53 兄と妹
小学五年生の夏休み、国語の課題で初めて小説を書くというものが出た。ぼくが書いた小説は《猫の王国にて》。登場人物は擬人化した猫で、舞台もそんな猫達が暮らしている猫の王国。その猫の王国を守護する秘密組織の名前が《猫の事務所》だった。ちょうどその頃に宮沢賢治の童話を読んでいて、ただ名前が気に入ったからという安直な理由で拝借したはずだ。物語の内容は曖昧だが《猫の事務所》に所属する登場人物は覚えている。
指揮官のシャム。
密偵のオシキャット。
兵士のメインクーン。
博士のコラット。
御者のウェジー。
「俺の指示を全体に回すシャム。誰とでも打ち解けるヒューミントのオシキャット。武闘派で荒事専門のメインクーン。優れた情報技術を持つハッカーのコラット。どんな乗り物も操縦できる運び屋ウェジー。愛織が書いた小説に出てくる《猫の事務所》をヒントに創った私設部隊。それが俺の《猫の事務所》だ」
「私設部隊……?」
「そう。お前が十歳のときだったから五年前か。俺が二十歳のとき、独自で人選して組織を創ったんだ。社内で存在を知っているのは俺と社長だけ。仕事は諜報活動が多いが、会社に潜入した工作員や裏切り者の排除も積極的に行ってる」
「な、なんでそんなことを」
まるで外国を舞台にしたハードボイルド映画だ。
「うちの会社、裏の業界では《天使》って通称で有名なんだが……さすがにまだお前は知らないか。でも、杏落市みたいな犯罪都市に住んでいたら自然とわかるだろ。日本が整然と法の管轄下で成り立っているなんてことは幻想だって」
否定できない。
夏休みに潜入したドッグ倶楽部のことを思い出す。あんなものが日本の上流階級に存在すると知ったとき、犯罪都市での生活に慣れてきたぼくも少なからずショックだった。
「日本に存在する総合商社の中でも指折りの有名な大企業《アンゲルス》。実際は社長の天羽十字郎が財政界に太いパイプを持っていて、裏では非合法的なことも仕事にしてるんだよ。だからこそ俺は就職して《猫の事務所》を創ったんだ。――もう質問は終わりか?」
「…………白鳴オツベルって名前の殺し屋は」
「俺が依頼した」
また兄さんはぼくが言い終わる前に答えた。棒読みではないのだが、その声からはほとんど感情が読み取れない。顔も無表情に近い。
「直接依頼したのはシャムの人間だったけどな」
「どうして……?」
「腕利きの殺し屋だと聞いていたから、お前を殺す依頼をしたらどうなるか試してみたかっただけだ。幼少期から俺が鍛えた愛織ならプロの殺し屋が来ても生き延びるか、さすがに敵わないか、それが気になった。獅子の子落としみたいなものだな。今生きてるってことはどうにかして勝ったんだろ」
兄さんは優しく微笑んだ。ぼくの好きな兄さんの表情。よだかさんのように暴力的ではなく、優しく包み込まれるような美しさ。そんな微笑に見惚れていると、ぼくが掴んでいない方の手で頭を撫でられる。
「さすがは俺の愛織。立派に成長してくれて、兄さんは嬉しいよ」
そんなことのためにぼくを殺そうとしたのか。
八ヶ月ほど会っていなかったが、兄さんは当然のようにちっとも変わっていない。
「ぼくを殺すよう殺し屋に依頼したことに関しては何も言わないよ。兄さんはぼくを鍛えるためにそうしたんだってわかったから」
「ああ」
「でも、ぼくの身近にいた人達を《猫の事務所》に襲わせたのはどうしてなの?」
「本気でわからないのか」
兄さんが不意に表情を曇らせ、ぼくの背筋がぞくりと冷えた。頭を撫でていた兄さんの手が、ぼくをベッドの上に押し倒す。先ほどから激しく脈打っている心臓が今にも止まりそうだ。
「にい、さん……」
「愛織。お前は他人と仲良くなり過ぎた」
ぼくを見下ろす兄さんの目が、怖い。
「幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、東京にいるときは碌に友達を作ろうとしなかっただろう。クラスメイトと遊びに行くこともせず、他人と積極的に関わらずにいた。俺の言いつけをよく守って、俺との時間を最優先していた。それなのに杏落市では随分と親しい人間ができたんだな。経験がなくても生来の社交性はあったってことか……残念だ。やっぱり高校は地元の家から近い学校に通わせるべきだった」
はあ、と溜め息をつく兄さん。その一挙一動に目が行ってしまう。
「教えてやる。俺が《猫の事務所》に指示したのは、いらないと思ったからだよ。愛織と親しい人間はいらない。必要ない。邪魔なんだ。いっそ愛織が孤独になればいい。これまでに何度も本気でそう思った。東京にいるときはまだ俺の目が届くからよかったんだ。せっかく両親からお前への関心を薄くさせて、悪い虫がつかないように縫合痕もつけたのに」
なんだ。
皆が言っていたことは本当だったんじゃないか。
犯人ではないにしろ、結局あの人達が殺されたり襲われたりしたのは全部ぼくが原因だった。ぼくのせい。全部ぼくのせいだ。ぼくが仲良くしていたからたくさんの人が死んで、傷ついて、杏落市からいなくなった。ぼくが悪かったんだ。
突然兄さんの身体がぼくの上に倒れてきた。兄さんの手がぼくの顔の左右につき、全体重を預けられることはなかった。吐息が左耳に当たる。
「だ、ったら……」
「なんだ」
「百太郎くんは殺したのに、琴太郎先輩を殺さなかったのはどうして?」
「昔ヶ原兄弟か。彼らは特に愛織と親しそうだったからな。両方殺すよりも片割れを生かしてやった方がいいと思ったんだ。葬儀にオシキャットの一人を紛れ込ませてみたら、生き残った片割れは今にも自殺しそうなひどい顔をしていた、という報告がきたぞ。あんな生活をしている息子なんて勘当してもおかしくないだろうに、両親も悲しんでたんだ。昔ヶ原百太郎は兄だけでなく両親からも十分に愛されてたらしい。お前とは違って」
「………………」
琴太郎先輩。彼は、ぼくを百太郎くんが死んだ原因として恨んでいるのだろうか。
「なあ愛織。次の予定を教えてやろうか」
「え」
「薬師寺八雲。災藤福幸。四ツ墓むくろ」
「……っ!」
三人の顔が脳裏に浮かんだ。八雲さん。五月に通り魔に襲われたことがきっかけで出会った。闇医者。親切な人。福幸先輩。五月に昔ヶ原兄弟から話を聞いて、笛吹鬼との校争でぼくが勝った直後に出会った。不良。強い人。むくろちゃん。七月にお互い人から逃げている最中に出会った。ローカルアイドル。可愛い人。
八雲さん。
福幸先輩。
むくろちゃん。
三人が殺される、傷つく、杏落市からいなくなる。
「――――やめて」
ぼくの言葉に兄さんが上体を起こした。
「どうした? 愛織。そんな必死そうな声を出して」
「お願い、兄さん。やめて。やめてください」
「何をやめてほしいんだ」
「八雲さんと福幸先輩とむくろちゃんに手を出すこと。これ以上殺さないで。傷つけないで。お願いします。もう、やめ」
ひぐっ、と喉が鳴る。
一瞬のうちに兄さんの指がぼくの首に食い込んでいた。凄まじいまでの暴力。体重による負荷ではなく、純粋な握力だった。
「か、は……っ、あ……っ!」
気道が詰まる。悲鳴らしい悲鳴も上げられない。冗談抜きで喉を丸ごと握り潰されるのではないか。抵抗したいのに指一本も動かせられない。怖い。怖い。怖い怖い怖い。魂そのものを掌握される恐怖で全身が戦慄しているのがわかる。ハーブティーをかけられたときも、髪を掴まれて引きずられたときも、これほどの恐怖は感じなかった。できることなら意識を失ってしまいたい。しかし意識が遠のく気配は感じられなかった。血管を避けているからだ。兄さんはぼくを苦しめるため、気道だけを正確に絞め上げている。
「そんなことを言うようになったから、駄目なんだ」
突然兄さんの手が離れた。押さえつけられていた気道に酸素が一気に流れ込み、肺が痛む。何度か咳き込んでいると、兄さんの手がぼくを抱き起こしてくれた。薄らと浮かんでいた涙を指先でそっと拭われる。
「今までの愛織だったら、クラスメイトだろうが知り合いだろうが殺されたところで何とも思わなかったはずだ。兄さんさえいればいいって言ってくれたじゃないか」
それは事実だ。父さんや母さんがぼくに兄さんほどの愛情をくれなくてもいい。友達ができなくてもいい。どんな人から嫌われてもいい。ぼくには兄さんさえいればいいのだから。幼い頃から本気でそう思っていた。
「でも安心しろ愛織」
「な……に、が」
「予定って言っただろ。あくまで予定だ」
兄さんの右手がぼくの胸を押さえるように触れてきた。たったそれだけの行動で、心臓を鷲掴みにされたかのような気分になる。このまま力を込められたら、ぼくの心臓は簡単に止まってしまうのではないか。
「前みたいにお前の全てを俺に寄越せ」
「あ……」
物心ついたときから見てきた、兄さんの目。この目だ。これが本当の兄さん。父さんも母さんも、きっと誰も知らない。ぼくだけが知っている。
ぼくは生まれる前から誰の手の内にある存在なのか。それを痛いほど思い知らされる。
「身体も、心も、全部。今までそうやって俺達は生きてきたんだから、簡単だろう? 愛織がこの先ずっとここにいるなら、俺と生き続けるなら、俺はもう誰も殺さない。お前と関わった人間に手を出すのはやめる」
「わかった」
自分でも驚くほどに即答していた。兄さんは一瞬驚いた顔になり、それから笑顔でぼくを正面から抱きしめた。慈しむように。愛でるように。
「全部元通りにすればいいんだよね」
「ありがとう。やっぱりお前はいい子だ。大好き。愛してるよ、愛織」
「うん」
頷いてぼくも兄さんの背中に両腕を回した。するとさっきよりもきつく抱きしめられる。ちょっと痛いくらいの抱擁がひどく懐かしい。心地よくて嬉しい。
「ぼくも兄さんのこと、愛してる」
もういいんだ。
考えるのも、生きているのも、何もかもが面倒なんだから。
ぼくの全てを兄さんに委ねてしまった方が楽だろう。大丈夫。また一人暮らしを始める前に戻るだけだ。ただ、これまでより行動範囲を束縛されることにはなる。それでも平気だ。ぼくには兄さんがいるのだから。
「お前に不自由はさせない。食事も、服も、娯楽も、何もかも好きなだけ用意しよう。勉強がしたいなら俺が教える。仕事がしたいなら俺と同じ職場で働かせてやるから」
「ん……ありがとう兄さん」
「大好きな愛織のためなら、俺はなんだってする。だから愛織」
そう囁いて兄さんは優しくキスした。唇を重ねながらぼくの左頬に手を当てて、親指でぼくの顔を少しだけ上に向かせる。唇が離れたかと思うと、次は喉元に吸いついた。さっきまで兄さんの手が絞め上げていたところ。そこを何度か繰り返し吸われる。
「もう俺を裏切らないでくれよ」
「うん」
「俺が真っ当な人間でいるには愛織の存在が不可欠なんだ」
「うん」
「お前が俺より先に死ぬのは許さない」
「うん」
唇の感触が遠のき、兄さんの目がぼくを正面から見つめる。
「もしもここで自殺しようとするなら手足を切り落とす。舌を噛もうとするなら歯を全て抜く。食事を拒むなら管から流し込む。息を止めるなら生命維持装置に繋ぐ。絶対に殺させない。愛織、お前の余生は俺のために消費させるんだ」




