ。確かにしたな、そんな会話」
「あれ、嘘じゃないんです。でも正直には話してなかった。ぼくはただ犯罪都市に興味があったわけじゃなくて、杏落市に住む人々を見たくてここに来たんです」
「ふうん」
よだかさんはほんのわずかな好奇心を目に宿らせ、ココアの残りを一気に煽った。
「どうしてだ?」
「見下したかったからですよ。あなた達、犯罪者を」
殺人鬼と闇医者と探索屋の三人を見つめる。
「ぼくは自分が世間一般で言うところの犯罪者じゃないけど、罪深い人間なのに変わりはありません。兄さんを殺せなかった。法で裁けないうえに取り返しのつかないことだから、これってとんでもない罪ですよ。少なくともぼくにとっては、兄さんを殺した方がまだ自分を許せました。だからぼくは自分より罪深い人間を見ることで、心の安寧を得ようと思ったんです。見下す対象が欲しかった」
最悪でしょう、と言ってみたが三人は何も返してくれない。
「杏落市は日本唯一の犯罪都市。本当か嘘かわからない情報は腐るほどありましたよ。それを調べていくうちに、きっと多かれ少なかれ凶悪な犯罪者もここにいるんだと思いました。期待してたんです。でも、ここで出会った人達はぼくと違って自分の持つ罪に苛まれていない。そんなふうに生きてるのが羨ましくて、いつの間にか……憧憬、に近いような感情が沸いていました」
最初はなんだか不快だった。見下すつもりの相手を見下すことができなくなったから。
犯罪者のくせに。
悪人のくせに。
生意気。
もっと無様に苦しんで生きていればいい。
そう思っていたのに、彼ら犯罪者の生き方に惹かれてしまうだなんて予想外だった。気づけばぼくは杏落市での生活を結構楽しいものだと感じるようになっていた。実家から遠く離れて、一人で暮らして、罪深い人々と出会って、よだかさんを好きになって――そうしているうちに少し解放された気分でいたんだろう。
馬鹿か。
あの兄さんから逃れられるなんて決してありえないのに。
「ぼく……の、せ……っ、で」
ぼろっ、と涙がまた零れ落ちた。もう出し尽くしたとばかり思っていたのに。慌てて拭ったが、やけに熱を持った雫は次から次へと止め処なく流れてくる。ただでさえ醜い顔をこれ以上見苦しくさせたくなくて両手で顔を覆った。苦しい。気持ち悪い。胸の中に何か異物が詰まっているようだ。今すぐ胸を掻き毟って、肉を削ぎ落したい衝動に駆られる。
「ごめっ、なさ……い、ごめんなさ、っ……!」
自然と口から出てきたのは誰に向けているのかもわからない謝罪。初めて兄さんに――《猫の事務所》に殺されたと思われる三人の女子にだろうか。あるいは一年四組のクラスメイト、柩木組の人達、土竜さん、《クルーエル》六階の住人。ぼくが把握できていないだけで、まだまだ謝罪しなければいけない相手がいるかもしれない。
「そんな謝っても死んだ奴は返ってこねえし、土竜の右脚は元通りにならねえよ」
よだかさんの声色はひどく冷たい。鋭いナイフのようにぼくの全身を突き出した。ぼくだってわかっている。いくら謝ったところで、ぼくの罪は消えない。わかっていますと言い返そうと両手を顔から離し、よだかさんと目が合って、言葉が引っ込む。よだかさんの顔つきは怒っているようでも責めているようでもない。ましてや同情しているようにはちっとも見えない表情で、ぼくを宝石みたいな真紅の瞳で見据えていた。
「愛織、お前だってわかってるんだろ。今さら謝ったところでどうしようもないってことくらい。本当はどうしたいんだ?」
「ぼくは…………」
ぼくは、どうしたいんだろう。
死ぬこともできない。兄さんのもとに戻ることは、もう嫌だ。だからと言って兄さんから逃げ続けることも無理。今ぼくにできることなんて何も、ない。
「できることを訊いてんじゃねえよ。愛織がどうしたいか、だ」
「じゃあ」
ぼくはゆっくり息を吸って、吐いて、ぼやけ始めた三人の顔に問いかける。
「助けてって言ったら助けてくれるんですか」
「当たり前じゃろ。そんな面しとるガキ見捨てるんは夢見悪過ぎるわ」
「子供は嫌いだけど、愛織は別だからね。ちょっと愚かだけどまだ許される範囲」
土竜さんと八雲さんは世間話でもするような口振りで言った。よだかさんは行儀の悪い子供みたいにマグカップの底を人差し指と中指で拭っていたが、二人の言葉を聞いてシニカルな笑みを浮かべる。ココアがついた指先をぺろりと官能的に舐めた。
「俺達は助けてくれって言わない奴をわざわざ助けたりはしねえよ」
「…………っ、た、す」
気づけばまた俯いていた。駄目だ。こういう肝心なときに相手の目を見ないなんて。ぼくは目に溜まって落ちそうな涙を袖口で拭い、顔を上げた。
「助けてください」
途端、事務所の空気が変わった。窓も扉も閉まっているのに、どういうわけかぼく達の周りでほんの一瞬風が吹き荒れたような感覚があった。思わずを息を呑む。瞬き一つのうちに向き合う三人の目が豹変していた。人を殺して人から殺される殺人鬼の瞳が、百薬を統べる闇医者の瞳が、国際的に恐れられるクラッカーの瞳が、これ以上ないほど手入れされた刃物か銃口のように輝いている。
ああ、ぼくは何を勘違いしていたんだろう。
彼らを自分よりも罪深いと見下すことなんて最初からできるはずがなかったんだ。格が違うと言うより核から違う。そう思ってしまうほどの、不敵な笑み。
「喜べよ愛織。その依頼、俺達が請け負ってやる」




