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52 愛しき兄

 哀逆愛識と聞いて思い浮かべるあれこれ。

 ぼくの十歳離れた兄。二十五歳。誕生日は十二月二十一日。血液型はRHマイナスのAB型。十歳になる前から神童で、二十歳を過ぎてもただの人にならなかった天才。教養や運動など様々な才能に溢れる。強烈なカリスマ性。冷静沈着を通り越した冷徹冷酷。人から愛されやすい。しかし彼自身は人嫌い。顔が多方面に広く、表沙汰にしていないその権力は計り知れない。高校在学中ハーバード大学へ論文を送った結果学位を取得。入学することなく大学卒業資格を得てしまったため、高校卒業後は就職。大企業の総合商社《アンゲルス》で社長秘書を務めている。ぼくを愛してくれる人。ぼくが愛している人。

「久しぶりだな。夏休み中も実家に帰ってこなかったから、こうして会うのはもう八ヶ月ぶりになるんじゃないのか」

「そうだね。でも、まさかこんな形で兄さんに会うとは思わなかった」

「驚かせて悪かったよ。サプライズのつもりだったんだが」

「完全にあれは誘拐だから」

 終業式の日に訪れた《ウンディーネ》の部屋とよく似ている。超、がついてもいい高級マンションのようだ。高い天井には水晶のシャンデリアがぶら下がっている。広い部屋の中に置かれた家具はぼくが座っているソファー、安楽椅子、ガラステーブル、振り子時計、大きな本棚くらい。数は少ないが、そのどれもが全て高級そうだ。キッチンや寝室に繋がる扉は開け放たれ、その向こう側もまた高級そうな部屋であることがわかる。大きな窓からは冬の知らない街並みを一望できた。

「兄さんのハーブティーもすごく久しぶりだ」

「愛織は特にこれが好きだっただろ」

「うん」

 兄さんがガラスのティーカップに注いだのは、綺麗な紅色のお茶。兄さんがブレンドしたハーブティーだ。実家にいた頃はよくこれを兄さんに淹れてもらっていた。ハイビスカス、ブラックベリーリーフ、リコリス、チコリー、その他はなんだっただろうか。甘い風味は桃や林檎が使われているはずだ。菊型のキャンドルウォーマーに乗ったガラスのティーポットからは、そんな香りの湯気が立ち上っている。

 ぼくはウインドブレーカーと帽子を脱いで右側に置き、ティーカップを口に運ぶ。

「美味しい……」

 口が、胃が、身体の内側がじんわりと温かくなる。

 たまに八雲さんが淹れてくれるものももちろん美味しかったが、やっぱりぼくにとってのハーブティーは兄さんが淹れてくれるこのハーブティーだ。食べ物にそこまで関心を持たない兄さんが、唯一好きなものがハーブを使った料理や飲み物だった。

「あと、これも昨日買ってきたんだ。食べろよ」

 向かいの安楽椅子に座った兄さんが微笑み、ガラステーブルの上に置いたのは銀色の缶三つ。からす麦の焼きたてクッキー、と書かれている。確か広島にあるバッケンモーツアルトの商品だ。アーモンド、チョコレート、ミックスと全種類の味がそろっている。

「愛織がどの味を好むか迷ったんだが、結局全部買ってしまった」

「ありがとう、兄さん」

 ぼくはアーモンド味の缶を開け、クッキーを一枚つまんだ。アーモンドのいい香りがする。一口齧ると、ざくっ、という軽い食感と甘さ控えめの素朴な味が広がった。それなのに何故か美味しいと感じられない。以前よだかさんが同じものを買ってきて、一緒に食べたときは美味しかったのに。なんだか砂でも齧っている心地だ。ハーブティーで流し込むように嚥下して、もう一口齧ろうとしたところで、クッキーを持つ右手が口から離れる。

「兄さん」

「どうした」

 駄目だ。

 もうしばらく続けていられるかと思ったが、これ以上は頭がおかしくなる。ぼくは食べかけのクッキーを缶に戻してしまった。兄さんはぼくと血が繋がっていると思えないほど、優雅な仕草でハーブティーを飲んでいる。

「なんでぼくのクラスメイトを皆殺しにしたの」

 兄さんは答えない。

「なんで柩木組を襲撃したの」

 兄さんはまだ答えない。

「なんで土竜さんの右脚を切断して、彼以外の《クルーエル》六階の住人を殺したの」

 兄さんが答えないから、ぼくは質問ではなく確認をする。

「《猫の事務所》のメインクーンだよね」

「あの紙を見てくれたのか」

 空になったティーカップを一度ソーサーに戻し、兄さんは二杯目のハーブティーを注いだ。キャンドルウォーマーにはまだ火がついていて、一杯目を注いだときと同じくらいの湯気が熱そうに立ち上る。そしてまたそのティーカップを右手に持ち、兄さんはガラステーブルを迂回してぼくの左隣に移動してきた。しかし腰を下ろすことなく、ティーカップの中身をぼくに向かってぶちまけた。

「あ! づ、うぅ……っ!」

 ばしゃっ、という音と熱さを感じたのはほぼ同時。あまりの熱さで涙が浮かび、一瞬にして視界がぼやける。ぼくは赤く色づいた体操服を両手で握りしめ、額が膝につくほど前屈みになった。ハーブティーの熱さはもう感じないが、ひりひりとした疼痛がある。

「服は脱がなくていい。早く冷やすぞ」

 そう言って兄さんはぼくの髪を掴んだ。正確には左側の三つ編みだ。ぎちっ、と軋むような感覚の後で頭皮ごと剥がされてしまいそうな痛みが走る。ソファーから落とされたぼくはそのまま引きずられた。抵抗などできない。左手で髪が引っ張られている部分を押さえ、右手で体操服を掴んだ状態で痛みに耐える。

 連れて行かれた先は浴室だった。《クルーエル》の部屋にあるものの二倍に近い広さ。泡の出る機能がついた大きなバスタブ。無駄に金がかかっていそうな照明。やたら高いところにかけられたシャワーヘッド。全く黴の生えていない眩しいほど白い壁。よく磨かれて少しも曇っていない鏡。シャンプーやトリートメントのボトルすら高級感がある。大理石の床に仰向けで倒されたぼくは、兄さんがシャワーヘッドを手に取るのを見た。ノズルが回され、強過ぎない程度の冷水がぼくの胸に当てられる。火傷の痛みは徐々に引いていったが、三つ編みを引っ張られた頭皮の痛みはまだ残っている。

「……ああ」

 兄さんは何か思い出したように言った。

「火傷には慣れさせていなかったんだよな、愛織。せっかくだから今度は熱湯を浴びて、熱さへの耐性をつけるか? それとも直に火炙りでもした方がいいか」

 端正な顔はもう笑っていなかった。ぼくがじっと見つめ返していると、兄さんは表情を変えることなく「冗談だよ」と優しく言った。

「もうそんな必要もないだろうからな」

「…………」

 冷水をかけ始めてから五分ほど経ち、身体が冷えてきてぼくの身体は震え始める。それに気づいたのか、もう十分だと判断したのか、兄さんはシャワーを止めた。

「体操服の上だけ脱いで、少し待ってろ」

 そう言って兄さんは浴室から出ていった。ぼくが言われた通りにしていると、兄さんは裁ち鋏を手に戻ってきた。裾から鋏を入れられ、ある程度切れたところから手で引き裂くようにして上のインナーウェアを脱がされる。皮膚が赤くなっていただけで、水膨れにはなっていない。このまま放っておいても自然治癒できるだろう。

「兄さん」

「話は後で聞く。早く着替えた方がいい」

 兄さんの持つ裁ち鋏はスポーツブラまで切ってしまった。もうそろそろ買い替えようと思っていたものだったから惜しくはない。ぼくは渡されたタオルで水気を拭い、脱衣所に出る。そこで用意されていた新しい下着に着替えると、兄さんが脱衣所の外に呼ぶ。スポーツブラとショーツだけで出るのはさすがに気が引けたため、バスタオルを下着の上から巻きつけて出た。寝室らしい、ダブルサイズのベッドだけが置かれた部屋に入る。

「服はたくさん用意してあるから、着たいと思ったものを選べばいい」

 言いながら兄さんが足を止めたのは、何も置かれていない壁の手前だった。その壁には把手がついていて、クローゼットとなっている。兄さんが開けると中は意外に広く、小規模なブティックを開けそうな空間が広がっていた。思わず目を疑う。

「兄さん。ぼくにこれを着ろと?」

 ハンガーに吊るされ、整然と並んでいる恐らく新品の服。しかしパーカー、Tシャツ、ジーンズといったぼくがよく着る服は見当たらない。どこか空想的なほどにフェミニンなものばかりだ。むくろちゃんのような美少女が着ればとても絵になるだろう。

「愛織はこういう服が嫌いか?」

「嫌いってわけじゃないけど……似合わないよ。それに」

「愛織にこんな服は似合わない。もっと動きやすく、汚れが目立たない実用的な服を選べ。ずっと俺がそう言ってきたからな」

「…………」

「ごめんな、愛織」

 不意に兄さんはぼくの頭を引き寄せ、撫で回した。

「女の子ならもっとお洒落を楽しみたかっただろ。今まではお前に悪い虫がつかないようにと、俺の我が儘で少年のような服ばかり着せてきた。でも、もういいんだ。今までの分、好きなだけこういう服を着ればいい。ここでなら化粧品も揃ってるし、化粧の仕方を教える人間も用意してやれる」

「もういい、って……それどういう――」

 見上げた先の兄さんは相変わらず笑っていない。ぼくは仕方なく用意されていた服の中でも比較的落ち着いたデザインの服を選んで着た。白いフリルブラウス、茶色のシフォンレースがついた深い赤色のロングスカート、レースが一番少なめの白い靴下。

「…………うわあ」

 鏡に映った自分の第一印象、服に着られている。

「よく似合ってるよ」

「本当に?」

「ああ。可愛い、愛織」

「そう……。ありがとう、兄さん」

 乱れていたぼくの三つ編みを丁寧に結び直し、兄さんはぼくの頬にキスをした。それから二人並んでベッドに座る。いい加減訊かないといけない。

「ねえ、兄さん。お願い。間違ってたら謝るから否定して、正直に答えて」

 ぼくは両手で兄さんの腕を強く掴んだ。

「一年四組のクラスメイトを皆殺しにしたのも、柩木組を襲撃したのも、土竜さんの右脚を切断したのも、土竜さんを除く《クルーエル》六階の住人を殺したのも――」

「全部俺が指示したことだ」

 兄さんはごく自然に、まるで当たり前のように答えた。

「それで《猫の事務所》を使ったの?」

「お前が察した通り、殺人を実行したのはメインクーンだ。ただ、そのために情報操作したのはコラット、柩木組の屋敷を無関係な人間に襲撃させたのはオシキャット、他の奴らを運んだのはウェジー、全体を指揮したのはシャムだけどな」

「シャム……オシキャット……メインクーン……コラット……ウェジー……」

「懐かしいだろ。お前が創ったんだ」

「違う。違うよ。ウェジーの人にも車の中で言われたけど、その《猫の事務所》はぼくが創ったものとは別の存在じゃないか。ぼくが創った《猫の事務所》は、ただの小説に出てくる架空の組織なんだから」

 

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