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57 血を吐く思い

「……戻るんですよ。兄さんのもとに」

「兄さん? あいつ、お前の兄だったのか」

「そうですよ。全然似てないでしょう。でも、ちゃんと血の繋がった兄妹なんです」

 妹が兄と一緒にいるのはちっともおかしなことじゃない。当たり前のことだ。ぼくは何も間違っていない。悪くない。怒られない。責められない。

「じゃあ、ぼくはこれで――」

 扉の把手を掴み、五センチほど開けた直後ばんっと音がした。開けたはずの扉が勢いよく閉まった。いつの間にかぼくの背後によだかさんがいて、その左手が扉に触れている。

「いつも疑問だったんだ。愛織って心の底から笑ったような表情、今まで一度も見せたことがねえだろ。てっきり俺に対してだけなのかと思ってたが、観察してるうちにそうじゃないことがわかった。それと、身体中にある縫合痕。この一週間で立て続けに起きた事件。全部、お前の兄が原因だったんだろ」

 うるさい。

 鬱陶しい。

 ぼくのことなんかあなたには関係ないだろう。

 限界まで引っ張られていた糸が、さらにきりきりと引っ張られていく。

 駄目だ。これ以上は。

「お前、あんな兄のもとに戻りたいと本気で思ってるのか?」

 ぶちん、と切れた。

「――――黙れっ!」

 ぼくはわけもわからずに怒鳴った。

「さっきから一体何様のつもりだ! あのままでよかったのに余計なことしやがって! あなたはぼくのことを何も知らないだろ! 勝手に知ったような口利くんじゃねえよ! こんなふうになるはずじゃなかったんだ! でもこうなってしまったんだからしょうがないんだよ! 百太郎くんも、一年四組のクラスメイトも、楪くんも、六階の住人も、前からずっと馴れ馴れしくて鬱陶しくて気持ち悪いと思ってた! いなくなって清々するくらいだ! ぼくにとって大事な人は兄さん一人だけだよ! その他の人なんか何人死のうが傷つこうが離れていこうがどうだっていい!」

 怒鳴りながら、両手でよだかさんの胸倉を乱暴に掴む。

 漆黒の髪、白皙、真紅の瞳。この美しい顔を殴って蹴って切って刺して焼いて潰して、目も当てられないくらい――当てる目もないくらいぐちゃぐちゃにしてやりたい。

「よだかさんだって同じだよ! いつもいつも無神経なことばかり言いやがって! ぼくがそのたびにどれだけ苛々して惨めになってたかわかるのか!? 人殺しのくせに、ぼくみたいな駄目人間を殺さずに生かして、そういうのが一番残酷なんだよ! ぼくがこんなにも醜くて卑劣でどんな誹謗中傷も当て嵌まる情けない馬鹿だって、あなたは最初からわかっていたはずだ! もう放っておけばいいだろ! 本当はよだかさんもぼくのことが嫌いなんだってわかってるんだから!」

「愛織」

 がしり、と首を掴まれた。かと思えば投げ飛ばされていた。背中から本棚に突っ込み、強い衝撃が走る。肺にあった空気が全部口から出て、息が詰まる。床に倒れると本やファイルがばさばさと落ちてきた。痛い。どうしようもなく痛い。

「う、ううう、うう……」

 ぼくが床に蹲ったままでいると、よだかさんの左手がぼくの顎を掴んで持ち上げた。真紅の瞳にぼくの顔を映している。

 やめろ。

 あなたのその綺麗な目に、ぼくみたいな醜い人間の顔を映すな。

 顔を背けようとしたが力が強い。まるで固定されたみたいに目を逸らすことができない。

「俺はお前が何しようが何言おうが構わねえよ。けどな、以前八雲にも言っただろ。人の意見を選んで決めつけようとするのだけは駄目だ。お前は今、俺の意見を勝手に決めつけようとした。俺のことをどう思おうと、それは勝手だけどな。俺に指図してんじゃねえよ」

「う……う、う」

 涙が出そうになったがなんとか堪える。

 もう駄目だ。こうなったら。

 ぼくはよだかさんの左手首を強く握りしめ、身を起こし、深呼吸を一つして言った。

「こ……っ、ろ、して」

 よだかさんの瞳が一瞬揺らいだ。

「お願いします。よだかさん、ぼくを殺してください。どうせ自殺はさせてくれないんでしょう? よだかさん、自殺が嫌いだって言ってましたよね。だったらあなたがぼくを殺してくださいよ。ぼくがお金を払わなければ殺し屋と同じことにはなりませんよ。だから、早く、お願いします。これまで散々ぼくに希望を煽った責任、取ってくれなきゃ困ります」

 すとん、と腑に落ちるようなどこか心地いい感覚。声に出してみて実感した。

 そうか。

 ぼくは慰められたいわけでも、罵られたいわけでもない。

 殺されることで解放してもらいたかったんだ。

「わかった」

「…………え?」

「なんだその呆けた顔は。お前、俺に殺されたいんだろ。その願い叶えてやるよ。ただ、俺は殺さないと決めた人間を殺すのは初めてだ。だから余計に苦痛を感じる羽目になるかもしれないが、そこは我慢しろよ。俺だって殺人鬼として死ぬことになるんだからな」

 ぼくの両手が離れるとよだかさんは笑った。いつものシニカルな笑みじゃない。だからと言ってたまに見せる少年っぽい無邪気な笑みでもなかった。血液の代わりにチョコレートでも流れているのかと思えるくらい、胸やけがしそうなほど甘ったるい笑顔。

 ああ。やっぱり、人とは思えないくらいに綺麗な殺人鬼だ。

 ぼくが見惚れているとよだかさんは懐に手を入れ、刃物を取り出した。拳に握り込んで使う特徴的な持ち手のダガーナイフだ。よく研がれた切っ先を見つめていると、よだかさんはぼくの右肩を掴んで壁に押しつける。これでもうぼくは動けない。逃げられない。ちらりと見えた八雲さんと土竜さんは、信じられないものでも見るような表情で少し身を乗り出していた。しかしありがたいことに止める気はないらしい。

「じゃあ、お願いします」

「……ああ」

 喉元にひやりとした硬い感触が触れる。よだかさんならきっと一発で頸動脈を切り裂いて、すぐに殺してくれるだろう。意外と怖くはない。オツベルさんに殺されそうだったときと同じだ。ぼくは瞼を下ろして、そのときを待った。

「………………………………」

 まだ、だろうか。

 ナイフはぼくの喉元に触れたまま一向に動かない。違う。動いてはいる。まるで小刻みに震えるように軽く皮膚に触れているだけだ。いつまで焦らすつもりなんだろう。そっと瞼を開けて、ぼくは「えっ」と声を漏らした。

 よだかさんの美貌は今までに見たことがないほど、苦痛に歪んでいた。

 薔薇色の唇を噛みしめ過ぎて出血している。傷口はできるたびにすぐ塞がっていくのだが、よだかさんの牙みたいな鋭い犬歯は柔らかな肉を抉り、次々に新しい傷を作っていた。白皙を通り越して蒼白の顔には、冷や汗が流れている。見開いたまま瞬きをしていない、瞳孔が散大した彼の目は、ついさっきよりも濁って酸化した血の色だ。ぼくに当てたナイフを持つ右手が震えている。いつの間にかぼくの肩から離れていた左手は、その震えを抑えるかのように右手首を強く握り、骨が軋むような音を立てていた。

 なんだ、これは。

 まるで薬物中毒者が禁断症状を起こしているかのような状態じゃないか。

 殺人鬼は一度殺さないと決めた人間は絶対に殺さない。それどころか、相手が天寿を全うできるように尽くす。初めて会った日によだかさんはそう言っていた。殺さないと決めた相手を殺した殺人鬼が、殺人鬼でいられなくなることも聞いた。だからって、まさかこんな拒絶反応みたいなことが起きるだなんて。

「……っ、ふ……ぐ、ぅ」

 よだかさんが呻き、ぶつっ、とようやくナイフの切っ先がぼくの皮膚を貫いた。そこから焼けるような痛みが弾け、ほんの少し血が垂れる。だが、それだけだ。到底頸動脈には辿り着かない。気づけば、よだかさんの息が過呼吸のようになっている。

「よだか、さん」

 急に込み上げてきた涙で視界がぼやける。そのときよだかさんのピンヒールを履いた足がぼくの足を払った。再び床に倒れたぼくを仰向けにして、よだかさんは馬乗りになった。体重をかけるようにもう一度ナイフを突き立てようとする。ずずっ、と肉の中に刃物が少しずつ入っていく。しかしぼくは痛みよりもよだかさんの両目から溢れ出たものに気を取られた。

 一瞬黒い涙かと思ったそれは、血だった。

 血涙って本当にあるんだ。頭の片隅でそんな現状に相応しくないことを考える。よだかさんの目から流れ出たそれは、重力に従ってぼくの顔へと落ちてきた。

 ――――これでいいのだろうか。

 いきなり、今さら、不意にそんな疑問が頭に浮上した。

 本当にぼくはこれでいいのか。

 何も間違ってはいないか。

 刹那、走馬灯なのか杏落市に来てからのことが脳裏を駆け巡った。三月の終わり。春休み。揺籠町で始めた一人暮らし。《クルーエル》の六階。洋文さん。和歌さん。親道さん。虹美さん。土竜さん。新入りのぼくに親切だった。四月。杏落高校。入学式。一年四組。串山先生。放課後に怪しい売買を目撃。誘拐。よだかさん。黒喰請負事務所。助手になった。百太郎くん。初めての友達。五月。遠足。厳島。暴走族。琴太郎先輩。校争。笛吹鬼。シンデレラホテル。福幸先輩。六月。初めてのストーカー。楪くん。柩木組。告白された。百太郎くんとの勉強会。修羅場。七月。クラスマッチのバレーボール。優勝。よだかさんと出張。マリンリゾート地。高級ホテル。海水浴。支配人夫妻。一人娘捜索の依頼。探索屋。むくろちゃん。ドッグ倶楽部。八月。棺桶町。潜入。狗。五月雨さんの自殺。よだかさんを好きだと思った。九月。オツベルさん。映画鑑賞。中華料理。殺し屋。ばらばらになった死体。十月。文化祭。お化け屋敷。たくさんの人が来てくれた。皆の笑顔。打ち上げの約束。嬉しかった。十一月。一年四組の死体。死で満ちた教室。死体。血。惨劇。

「し……」

 空気のように掠れた声が出た。よだかさんの震えがぴたりと止まり、ぼくの肉に埋め込まれたナイフも止まり、焦点が合っていなかった目はしっかりとぼくを見る。

「しに、たく、ない……っ!」

「…………あ?」

 言ってしまった。

 途端ダムが決壊したみたいに、口から言葉が溢れ出した。

「死にたくない。死にたくないよ」

「………………」

 よだかさんの大きく見開いた目を直視できない。ぼくは両手で顔を覆う。

「まだ死にたくない。殺さないで。やめて。ごめんなさい。我が儘で、ごめんなさい。生きたい。殺されないといけないのに。まだ死にたくない。もっと、生きていたい。生きていたくて、ごめんなさい……!」

「ふざけんな」

 よだかさんの冷たい声がしたかと思うとナイフが引き抜かれた。両手を離して見ると、よだかさんの顔はあの血涙も唇からの出血も止まっている。しかし顔色はまだ悪く、見ているこちらの胸が抉られるほど深い悲しみを湛えていた。

 よだかさんのこんな顔、見たことがない。

「やめろよ、それ」

「ごめんなさい……。わかってます、今さら生きたがるなんて」

「やめろって言ってるだろ!」

 怒号が響いてぼくの肩が跳ね上がった。何も返せないでいるとよだかさんが舌打ちをし、乱暴にぼくの襟を掴んで立ち上がらせた。

「生きることを謝るな」

「う……あ……」

「殺されないといけない? 馬鹿かお前。そんな人間がこの世に存在するわけねえだろうが。もし存在するとしても愛織みたいなチェリーガールは絶対に違うぜ。いいか、自分から死ぬな。自分から負けるな。自分から逃げるな。お前は独りでもなければ弱くもないんだから、たとえどんな目に遭ったとしてもその気があれば生きてみせるはずだ。そうでないなら俺はお前をとっくに見限って捨ててるよ。わかったら自分を否定せず、とっとと全部まとめて肯定しやがれ!」

「だ、だから、それはあなたの過大評価でしかなくて」

「まだ俺の言うことが信じられねえって言うのかよ。薄情な助手だな。いい加減にしろ。なあ、そんなに自嘲や自虐は気持ちいいか? 確かにお前一人は気楽かもしれねえけどな、それを見聞きしているこっちの身にもなれ。自分自身が自分の敵に回ったら、そこで何かもお終いなんだよ。どうしてこうも簡単なことがわからない。まだ十五歳のくせに無駄に難しいことをうだうだ考えんな。自分を殺して生きるか自分を生かして死ぬかみたいなことばかり考えるのはやめてしまえ。お前がさっきみたいにもっと生きたいって思うんなら、生きろ。それでいいじゃねえか」

「あ――――」

 ふっ、と何かが落ちた。

 身体が軽くなったような、胸につかえていたものが取れたような、そんな気分。

 襟からよだかさんの手が離れ、力の抜けたぼくは床に座り込む。しばらくそのままでいると帽子の上から頭を優しく撫でられた。

 声を上げて泣いたのは、杏落市に来て以来初めてのことだった。

 

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