58 兄の秘密
「本当に馬鹿だな、愛織は」
「愚かだね」
「阿呆じゃのう」
散々涙を出し尽くした後で待っていたのは正座の時間だった。ソファーに並ぶ三人の男から見下ろされ、説教――どちらかと言うなら罵倒だが――を受ける。情けないのと恥ずかしいのとで熱い顔が上げられない。もう二十分くらいは経っただろうか。
「黙って聞いていれば滅茶苦茶なことばかり言いやがって。……お前、あのとき《助けて》って叫んだだろ」
あのとき、とはタワーマンションでのことだ。
覚えている。確かにぼくは叫んでいた。助けて、と。
「とっさに俺は愛織を連れ出したけど、もしかして間違ってたのか? あのとき俺も、お前の兄も、自分に助けを求めたとばかり思ってたぞ。助けてって叫んだだけで、名前を呼ばなかったからな。なあ、お前はどっちに助けを求めてたんだ?」
「正直わからないん、ですよ……」
見上げた先ではよだかさんの柳眉が寄せられ、怪訝そうな顔になっていた。左右に座る他の二人も同じような顔をしている。
「あなたに助けてほしかったのかもしれないし、兄さんに助けてほしかったのかもしれない。あのときぼくは、よだかさんに連れ戻されるとわかった瞬間助けを求めました。だって兄さんのもとを離れたら、またぼくと関わった人が傷つく。それが嫌だったんです。兄さんがぼくをそのまま捕まえていてくれたらいい、よだかさんがぼくを連れ戻さなければいいって思いました。そうすれば全て丸く収まるから……」
「強いて言うなら二人ともに助けを求めたってことか」
八雲さんがそう言って溜め息をつく。
「ねえ愛織。もう正座しないでいいから、そこに座って。それからちゃんと私達に話しなさい。あなたと、あなたの兄の関係について。ああ、その前によだかは何か目が覚める飲み物を淹れてきて。ホットミルクでもホットココアでもいいから」
「ここは俺の事務所だぞ」
「だからお前に頼んでるんだよ。私達は客人なんだから」
若干不満げだったが結局よだかさんは私室に消えていった。扉の閉まる音がした後で、ぼくは感覚が怪しくなった脚でソファーに座る。
「あの、土竜さん」
「ん?」
「脚は……今どうなってるんですか?」
「たまにひどい幻肢痛が起きるのう。今夜は松葉杖を使ってきたんじゃけど、もう八雲が用意した義足で歩く訓練を始めとる」
「義足ですか」
「今はまだ仮義足だよ。知り合いの義肢装具士に頼んで、土竜の身体に合わせた大腿義足を製作させてる。私としてはこいつが無様に這いずる様を見るのも悪くないんだけど、患者になったからにはできる限りのことをしてやるつもり。このままだと満足に喧嘩もできないし、大嫌いな相手に貸しを作るのも悪くないからね」
ふん、と八雲さんは鼻を鳴らす。
「すみません。全部ぼくのせいでこんなことになって……」
「愛織のせいじゃない。俺の力不足が原因じゃろ。正直あいつらは強いと認めるしかなかった。そういうこと言われるんは不甲斐ないし虚しいけえやめえや」
「ごめんなさい」
「謝られても困るけどな」
やがて私室の扉が開き、よだかさんが盆を持って現れた。人数分のホットココアを淹れてくれたらしい。マシュマロを入れて加熱したのか、白くてふわふわとしたものが今にもマグカップから零れ落ちそうになっている。全員が何も言わずココアに口をつけ、こちらに視線を向けたところで、ぼくは話し始めた。
「よだかさんが察した通り、この十一月から立て続けに起きた事件は全部兄さんが原因です。実行したのは《猫の事務所》という兄さんの抱える私設部隊ですけど、間違いありません。その理由は全て……ぼくが必要以上に親しくしていたから、です。兄さんはそれが気に食わなかった。大量殺人まで犯すくらいに」
「死んだ容疑者は偽物か?」
不意に土竜さんが口を挟んだ。
「容疑者?」
「……ああ、まだお前はニュース見てないんか。一年四組のクラスメイトが殺された事件も、俺を含む六階の住人が襲われた事件も、容疑者は全員死んだんよ。警察署に自首することを伝える電話が入って、そのとき指定された場所に警察が訪れたときには全員が自殺しとった。犯行の計画を細かく記した書類がそれぞれ現場で見つかったけえ、恐らく犯人として確定されるじゃろ。悪質なカルト宗教にのめり込んだ狂信者の仕業ってことでな。柩木組を襲撃した奴らもその場で自爆しとるし、三つの事件の犯人が全員死んだってえらく騒がれとる。けど俺を襲ってきた六人組の顔は報道されとるのを見る限りおらんかった。まだ調べとらんけえ詳しいことはわからんけど、あの容疑者は偽物ってことになるじゃろ」
土竜さんの言葉に頷いて、ぼくは兄さんが言っていたことを思い出した。
「殺人を実行したメインクーン、情報操作したコラット、柩木組の屋敷を無関係な人間に襲撃させたオシキャット、それぞれ仲間を運んだウェジー、全体を指揮したシャム……」
「猫の種類だね」
八雲さんがぽつりと呟くように言った。
「はい。そう呼ばれる五つのグループで成り立っているのが《猫の事務所》です。柩木組の件では、オシキャットが自分達と無関係な人間をどうにか唆して襲撃させました。その場で死なせれば口を割ることはありません。そして一年四組のクラスメイトや六階の住人は武闘派のメインクーンが殺しました。その後に自殺した自称犯人は偽物で間違いない」
いくら杏落市が犯罪都市とは言え、一般市民が大量に殺害されても犯人が捕まらないなんて事態は問題視される。万が一にでも《猫の事務所》の存在が発覚しないよう、兄さんは代理の犯人を用意したのだろう。断定はできないが、ぼくの頭ではそうとしか考えられない。きっと兄さんなら脅迫するなり洗脳するなりして、代理の犯人も集められるはず。まるでスケープゴートだ。
「兄さんの暴走を止めるにはぼくが兄さんのものになるか、ぼくがさっさと死んでしまうかのどちらしかないと思いました」
これは本心だ。今でもそう思っている。
「ぼくの兄さん――哀逆愛識を一言で表すなら天才です。幼少期からすでに年上の子供が太刀打ちできないほど教養も運動も秀でていました。十歳も離れているので、当時の話は全部両親や他人から聞いたものですけどね。実家には兄さんが獲得した賞状、トロフィー、メダルがいくつもありますよ。天は二物を与えずなんて嘘。兄さんは文武両道だけでなく、美術や音楽といった芸術のセンスも持ってるうえ容姿にも恵まれていて、異性からは王子様扱いされてましたよ。一般的な中流家庭で平凡な自分達から生まれた、あまりにも天才的な第一子を両親は溺愛してます。……でも、非の打ち所がない完璧な人間に見える兄さんには、これ以上ないほど欠落した部分があったんです」
「シスコンってことか?」
よだかさんがあっさりとした口調で言う。
「血の繋がった妹に執着し、虐待し、監禁し、それでいて恋人みたいに愛でる。お前が関わった人間を平気で傷つける。それがあいつの欠落した部分なのか?」
「普通はそう見えるでしょうね」
ぼくが返答によだかさん達は意外そうな顔になった。すぐには話を続けずにぼくはココアを飲んだ。口の中がとても甘い。口呼吸をすると、空気が甘く感じる。もう一度マグカップに口をつけた。自分の鼓動が速まっているのがわかる。
今まで誰にも言ったことがない、ぼくだけしか知らない兄さんの秘密。
この秘密を口外したところで誰も信じてはくれないからだ。それでも、この三人はぼくの言葉を信じてくれるだろうか。
「言えよ」
痺れを切らしたようによだかさんが催促した。ぼくは深呼吸をして、口を開く。
「――――愛が、わからないんですよ……」
そう言って三人の顔を見た。要領を得ない、と言いたげな顔だ。
「愛情という概念そのものを知識としては理解できても、それを感じることができない。そういう体質なんです。兄さんは人の目が届かないところではぼくを溺愛し、同時に暴力的な虐待を行ってきました。一見すると歪んだシスコンですが、実はそれら全てが演技。偽りなんです。優秀過ぎた兄さんは幼い頃から自らの異常性を自覚して、周囲に悟られないよう振る舞ってました。ちょうどその頃に母さんはぼくを身籠り、自分が兄になると知った兄さんは、ぼくを利用することを考えたそうです。誰か一人だけでも愛することができれば、異常じゃない普通の人間らしい人間でいられる。そのための対象がぼくでした。理由は一つ屋根の下で過ごす家族で、四六時中共にいてもさほどおかしくはないから。兄さんは妹のぼくを家族としても女としても愛して――いや、愛する真似をすることで、愛を知ってるふりをし続けました。兄さんの次に生まれたぼくは、平凡どころか勉強も運動も上手くできない子供だったので、両親の関心をぼくから離れさせることは容易かったみたいです。離乳食が終わる頃には、ぼくの面倒は母さんより兄さんが担うようになっていました」
「ちょっと待って」
八雲さんが片手を上げ、ぼく達の視線は彼に向かう。何やら思案する素振りを見せた後で八雲さんはぼくに訊ねた。
「お前の身体が縫合痕だらけなのは、その兄にされたってことでいいんだよね」
「はい」
「何故お前の兄はそんな虐待をしたんだい?」
「八雲さんなら知ってるとは思いますが、親から虐待を受けた子供は、虐待を受けていない子供よりも強い愛情を親に向けて依存する傾向があります。兄さんはそれを知っていてぼくを虐待しました。ぼくが兄さんをより愛するよう仕向けるために」
そこで何故か八雲さんは土竜さんに睨むような視線を向けた。不愉快そうで冷たい視線だが、どうしたのだろう。土竜さんは無表情でどこか虚空を見つめているだけだ。
「それじゃあ俺からも質問」
よだかさんが言った。
「平凡どころか勉強も運動も上手くできない子供だった。そう言ったよな」
「はい」
「それにしてはお前、杏落市の不良や犯罪者を捩じ伏せられるくらいの喧嘩ができるじゃねえか。何より俺と初めて会ったときだって、誘拐された後に自力で拘束を解いて脱走を図ったんだろ。見た目は華奢なのに、目立たないだけで筋肉も並みの女子高生とは思えないくらいしっかりついてる。大体愛織が趣味としてやってるパルクールもどう見たって上級者の動きだ。あれは独学なのか?」
「……全部、兄さんが教えてくれたんですよ。小学校に入る前、訊いてきたんです。《勉強と運動、どちらがよくできるようになりたい?》って。そのときぼくは幼稚園の運動会で母さんから《愛識はなんでも一位だったのに、どうしてあなたはできないの》って残念そうに言われたのを気にしていて後者を選びました。それ以来兄さんはぼくのためトレーニングメニューを作ったり、よく酸素の薄い山の上まで連れて行ったり、とにかくぼくの身体を鍛える指導をしてくれたんです。近接格闘術はクラヴ・マガを主に教えてくれました。妹に対する愛情の一環として、何かを熱心に教えることも必要だと思ったんでしょうね」
おかげでぼくは杏落市で一人暮らしできているわけだが。
ぼくは左の袖を肘まで捲り、腕に残っている縫合痕を指でなぞった。
「この縫合痕自体は男除けの意味も強いんです。兄さんにとってぼく達はお互いが唯一愛情を向け合う相手で、ぼくが愛する男は兄さんだけじゃないと都合が悪いですからね。実際、ぼくは小学生の頃から兄さんに恋心を抱くようになりました。ぼくを愛してくれるのは兄さんだけだと本気で思ってましたよ。両親からぼくに向けられる愛情は、ないわけではありませんが、兄さんと比較すると明らかに希薄でした。こんな犯罪都市での一人暮らしを許したり、引っ越してから一度も帰省せず学校関係のこと以外連絡しない娘に何も言ってこないんですから。…………昔から、兄さんがぼくのことを好きだとか愛してるだとか、そういうことを言ってくるのが好きでした」
最初の頃は、これが愛情なのだと思っていた。それでもぼくは成長するうちに気づいた。気づいてしまった。ぼくの胸を満たしていたのは、全て嘘の言葉だと。
生まれてから今までずっと、兄さんから毒のような嘘の愛を注ぎ込まれ過ぎた。胸の中にある器だけじゃない。足の指先から髪の毛まで全身が浸食されて、満たされて、蝕まれて。もう手遅れなのかもしれない。
「わかってた。本当は兄さん……ぼくのことなんか、あ、愛してないって……」
声が震えたのを誤魔化すようにまたココアを飲み、顔が見えないように俯いた。
「兄さんが誰かのことを好きになったことなんて一度もない。兄さんはぼくのこと好きでも嫌いでもない。有象無象と同じようにしか見えていないんだから。でも、ぼくは自分だけが兄さんの特別なんだと思い込んで、兄さんの外面だけしか知らずに群がる連中を見ては優越感に浸っていました。その一方で兄さんが途轍もなく恐ろしい人間に思えて、早いうちに殺さなければと思うこともあった。きっとこの人はこれから先、たくさんの人を傷つける。まだ幼い頃から本当にそんなことを考えてたんです。だから十歳のとき、ぼくは眠っている兄さんを殺そうとしました」
深夜、包丁を持って兄さんの部屋に入ったときのことを覚えている。あれからしばらくは悪夢として見るようになったくらいだ。よだかさんと《ウンディーネ》に泊まった夜も、久々にあのときのことを夢に見た。
「……当然何の経験もない十歳児には無理でした。けど、そのせいで――」
ぼくがちゃんと殺していれば、兄さんのせいで傷つく人も殺される人もいなかったのに。




