05 黒喰請負事務所
結局百太郎くんは午後からの授業には出席しなかった。いつの間にか鞄までもが消えていたことから、女性のもとへ行ったのだろう。
「起立」
日直が号令をかけると、がたがたと床を擦る椅子の音が輪唱する。
「姿勢、礼」
この号令にもすっかり慣れたが、入学してすぐの頃は違和感があった。姿勢ってなんだよ姿勢って。そう思っていたが単なる「気をつけ」を意味する言葉だった。姿勢を正せ、を省略した言い方なのかもしれない。方言ならばまだしも、こんな号令にも地方で違いがあるのかと驚かされた。
ホームルームの時間が終わり、生徒達は部活動なり下校なりを始める。ぼくはそのどちらにも当てはまらない、寄り道をして帰る派の生徒だ。寄り道をすると言ってもゲームセンターやカラオケなどには行かない。ぼくの場合は学校側に黙っているアルバイトみたいなものだ。
それにしても、本当に杏落市は美形が多い。外を出歩いているだけで三分間に一人は美男や美女と称していいだろう容姿を見かける。日本三大美人として博多美人、秋田美人、京美人がいるのは知っているが、杏落美人というのは聞いたことがない。果たしてここの美形は外から集まってきた人なのか、それとも元々杏落市出身なのか。どちらにせよ犯罪都市でいつ死ぬかわからない環境に置いておくにはかなり惜しい気がする。
杏落高校最寄りのバス停から乗り込んだバスで移動し、三途川町で降りる。バス停は三途川という字面が不吉極まりない名前の川に架けられた橋を渡った先だ。ここ半月ほどで覚えた道のりを思い出しながら慎重に歩き、瀬戸内海に面した通りに出る。海運会社の古い建物やこぢんまりとした商社が並ぶ通りだが、半分近くが廃墟となっていた。その中にぼくの目的地、四階建ての雑居ビル――だったものが建っている。
塗料がすっかり褪せ、全体的に煤けたような仄暗い色の壁にはところどころ亀裂が入り、下品なスラングのグラフィティアートが目立つ。一階の扉を開けて中に入ると、すぐのところにエレベーターがあった。しかしこれは動いていないため、移動には階段を使うしかない。埃っぽくて何もない一階と二階を通り過ぎて三階まで上がると、あまり広くはない廊下に出る。階段から一番近いところに黒喰請負事務所とレタリングされた看板を打ちつけた扉があった。事務所名の下には若干小さな文字で『受付時間 午前九時~午後六時/休日 不定期』と書かれている。ぼくはその扉をノックし、湾曲した把手を掴んだ。
「こんにちは」
扉を開けて事務所に入る。さっきまで自分が廃墟じみた古い雑居ビルにいたのは幻覚だったのかと思えるほど、綺麗な内装だ。さすがはあの殺人鬼が使う事務所なだけある。
部屋に入って正面の大きな窓には淡いココア色のカーテンが閉じ、白い壁には時計と天気管が掛けられていた。窓がある東の壁際にはチークの事務机、部屋の中央にはロングテーブルを挟んで黒いソファーが向き合って二つ置かれている。事務机の上にはちゃんと使えるのかと最初は疑った、金色と茶色を基調としたアンティーク風な回転ダイヤル式電話機。北の壁際には色々なものが収まった飾り戸棚、南の壁際にはファイルや分厚い本がぎっしり詰まった本棚があり、その横には隣の部屋へと通じる扉がある。構造だけを見ると校長室のようだが、洋館の一室とでも表現した方が相応しい。
「よだかさん……いないんですか?」
勤務時間のはずだが所長の姿が見えず、物音も聞こえない。仕事か私用かわからないが、鍵もかけていないのだからそのうち帰ってくるだろうと飾り戸棚の前に立った。彼の趣味がどんなものかは、これさえ見れば伝わりやすい。地球儀、星座早見盤、ボトルシップ、羽根ペン、ガラスペン、電球テラリウム、ブリキの単葉機とロケット、蓋に立体的な鳥の飾りがついたインク壜、種類は少ないがよくできている手製らしい鉱物と蝶の標本。
あの殺人鬼はどうやら少年らしさを感じるものを好むようだ。思えば彼自身、子供っぽい――いや、ガキ大将的なところがあるから案外ぴったりかもしれない。
「誰がガキ大将だって?」
耳元で聞こえた囁くような美声に振り向こうとして、背後から長い腕が絡みついてきたため動けなくなる。左腕は顎の下に入り、右腕はぼくの右耳にぴたりとくっついて頭を固定した。プロレス技でこういう絞め方があったと思うが、何と言っただろうか。そう考えていると何かが頭の天辺に当たる。きっと、よだかさんの顎だ。
「物音一つ立てないで現れないでください。びっくりします」
「そう言うお前も足音消せるよな。それより、さっきの質問に答えろよ」
ほんの少しだけ、よだかさんの左腕がぼくの首を圧迫する。まだ手加減してくれているから、そこまで苦しくはない。
「一体どこに行ってたんですか? また甘いものを食べに行ったとかじゃないですよね」
「よくわかってんじゃねえか。なんだか無性に和菓子を食べたくなったから、久しぶりに甘味処であんみつとクリームあんみつと白玉あんみつとフルーツあんみつを食ってきたところだ。ところでもう一度訊くぞ。誰がガキ大将だって?」
みしり、と。
本当にそんな音が聞こえて首と頭が軋んだようだった。喉元から口までにあった空気が、咳となって出てくる。さすがにこれ以上話をはぐらかすことはできない。
「言い、ます。言います……って」
徐々に絞めつけを強める両腕から解放され、咳き込みながら振り返る。それが仕事着とでも言うのか、今日も今日とて上下真っ黒な喪服とピンヒール姿のよだかさんが立っていた。美人は三日で飽きると言うが、彼の場合は三年かかっても飽きないだろう。そう確信してしまうほどの美貌は今日も損なわれていない。
「今ぼくの目の前にいる人。以上です」
「何言ってんだ、処女。俺はガキ大将じゃない。どこにでもいる普通の殺人鬼だぜ」
「そうやって自らをどこにでもいる普通の、って言う人に限って普通じゃないんですよ。そもそもよだかさんみたいな殺人鬼がどこにでもいたら困ります。主に人類が」
ぼくが言い終えないうちによだかさんは事務机の席に着いた。そして抽斗から取り出した大きなルービックキューブをぼくに向かって放り投げる。受け取ったそれはすでに色が整然とそろっているものだった。すでにと言うよりはまだと言うべきか。
「それの色、混ぜろ」
どうやら依頼者が来ない退屈を遊びで紛らわすつもりらしい。やっぱり子供っぽい。
「5×5×5のルービックキューブなんて初めて見ました」
「正確にはルービックキューブじゃなくて、プロフェッサーキューブだ。ちなみに4×4×4だとルービックリベンジって言う」
「へえ。…………これくらいでいいですか?」
「全然駄目。あと三分間は混ぜろ」
そう言ってよだかさんはいつの間にか手にしていた鶯笛を吹き始める。本当にこの部屋のどこかに鶯が潜んでいるのではないかと思うほどの音色が聞こえてきた。
ソファーに腰掛けてプロフェッサーキューブを動かしているうちに、ぼくは四月六日のことをふと思い出した。よだかさんと出会い、この黒喰請負事務所にたった一人で請負人――簡単に言えば殺し以外なら合法・非合法問わずなんでもする便利屋――として働く彼の助手となった日のこと。あの日のことは一生忘れられない。
「おい。混ぜ終わったのか」
「あ、はい」
よだかさんの声で意識が過去から現在に戻る。気づけば手元のプロフェッサーキューブはいい感じに色が混ざり合っていた。よだかさんに渡そうとソファーから立ち上がったとき、突然ノックの音が聞こえた。ぼくはプロフェッサーキューブをよだかさんに放り投げ、彼がそれを左手で受け取った瞬間を見た後で扉に向かう。廊下に立っていたのは二十歳くらいに見える女性だった。亜麻色の髪を胸元まで伸ばし、顔立ちは気が強い美人という印象。モスグリーンの作業服を着ている。ツナギだ。
「いらっしゃいませ。どうぞ、中へ」
「どうもっス……」
顔立ちによく似合うハスキーボイスだった。どうやら初見の客らしく、彼女の表情からは緊張と不安が感じられる。女性が事務所の中に入ったとき、すでによだかさんはソファーに移動していた。その左手にはプロフェッサーキューブが握られ、そのまま左手の指だけで手元も見ずにかちゃかちゃと色をそろえ始めている。ハンドモデルとしてオファーが来るのではないかと思うほど、綺麗な手。しかしその指の一本一本が、意思を持つ別の生き物みたいに動いている様子は少々不気味だ。
「こちらにお掛けください」
「えっ? あ、はいっス」
初めてここに訪れたときのぼくと同様、事務所の内装に見惚れていた女性をよだかさんの向かいに座らせる。するとよだかさんを視界に入れた途端、女性の全身がびくりと痙攣して目が大きく見開いた。口も半開きになっている。無理もない。
「ようこそ。浮気調査から遺言状の書き換えまでどんな仕事でも殺し以外請け負う黒喰請負事務所の所長、黒喰よだかと申します。初めまして」
色をそろえたプロフェッサーキューブをテーブルの端の置き、よだかさんは爽やかな営業スマイルを浮かべた。普段見せるシニカルな笑みとは随分印象が違う。
「は、はじ、初めまして。病瀬町で土木作業員やってる、草薙時雨、っス」
時雨さんは緊張の度合いが跳ね上がっているようだった。いくら美形が多い杏落市に住んでいてもこれほどの相手には初めて出会ったのだろう、顔が真っ赤になっている。きっと心拍数がかなり上がっているはずだ。ここは温かい飲み物で落ち着かせるべきだろうと思い、ぼくは南の壁にある扉から隣の部屋に入った。入って右側にキチネットのような空間、左側には浴室に通じる扉がある。そして正面の奥は冗談みたいな天蓋つきベッドでほぼ占領された部屋。この部屋は一応よだかさんの私室として機能しているらしい。
「あ、紅茶と珈琲どっちがいいか訊き忘れた……。いいか」
時雨さんの第一印象で選ぶなら珈琲だ。きっと砂糖は入れるがミルクは入れない飲み方をするだろう。そう勝手に決めつけ、ぼくは二人分の珈琲を淹れた。どういうわけか、ここではお客様だけでなくよだかさんにも同じ飲み物を用意する必要がある。もし紅茶を選ばれたときにはシュガーポットやミルクピッチャーだけでなく、スライスした檸檬とジャムまで盆に乗せなければならない。それは面倒だ。
「失礼します」
盆を一旦テーブルの上に置いてから時雨さん、よだかさんの順に珈琲を出す。それから中央にシュガーポットとミルクピッチャーを並べた。
「あ、ありがとっス。あの、あなたはここのアルバイトさんスか?」
「はい。一応、この人の助手をしています」
「そ、そうなんスか。なんかすごいっスね」
時雨さんはぎこちない笑みを浮かべた。それからかすかに震えている手で角砂糖を一つ珈琲に落としたかと思うと、ほとんどスプーンでかき混ぜることなく、息を何度か吹きかけて一口飲む。ミルクは入れない。ぼくの予想は当たりだった。
「あの、それで……お願いできるっスか?」
どうやらぼくが珈琲を用意している間に、時雨さんは依頼内容を話し終えていたらしい。ぼくはよだかさんの隣に座り、彼の顔色を窺った。ここでは依頼の請け負いに報酬の金額もリスクも関係ない。ただ、よだかさんの興味を引くかどうかで決まる。
ぼくと時雨さんが口を噤んで見つめる中、よだかさんは角砂糖を三つも入れてミルクピッチャーの中身をほぼ使い切るほど流し込んだ。スプーンで念入りに混ぜられたそれは最早珈琲と言うよりはカフェ・オ・レになっている。まだ湯気の上がっているそれをよだかさんは冷ますことなく、まるで真夏に飲む冷えた麦茶の如く一気に煽った。
「いいですよ。そのご依頼、請け負いましょう」
「ほんとっスか! あざっス!」
不安そうだった時雨さんの顔がぱっと明るくなり、勢いよく下げた彼女の頭はテーブルにぶつかって大きな音を立てた。一体どんな依頼内容だったのかぼくにはわからないが、とりあえずよだかさんが興味を示すものではあったらしい。
それから時雨さんはよだかさんと報酬金額について話し合い、特に拗れることなく話はまとまった。助手と言ってもぼくは隣でその話を聞いているだけで、何かメモを残すようなことはしない。必要がないからだ。よだかさんが一度見聞きしたものは、いつまでも彼の記憶に残り続けるらしい。ぼくは最初、事務所にパソコンが一台もないことを不思議に思った。しかしよだかさん曰く「パソコンなんて情報漏洩しやすい機械に頼るより、俺の記憶力を頼れ」とのこと。素直に格好いいと思った。思ってしまった。
「今回はほっとしましたよ」
「あ? 何が」
時雨さんが事務所を去り、ぼくはよだかさんが取り出したオセロに付き合わされている。開始三分で四つ角を取られてしまった。元々ゼロに等しかったやる気が現在マイナスだ。
「今日は依頼者を殺さなかったじゃないですか。先週の火曜日、殺したのに」
よだかさんが殺人鬼だということは知っていたが、あのときは驚いた。依頼者として来てくれた人まで、話し合いの最中にスプーンで殺してしまうのだから。
「お前、何か勘違いしてるだろ。殺人鬼にとって人殺しなんて公私関係ねえんだよ。仕事してるときでも休みのときでも、殺すときは殺す」
ぱたぱたぱたぱた、と最後の白い石が無情にも裏返された。盤面は愉快なほどに真っ黒な石だけとなり、ぼくはさっさと石を回収しながら溜め息をつく。
「ところで、今回の依頼って何なんですか? ぼくにも手伝えそうだったら――」
「暴走族と関わることになるぞ」
「無理です」
「即答かよ。つまんねえ奴だな」
「そもそも暴走族なんて今の時代も活動してるんですね。それで、依頼の内容は?」
よだかさんはオセロを事務机の抽斗に収め、今度は剣玉を片手に戻ってきた。これまで観察してきて思ったことだが、彼は手持ち無沙汰の状態になるとすぐ遊び出す。遊び盛りな小学生でも、もう少し落ち着きがあるだろう。
「時雨は元暴走族。高校時代からつい昨年まで、杏落市出身の女だけで構成された暴走族――所謂レディースに入っていて、副総長だった。中国地方ではそこそこ有名だったが、昨年の春に解散した。今は全員が堅気の職に就いてるらしい」
かん、かん、と赤い玉が大皿に乗った後でそのまま中皿に移動する。
「つい一週間前、時雨のところに総長だった仲間から連絡が来た。関東地方で活動してる暴走族《AΩ》から宣戦布告を受けたとあったんだとよ」
かんかんかんかん、と赤い玉がものすごい速さで全ての皿を行き来する。
「昨年までならその手の誘いを受けていたそうだが、今の時雨達はもう走るのを止めた普通の女だ。全員その挑戦を無視すると決めたが、相手は問答無用で五月に杏落市へ乗り込むつもりらしい。この杏落市で好き勝手されるのは嫌だが、自分達ではどうしようもできないからどうにか追い払ってほしい。それが時雨の依頼だ」
「時雨さんが入っていた暴走族って、地元を愛する硬派な集団だったんですね。……ところでよだかさん、正直それに気を取られるので会話中に剣玉はしないでください」
「お前の集中力が足りないだけだろ」
なかなか苛立つ発言をした後でよだかさんは赤い玉を手に持ち、ひゅんっ、と遠心力を使って本体を飛ばし、剣先を穴の中に収めた。
その後は依頼者も来ないまま時間だけが流れていき、ぼくは学校で出た数学の課題を終わらせた。途中でわからない問題をよだかさんに質問したところ「なんでこんな簡単な問いがわからないんだ」と言いながらも、彼はことごとくわかりやすい解説をしてくれた。そして時計が午後六時を示し、ぼくは鞄を肩にかけて立ち上がる。
「あ、よだかさん」
「なんだ」
「ぼくの高校、もうすぐ遠足で厳島に行くんです」
「厳島……安芸の宮島か。三回くらい泳いで行ったな」
何故そんな原始的な移動手段を選んだのか、凡人のぼくには理解できない。
「島全体が御神体の厳島に殺人鬼が侵入して問題にならなかったんですか?」
「侵入じゃねえ観光だ。殺人鬼だって神域や聖地くらい行く。で、休みが欲しいのか?」
「いえ、杏落市に帰るのは四時なので普段と変わりませんよ。いつも通りの時刻に来ます。お土産を買うつもりなので、何か希望があれば聞いておこうと思って」
「もみじ饅頭」
予想通りだ。値段も手頃だろうから、色んな味が楽しめるものを一箱買えばいいだろう。
「わかりました。それじゃあ、失礼します」
「ああ」
ビルを出たところで、トリガーハッピーポリスを見かけた。本名は知らないが、ほとんどの人がそう呼んでいる男。本名よりも通称が有名らしい、杏落警察署の巡査。制帽の下、シューティンググラスの奥にある目がぼくを捉えた。廃墟にしか見えないビルから出てきたぼくに、真面目そうな顔でつかつかと近づいてくる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
トリガーハッピーポリスは腰のベルトにホルスターを二つ吊るし、予備の弾倉を何本も挿している。右にはオートマチック拳銃、左にはリボルバー。両利きで、銃器ならなんでも扱えるらしい。クラスメイトが話していた内容は多分、本当だ。
「学校からの帰りですか? こんなところで一人で寄り道をしていては危険ですよ」
「はい。気をつけます」
「誰かっ! そのひったくり捕まえて!」
突然離れたところから甲高い女の声が聞こえた。途端、トリガーハッピーポリスの顔つきや纏っていた雰囲気は豹変した。嬉々とした表情で両手に銃を持ち、声が聞こえた方向に走り去っていく。ほどなくして遠くから派手な銃声や悲鳴が聞こえ始めた。
「今日の夕飯、何にしようかな」
昨日作った筑前煮がまだ残っていたはず。それともう一品、冷蔵庫にあるもので何かを作ろう。そう決めてぼくは三途川前のバス停を目指した。銃声はまだ聞こえている。