55 別離の決意
不意にインターホンらしき音が聞こえて肩が跳ね上がった。ぼくが返事をするよりも先に扉の開く音がしたか思うと数人分の足音が近づく。男が三人、女が一人の四人組が部屋に入ってきた。全員《猫の事務所》の人間だろう。ぼくが割ったマグカップの破片を片付ける者、ホットミルクで白くなった床を拭く者、朝食の食器を洗う者、ぼくが脱いだネグリジェの入った籠を持っていく者と別れる。食器を洗うことくらい自分でやろうと思っていたのだが、どうやらぼくは相当甘やかされることになっているらしい。
「怪我はない?」
フランクな口調で話しかけてきたのは、床を雑巾で拭いている男だ。四人の中で最年少らしい容姿を見る限り、まだ十代の可能性もある。毛先が青色に染められたアッシュブロンド、薄い水色のレンズが特徴的な眼鏡をかけ、街中で歩いていれば自然と注目されそうな黒地に蛍光色の目立つサイバーファッション。
「え、ええ」
「それならよかった。いきなりマグカップ割るんだから……あ、申し遅れたね。僕は《猫の事務所》でコラットに属してる。十九歳だから一番きみと年齢が近い。本名を教えるのは愛識さんに禁止されてるから、そのままコラットって呼んでよ、愛識さんの妹君」
「はい」
「ちなみに食器洗ってるのがシャム」
背中を指差された男は二十代半ばくらいだろうか。ファッションモデルや俳優など、とにかく異性から黄色い声を浴びることの多い仕事をやっていそうな華やかな容姿だった。亜麻色の髪を整えていて、よだかさんもたまに着ていたサロン系のお洒落な服装がよく似合っている。
「マグカップを片付けてるのはメインクーン」
破片を新聞紙に包み、さらにガムテープを巻きつけているのは二十代後半から三十代前半に見える。百九十センチ以上ある筋肉質な体躯に白いスーツを着て、坊主頭で顔の右側全体にひどい火傷痕。やくざでなければ軍人か用心棒という印象があった。
「さっき洗濯物持っていったのはオシキャットだよ。ちなみにウェジーは欠席」
確か唯一の女性は最年長らしい四十代くらいだった。簡単な一つ結びにした黒髪、若干色褪せた黄色いエプロン姿。顔立ちも雰囲気も、いかにも平凡な主婦のようだった。
「あなた達が、兄さんの選んだ《猫の事務所》……」
「そう。今は妹君のお世話係って言った方が正しいけどね」
やがてそれぞれの仕事を終え、再び集まった四人全員がぼくの前に整列する。最初に口を開いたのはオシキャットだった。
「今日のお昼と夜は何が食べたいですか?」
「魚介類のない魚料理ならなんでも」
「わかりました。腕によりをかけて作ります」
楽しそうに言うオシキャットの彼女は、この中でも一般人にしか見えない。しかし四人とも《猫の事務所》としてぼくの知り合いを傷つけた。その事実は変わらない。そして、この人達がぼくのことを大嫌いだということも。きっと彼らは兄さんを崇拝し、盲信しているのだろう。昔から兄さんの周囲には、ただ好意を寄せたり羨望の眼差しを向けたりする人だけじゃなく、まるで神様でも見るみたいな目で慕ってくる人もいた。恐らくそんな人達が集まっているのだろう《猫の事務所》からすれば、ぼくのことを嫌いになるのも無理はない。
兄さんが愛しているのは世界中でぼく一人だけなのだから。
翌日、ぼくが黄昏の空を眺めていた頃に兄さんが帰ってきた。
「ただいま」
「兄さん。おかえ」
りなさい、と言い終わるよりも先に三つ編みを掴んで引き倒された。がつっ、と床に後頭部を打ちつける。痛い。呻いたと同時に鳩尾をつま先で蹴られ、息が止まるかと思った。兄さんの攻撃だけはたとえ見えても、読めても、避けることができない。そもそも避けたところでもっとひどくされるだけだ。身体が自然と受け入れてしまう。
「《猫の事務所》から聞いたよ。マグカップを落として、割ってしまったんだって。わざとだったそうだな。床に叩きつけるように落としたと言っていたが本当か?」
頷いた直後、頭をサッカーボールのように蹴られた。そのまま首から離れて転がっていくのかとほんの一瞬思ってしまう。
「愛織が好きな色と形で選んだものだったのに、何が不満だったんだ」
「な、にも……」
「じゃあ、何を考えていた?」
「え」
「何を考えて、マグカップを落としたのか訊いている」
自分の目が見開くのがわかった。
あのとき何を考えていたかなんて言えるわけがない。だって、あのときのぼくは確かにここから逃げ出すことを考えていたのだから。それにマグカップを落とした後に思ったのは、よだかさんのことだった。正直に言えるわけがない。だからと言って、適当な嘘をつけば兄さんはすぐに見抜くだろう。どうする。どうすればいい。ぼくが黙っていると兄さんも黙ったまま拳を振り下ろした。
結局お互い無言のまま三十分くらい経って、終わった。
「ごめんな愛織。痛かっただろ」
嵐のように身体中を痛みが襲っている。兄さんはもう暴行の手を止めたが、それでも色んなところが痛い。鼻だけじゃなく、唇の右端からも血が流れている。何も返せないでいると兄さんが血を優しく拭って、ぼくの身体を抱き起した。殴られたり蹴られたりしたところにキスが降ってくる。
「口の中、切れてないか?」
「うん……」
ぼくが小さく頷くと兄さんは微笑んだ。そして置きっぱなしだった荷物に向かう。鞄を開けて何か探しているような物音は聞こえるが、背をこちらに向けているため何をしているのかわからない。やがて振り返った兄さんの右手にはオートマチック拳銃が握られていた。引き金に指がかかって、銃口がこちらに向けられる。
「舐めろ」
「…………」
「安心しろ。弾は入ってないんだから」
これは今まで経験したことのない仕置きだ。それでも逆らうことはできるわけがない。ぼくは床に座り込んだ状態から四つん這いで兄さんに近づいた。そっと舌を出して冷たい銃身に這わしてみても味なんかわからない。弾が入っていないとは言え、銃口の中に唾液が流れ込んでは危ないだろうと、気をつけて慎重に舐める。すると突然銃身が口腔に叩き込まれた。喉を蹂躙するかのように動かされ、一気に激しい嘔吐感が込み上げる。
「んんっ! ふう、ぐっ、ぉ、え……っ!」
逃れようとしても無理だった。いつの間にか兄さんの左手がぼくの髪を掴んで動けない。飲み込めない唾液が口から溢れていく。もう少しで吐く、と思ったそのとき銃身が口腔から引き抜かれた。ぼくの唾液が糸を引いて気持ち悪い。目に浮かんだ涙を袖で拭っていると、不意に火薬の爆ぜる轟音が耳を貫いた。
「は……?」
ぼくの右手から二十センチほど離れた床に穴が空いていた。弾痕だ。顔をもう一度前に向けると兄さんが持つ拳銃、その唾液に塗れた銃口から硝煙が立ち上っている。
「弾、入ってないって言った……」
自分の声がひどく震えていることがわかった。兄さんは取り出したハンカチで銃身を拭いながら言う。
「ああ。今の弾で最後だったんだ」
「兄さん」
「ほら、もう一回」
まだ硝煙を上げている銃口が再度ぼくに向けられた。床に突いた両手が震える。舌はぼくの閉じた口に入ったまま出てこない。すると兄さんは静かに拳銃を床に置いた。
「冗談だよ。今舐めたら火傷してしまうからな」
そして今度は荷物の中から桃色の四角い箱を取り出した。チェリーボンボン、と英語で書いてある。兄さんは開封したその箱をぼくに持たせた。
「食べてみろ。会社で部下から貰ったんだ」
一つ口に運ぶと、甘めの酒に漬けられたさくらんぼとチョコレートの味が広がった。アルコールで頭が少しだけくらりとして、痛みが和らいだような気がする。
「美味しい」
どろりと溶けるチョコレートに舌を絡めていると、兄さんがぼくを膝の上に乗せて抱きしめた。今日はもう殴らないのだろうか。兄さんがぼくに手を上げるタイミングは本当にわからない。夕食中にフォークで手の甲を突き刺されたり、入浴中に頭を湯船に押さえ込まれたり、眠っている最中に首を絞められたりもするだろう。それでも、その後に猫可愛がりしてくれる時間は好きだから耐えられる。
「ねえ。兄さん」
「どうした?」
「好きだよ」
兄さんは苦しいくらいにぼくを抱擁した。
「俺も愛織のこと、好き」
耳元で囁かれると背筋に微弱な電流が流れる心地がした。それから、ぼくの胸の中にある器に液体がぽたぽたと落ちて、満たされていく――そんな感覚も。
兄さんから注がれた愛でいっぱいの器は今、一体どれくらいあるのだろうか。
「そろそろお腹空いたね。今日は兄さん疲れてるだろうし、ぼくが料理作るよ」
まだ痛む身体をさすりつつぼくが立ち上がると、兄さんは微笑を浮かべて頷いた。
「じゃあ、お願いしようか」
「何かリクエストある?」
「肉の香草焼きがいい。向こうでは和食ばかりだったからな」
「わかった」
大きな冷蔵庫と冷凍庫の中には大量の食材が収められている。マグネットで貼りつけられた、どの場所にどんな食材が入っているのか記した紙を眺めた。何の肉がいいかは言われなかったが、せっかくあるのだからラム肉を使うことにする。ローズマリー、ガーリック、岩塩、胡椒、オリーブオイルといった香草焼きに必要な材料は全てそろっていた。付け合わせはポテトサラダでいいだろう。
ぼくが調理している最中、兄さんはずっとこちらに視線を向けていた。出来上がった料理を盛りつけようとしたとき、いつの間にか食器が用意されている。ぼくは礼を言って、冷蔵庫の横にあるワインセラーから赤ワインを兄さんのために出した。思えば、ぼくが作った料理を兄さんが食べるなんてひどく久しぶりだ。
「美味しいよ、愛織」
「そう。よかった」
ラム肉を使った香草焼き、実は初めてだった。今までは鶏肉しか使ったことがなかったが、作り方は同じようにして問題なかったらしい。きっと肉やその他の材料も全て高級なものだったのだろう。
「お前も飲んでみるか?」
不意にそう言って、兄さんは赤ワインのグラスをぼくに向ける。
「ぼくはまだ二十歳未満だよ」
「だからどうした。ここでそんな法律を気にする必要はない」
「ん……でも、ぼくはいい。二十歳になってから飲んでみる」
「そのときはどんな酒を用意してやろうか」
「兄さんに任せるよ」
食事が終わり、ぼくが洗い物を済ませている間に兄さんはハーブティーを淹れてくれた。カモミール、フェンネル、レモンバーベナをブレンドしたらしい。
それにしてもハーブティーを飲む兄さんの姿は思わず凝視してしまうくらい、恰好いい。綺麗だ。ぼくはもちろん哀逆家は父さんも母さんも決して容貌がいいとは言えない。まだ健在な祖父母の若かりし頃を撮った写真も見たが、全員平凡だった。一体どんな奇跡が起きればこれほど容姿や才能に優れた人間として生まれるのだろう。
そんなことを考えていると、すぐにハーブティーを飲み終えてしまった。それに気づいた兄さんが「もう一杯飲むか?」とキャンドルウォーマーからティーポットを持ち上げる。ぼくは頷いてティーカップを差し出し、注がれていく檸檬色に近いハーブティーを眺めながら口を開いた。
「ねえ兄さん。お願いが、あるんだけど」
「なんだ」
「――――東京に戻りたい」
ぼくの言葉に兄さんは大きく目を見開いた。驚いている。そこまで予想外なことだったのだろうか。兄さんが何か訊ねてくるよりも先にぼくは続けた。
「あ、実家に帰って母さんや父さんに会いたいって言うわけじゃないよ。こんなにいいマンションの最上階を取ってくれた兄さんには悪いけど、思い出したくもないことが多くて、ぼくはもう広島から出たい。東京だったら毎日兄さんと会えるしね。それに、兄さんも東京から広島まで行き来するのは大変だと思うから……」
無言のままティーカップのハーブティーを飲み干し、兄さんは携帯端末を取り出した。誰かに電話をかけている。ぼくは二杯目のハーブティーに口をつけ、聞き耳を立てる。
「愛織からの願いだ。俺達は東京に移動する。東京都内にあるタワーマンションを調べてここと同様に最上階の部屋を取れ。明日の深夜に発つ東京行き夜行列車のチケットもだ。この階は全て元の状態に戻す」
兄さんが一方的に喋るだけで通話は終了した。きっと相手は《猫の事務所》の人間だったのだろう。携帯端末を収め、兄さんはぼくに向かって優しく微笑んだ。
「明後日の朝には列車で東京に着く。愛織は何もしなくていいから、安心しろ」
「うん。ありがとう、兄さん」
これで、いい。
ぼくは明日の深夜に夜行列車で東京に戻る。《クルーエル》や杏落高校でのことは兄さんが手筈を上手く整えてくれるに違いない。杏落市がある広島じゃなく、生まれ育った東京に戻ればきっとぼくの心はもう惑わされないだろう。これでぼくは兄さんと幸せになれる。
さよなら、杏落市。
もう二度と行くつもりはありません。




