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54 幸せな新生活

 あのICレコーダーから聞こえてきた音声は、間違いなくぼくの声だ。

 ぼくがまだ小学生のときから兄さんは「男が寄ってこないように」とぼくの身体に傷をつけるようになった。当時のぼくに黙って録音していたのかもしれない。

 ひやりとした刃物を当てられて肉、神経、血管を裂かれる。腕を、脚を、腹を、背中を、額を。刃物の冷たさが一瞬で熱にも似た痛みに変わり、ぼくはひたすら泣き喚いた。その後はすぐに兄さんの知り合いらしい医者から縫合治療を受けた。以前八雲さんがぼくの縫合痕を見て「そんな目立つところに痕が残るマットレス縫合をするなんて、どこの藪医者なんだか」と言っていたから、ぼくが受けた治療はマットレス縫合というものなのだろう。麻酔は兄さんが許可しなかったため、ぼくは一度で二度痛みを味わうこととなった。痛みに慣れるためだとあの頃の兄さんは言っていたが、今でも痛いものは痛い。

 それでも、散々痛みを感じた後の時間はぼくにとって嫌いではなかった。兄さんがいつもより優しくなるからだ。今のように。

「こうやって愛織の髪を洗うのも久々だな」

「ん……そうだね」

 ぼくの長くて波打つ癖のある髪を、後ろに座った兄さんが洗ってくれている。頭皮を指先で優しくマッサージされる感覚は気持ちがいい。トリートメントを流した後、兄さんはタオルで丁寧にぼくの髪をまとめた。洗髪の前には背中まで洗ってくれたのだから、見事に至れり尽くせりだ。

 大きなバスタブはぼくと兄さんが同時に入っても窮屈ではない。硬く引き締まった腹筋の感触がぼくの背中にある。ちょうどいい湯加減にほうと息を吐いて、深呼吸をするとフローラルな甘い香りが鼻孔を擽った。

「ねえ兄さん。聞かないでおこうかと思ってたんだけど、やっぱり聞きたい」

「何がだ」

「この薔薇風呂はどうしたの」

 ぱしゃ、と右手を湯の中から上げると薔薇の花弁が掌に乗っていた。半透明な白い湯船に浮いているのは花弁だけじゃない。つい今朝摘み取ってきたばかりのような、立派な形を保った花もある。全て綺麗な赤色だ。

「気に入らなかったか?」

「いや、気に入らないってわけじゃないよ。薔薇の香りは強過ぎなくて見た目も綺麗だ。でも薔薇風呂に入れる日がくるとは思わなかったから」

「仕事先で貰ったんだ。ただ一人で使う気にはなれなくて、ちょうどいいと思ったんだよ。もう一回分残ってるんだが、愛織が気に入ったら同じものを買ってみるか」

「う、ん……」

「どうした」

「嫌じゃないんだけど……ぼくには似合わないと思って、薔薇」

「ふうん?」

「兄さんにはとても似合うよ。綺麗な顔で、品もあって、色気もあるから。でも、ぼくにこんな綺麗な花は似合わない」

 おもむろに兄さんは左腕を湯船の中から出した。赤い花弁が何枚もついて、掌には薔薇の花を握っている。そのまま左手でぼくの左耳辺りに触れ、ぼくの顔を横向きにさせた。えっ、と声を出す間もなくキスされていた。頭の奥からじんわりと幸福感が広がっていく。目の奥が熱くなって、視界がぼやけた。そのうち兄さんの左手は耳から首へ、首から肩へと移動した。耳の辺りに先ほどの薔薇の花が乗っているような感覚がある。

「見た目も品も色気も関係ない。今ここには俺とお前しかいないんだ。兄さんの言うことを信じればいい。薔薇に囲まれた愛織はとても綺麗だ」

 淑やかな貴婦人が見れば卒倒してしまいかねない。そんな微笑を浮かべ、兄さんは囁くように言った。耳から入ってきたその言葉が、胸の中にある器に注がれる。昔からそうだった。兄さんがぼくに愛の言葉を囁くたびに、それが液体みたいなものになってぼくの胸に溜まっていく感じがする。

「ありがとう」

 ぼくからも兄さんにキスをした。兄さんはぼくと唇を重ねながら、ぼくの身体にある縫合痕を指先でなぞるように撫でてくる。温かい湯と薔薇の香りに兄さんの存在。たったこれだけでとてつもない幸福を感じられる。瞼を下ろすと涙がぽたっと湯船に零れ落ちた。

「少し気になってたんだけど」

「愛織。もう少し大きな声で喋ってくれ」

「あ、うん」

 温風の音に負けないよう、ぼくは声を張った。入浴を終えたぼく達はすぐに着替え――兄さんは黒いスウェットなのにぼくは薄桃色のネグリジェだった――髪を乾かしている。背後にいる兄さんはドライヤーとブラシタイプの櫛を使い、ぼくの髪を整えてくれていた。

「百太郎くんも楪くんもいなくなる前に、ぼくは悪くないって言ってた。もしかして《猫の事務所》に何か喋らせたの?」

「ああ。クラスメイトや柩木組の人間に《これは哀逆愛織が原因だ》って言うように指示を出していた。しかし、意外だな。誰もお前のことを憎まなかったなんて」

「………………」

「……おい」

「っ!」

 突然ドライヤーの温風が止んだかと思うと髪を強く引っ張られ、痛みが走った。

「何故今さらそんなことを訊くんだ」

「ご、ごめん。ごめんなさい」

「もう一年四組のクラスメイトはいないし、柩木組もお前との関係を絶つ。何よりお前はここでずっと暮らすんだから関係ないだろ。訊いても無意味だ」

「うん。わかってるよ、兄さん。もう訊かない」

 兄さんはぼくの頭を優しく撫で、また髪を乾かし始める。ぼくは話題を変えた。

「兄さんはこれから仕事どうするの? 勤め先は東京の本社なんだよね」

 ここは広島県内にある新築の五十階建てタワーマンション、その最上階だと教えられた。そして兄さんはこのワンフロアを全て占領している。《アンゲルス》の社長秘書で私設部隊まで動かす二十五歳が一体どれだけの貯金を持っているのか、ぼくには見当もつかない。

「明日は東京に戻る」

 ドライヤーを片付けながら兄さんは淡々と答えた。

「この階には《猫の事務所》の人間を住まわせている。食事の準備や洗濯、部屋の掃除とかはそいつらがやってくれるから安心しろよ。それに俺も有給を使うことにしたから、明後日の昼にはまたここに来る」

「そう……」

「寂しいか?」

「うん」

「可愛い」

 ぼくが反射的に頷くと、兄さんは嬉しそうに言って背後から強く抱きしめた。ぼくが身を捩ると腕の力が緩み、その隙に正面から向き合った。兄さんの首に腕を回し、思い切り密着してやる。すると兄さんもくすくす笑ってぼくの腰に腕を回した。兄さんと石鹸の優しい香りに深呼吸する。

 ああ、幸せだ。

 きっとこの瞬間ぼくは誰よりも恵まれている。



 自然と目を覚ましたとき、サイドテーブルに置かれた時計は七時を示していた。一緒に眠っていた兄さんの姿はもうない。シーツに手を這わすが温かみも失われている。兄さんが使っていた枕の上に書き置きがあった。

「行ってきます。朝食は用意している。昼食は正午に、夕食は六時に《猫の事務所》が来て作ってくれるからリクエストがあれば彼らに言ってくれ」

 きっと兄さんは明け方に起床して東京行きの新幹線に乗ったのだろう。起こしてくれてもよかったのに、夜のうちにそう伝えておくのを忘れていた。

 ぼくは布団から出ようとして、毎朝踏むべきカラーテープの足形と避けるべき紐がこの部屋にないことに気づいた。

「後で新しい足形をつけて、紐も垂らしておくか」

 兄さんのことだからカラーテープも紐もどこかに置いてくれているはずだ。今朝はしなくてもいいかと思いながらも、やっぱりこの訓練をしなければ起きた心地がしないような気もする。結局ぼくは《クルーエル》での床に貼った足形と天井から垂れ下がった紐を思い出しつつ、身体を動かした。クローゼットを開き、散々迷って黒と白のチェック柄ワンピースに着替えて洗面所に向かい、髪型を整える。

 兄さんが用意した朝食は、サラダを添えたオムレツとベーグルだった。テーブルには蜂蜜、クリームチーズ、苺ジャム、マーマレードも置かれている。冷蔵庫を開けてみると牛乳、カフェ・オ・レ、果汁百パーセントのオレンジジュースといった市販の飲み物以外にも、兄さんが作り置きしたのだろうルイボスティーなどがあった。牛乳を冷蔵庫から取り出し、探し出したミルクパンで温め、蜂蜜入りホットミルクを作って食事にする。

「いただきます」

 相変わらず一人きりの朝食なのには変わりないが、食べるのは自分が買ったものや作ったものではない。兄さんが用意してくれたものだ。そう思うと、いつもより美味しい。ホットミルクを飲みながら部屋を見て回る。テレビも電話もパソコンも、外界に繋がるための機械はない。いくつもある全方位式監視カメラ。廊下に出るための扉はもちろん、外に通じる窓はどこも開かない。きっと窓ガラスは元々頑丈だろうし、この高さから身を投げれば即死すること間違いなしだ。

 ドッグ倶楽部が地下にあることを知ったときは地上よりも狗の脱走が困難なうえ、見つかりにくいだろうと思った。しかし今はその考えを改める。地上でも、五十階もの高さからは誰も逃げられないはずだ。

「よだかさんでもなければ、こんなところから逃げ出せないよね」

 そう口に出した後で、はっとした。

 何故ぼくは逃げ出すことを考えている。

 これから先ずっと兄さんと愛し合って、好きじゃない学校に通うことなく、食事も服も娯楽も自由に与えられて、ぬくぬくと生きていける。さらにぼくのせいで傷つく人はいなくなるというのに、一体何が不満なんだ。これ以上何を望む。ぼくは自分で思っていた以上に贅沢で欲深な人間だと言うのか。

「う、う、ううう、あ、ぅ……!」

 マグカップを持つ右手に力が入ってぶるぶる震えた。まだ半分近くホットミルクが残っているそれをテーブルに置こうとしたはずが、ぼくの手は床に叩きつけていた。がちゃん、と音が響く。破片と白いホットミルクが飛び散った。何がしたいんだ、ぼくは。

「ぼくは兄さんが好きだ。愛してる。誰よりも兄さんを愛してる。兄さんもぼくが好きで、愛してくれてるんだ。だから何もおかしなことなんて、ない」

 昨夜兄さんが作ってくれた料理を食べたとき、一緒に入浴したとき、髪を乾かしてもらったとき、同じベッドで寝たとき、ぼくは嬉しかった。幸せだった。安心した。嘘じゃない。ぼくは兄さんを家族としても男としても愛しているんだと再認識した。それなのに。

「よだ、か、さん……」

 あの美しい殺人鬼のシニカルな笑みが、頭から離れない。


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