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56 別離の失敗

 とっぷりと日が暮れた。窓から見上げた先には黒と濃紺の間にあるような色の暗い夜空、見下ろした先にはいくつもの光で明るい街並み。時刻はもう十一時になる。

「そろそろ部屋を出るぞ、愛織」

 つい一時間ほど前から《猫の事務所》数人と話をしていた兄さんだが、たった今終わったらしい。振り返るとその手には真っ黒なプリンセスコート。

「今夜はかなり冷え込んでる。風邪をひかないように暖かくしろよ」

 そう言って兄さんはぼくにコートを着せた。兄さん自身もダブルボタンの黒いチェスターフィールドコートを羽織る。《猫の事務所》の人達は先に部屋から出ていき、たちまちぼくと兄さんの二人きりになった。ぼく達が出ていった後でこの部屋にあるものは跡形もなく処分されるのだろう。それは多分《クルーエル》の六○六号室でも同じことだ。

「兄さん。ぼくの通帳とか保険証とか《クルーエル》にあるんだけど、東京に着いたらすぐ届く?」

 すると兄さんは怪訝そうな顔をした。

「なんでそんなもの必要なんだ」

「え……」

「愛織。これからお前の余生は俺が全て管理する。貯金通帳や保険証はあってもなくても変わらないだろう。お前が自分の貯金を使うようなことはないし、万が一医者が必要なときは融通の利くいい医者を呼ぶ。もしも俺が死んだとしても《猫の事務所》に全力で愛織の生活を最期まで支えるよう指示してある。だから、お前が心配することは何もない」

 幼い子供を宥めるように優しく言って、兄さんはぼくの頭に帽子をかぶせた。この部屋に来てからかぶらなくなっていた猫の頭みたいな黒い帽子。

「うん。ありがとう兄さん」

 兄さんは頷き、部屋の扉に向かっていく。その後ろを追おうとしたところで背後を振り返る。当然、窓の向こうには夜景しか見えない。

「どうした、愛織。早く来い」

 玄関の方から兄さんの声がぼくを呼ぶ。

「今……何か声が聞こえたような気がしたんだけど」

「何?」

 この部屋にはもうぼくと兄さんしかいない。五十階建てマンションの高さにいて、外から人の声が聞こえるなんてありえないはずだ。この階全ての窓ガラスは防音かつ防弾素材に変えたと兄さんが言っていたのだから。

 眉を寄せた表情の兄さんがこちらに戻ってくる――そのときだった。

 どん、と。

 打ち上げ花火が咲いた瞬間のような音が響き、同時に建物が横に揺れた気がした。音が聞こえたのは寝室。ぼくは思わず駆け出し、体当たりする勢いで扉を開けて、照明をつけ、その瞬間に膝から崩れ落ちそうになった。

「な、なんで……」

 冷たい風が吹き込んで裂けたカーテンが忙しなく揺れていた。窓ガラスの破片が床に飛び散っている。その上から雨のように血を落としているのは、見間違えるはずがない。

「よお。久しぶりだな、チェリーガール」

 危ういほどの美貌を持つ、黒い喪服姿のよだかさんだった。

 どうやら彼は拳で防弾ガラスを破壊してみせたらしい。握った右手から真っ赤な血がだくだくと流れている。ぼくが何も言えないでいると、よだかさんは足元のガラスをぱきぱきとピンヒールで踏み砕いた。

「《天つ乙女島》にいた奴らは全員殺された。言っとくが、俺がやったんじゃない。愛織の言っていた通りクローズド・サークルでの殺人事件が起きたんだ。最初の被害者は俺達を招待した老人。島から出るための乗り物も通信機器もことごとく破壊されて、全員見事なほど疑心暗鬼になってたよ。犯人は探偵の女だったんだが、土曜日の明け方に崖から身を投げてそいつも死んだ。仕方なく俺は冬の日本海を泳いで杏落市に戻ってきたんだぜ」

 訊ねてもいない《天つ乙女島》での話を終えると、よだかさんは視線を少し上げた。ぼくの後ろを見ている。とっさに振り返ると兄さんが三歩後ろに佇んでいた。その表情だけでは感情が読み取れないが、外から吹き込む風よりも冷たい視線をよだかさんに向けている。兄さんの傍にはいつの間にか、全員が百八十センチを優に超える大柄な集団――きっとメインクーンだろう――が武器を構えていた。しかしよだかさんの方はそのことなど気にも留めず、どこか憮然としたように肩を竦めた。

 かちかちと自分の歯が音を立てていることに、ぼくはここでようやく気づいた。

「それなのに助手のお前がなんで俺に何も言わず失踪してやがるんだよ。愛織のクラスメイトは全員殺されて、柩木組の跡継ぎは市外に出ていって、土竜は右脚を失ってた。俺がいなかった一週間のうちに何が起きてるんだよ。それにあいつらが被害に遭った原因、全部愛織のせいだって噂されてるじゃねえか。どうせ、違うんだろ」

 言い終えたと同時によだかさんは何か気づいたように目を軽く見開き、何もかも見透かすような目をこちらに向けた。そして得心したように頷く。

「ああ……。お前の後ろにいるその男が全部やった――いや、やらせたってことか」

「…………魔王」

 兄さんがぽつりと言ったそれは、よだかさんの数多くある異名の一つだった。小さな声だったがちゃんと聞こえたらしく、よだかさんは嫌そうに顔を歪めた。

「愛織を誑かしたのはお前だな、黒喰よだか。本当に迷惑な存在だ。表でも裏でも関係なく人を殺して、こちらからは殺すことも手懐けることもできない。まるで自然災害と同じだ。最悪の災厄なんて呼び方がお前ほど相応しい奴もいないだろうな」

「へえ、俺のことそれなりに知ってるのか。俺はお前のこと全然知らねえけど」

「低俗の殺人鬼に名乗るつもりはない」

「そうかよ。じゃあ歓迎されてないようだし、さっさと退散するか。窓ガラス割って悪かったな。俺はただそこの助手を引き取りに来ただけだ」

 よだかさんの血に汚れていない左手がこちらに向かって伸びた途端、それまで硬く閉じていたぼくの口が勝手に開いた。

「た――――助けて!」

 次のことなど考えず、後のことなど忘れて。

 ただ我武者羅に叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。

「愛織」

 二人が動く気配と声を感じたと同時にぼくの身体は収まっていた。

 よだかさんの、腕の中に。

 それを認識したときすでによだかさんはぼくを抱きしめたまま、ガラスがほとんど割られた窓に背面から激突していた。後方から残っていたガラスの砕け散る音。視界には兄さんとメインクーンが駆け寄ってくる姿が映った。とっさに右手を伸ばそうとしたが、兄さんが伸ばした手とぼくの手は触れることもなく遠ざかっていく。空が黒い。闇。真っ暗。

 助けて。

「あ、ああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 自分の喉から勝手に上がる声を最後に、意識は沈んでいった。



 目が覚めた場所は黒喰請負事務所だった。白い照明に目が眩み、右手で目元を覆う。すると聞き慣れた声が「起きたみたいだね」と言った。八雲さんの声だ。跳ね起きるとぼくが今まで寝ていたのは来客用のソファーだったことに気づく。帽子とプリンセスコートは脱がされ、テーブルの上に重ねて置かれていた。向かいのソファーには八雲さんと土竜さんが並んで座っている。少し前だったらまず見られない光景だっただろう。

「なんで、お二人がここに……」

「よだかに聞きなさい。私達だってこんな夜中にいきなり呼び出されたんだから。あ、そう言えばこれお前の携帯端末だよね。返しておくよ」

 白衣のポケットから抜き取り、八雲さんが差し出したのはシルバーの携帯端末。電源とパスワードを入れて、確かにぼくのものだとわかった。時刻はもうすぐ一時。

「ありがとうございます。それと、この前はすみません」

「別に構わないよ」

 ふと土竜さんの脚に目が行った。灰色のカーゴパンツは脚を入れる右側だけ、ひらひらとしている。太腿辺りから切断されたのだから当たり前だ。大きな松葉杖がソファーの脇に置かれてあった。松葉杖がなければ歩くことができない身体になった土竜さん。これは全部ぼくのせい。

 ああ、早く戻らないと。

 兄さんのもとに。

 金は一円もない。《クルーエル》の鍵もないから、兄さんに連絡して迎えに来てもらえばいいだろう。乗る予定だった夜行列車はもう行ってしまったかもしれない。それでも兄さんならどうにかしてくれるはずだ。会ったら謝らないと。

 ぼくは帽子をかぶり、プリンセスコートに袖を通した。よだかさんの血がついて固まっていたが気にしない。受け取った携帯端末をコートのポケットに入れてソファーから立ち上がる。八雲さんも土竜さんもぼくを見上げていたが、何も言わない。黙って事務所を出ようと扉に向かったとき、声がした。

「おい処女」

 振り返ると私室からよだかさんが出てきたところだった。背筋が凍りつき、目を覆いたくなるような凄惨な美貌。思わず目を逸らして俯いてしまう。

「お前、八雲と土竜の話によれば土曜日の午前中から姿を消したそうだな。置き忘れの携帯端末に気づいて、八雲が届けようと部屋のインターホンを押しても反応はなかった。今日は俺が学校まで迎えに行ったが欠席。連絡もしていない。《クルーエル》の部屋に入ってみても帰ってこねえ。仕方なく捜索したら、何故か杏落市の外で立派なタワーマンションの最上階で暮らしてる」

「………………」

 三人分の視線が集まっているのを肌で感じる。暖房が効き過ぎているわけでないにも関わらず、今にも汗が流れそうな心地だった。頭の中できりきりと小さな音がする。伸縮性の悪い糸を限界まで引っ張り続けているような緊張感。

「俺も聞いた」

「えっ」

「土竜の部屋に置かれてたICレコーダーの音声。あれは間違いなくお前の声だった」

 俯いていた顔を少しだけ上げると八雲さんがどこか気まずそうな表情になっていた。隣の土竜さんはさっきから無言で、普段と変わらず荒んだ目つきの仏頂面だ。

「哀れな雌猫みたいな声だったでしょう」

 自嘲の言葉は妙に乾いた声となって出てきた。しばらく沈黙が続いた後で口を開いたのは、やはりよだかさんだった。

「愛織」

「なんですか」

「お前、どこへ行くつもりだ?」


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