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51 誘拐

 ぼくが八雲さんのもとに訪れたとき、すでに土竜さんは手術を終えて一室のベッドにいた。何の縁か、夏休みにぼくが使ったときと同じ部屋だ。脚を切断された人がどんな手術を受けるのかはわからないが、それでも八雲さんの治療はかなりの早業なのではないだろうか。今は布団で覆われていて見えないが、きっと土竜さんの切断された右脚には白い包帯が巻かれているのだろう。

「土竜さん。持ってきましたよ」

「ああ、ありがとな」

「ところで勝手に持ってきてしまったんですけど……」

 部屋のテーブルにドラムバッグを置いて、ぼくはICレコーダーと折り畳んだメモ用紙を取り出した。土竜さんのすぐ目の前に持っていく。

「玄関の靴箱にあったこれはなんですか?」

「…………知らん。出るときは気づかんかったのう。そんなんがうちの玄関にあったんか」

「はい。ちょっと気になって持ってきました。《猫の事務所》よりって書いてありますけど、どういう意味なんですかね」

「宮沢賢治の童話だろう」

 そう言ったのは大きな鏡を持ち、部屋に入ってきた八雲さんだった。

「八雲さん、その鏡は……」

「そこの馬鹿がきっとこれから幻肢痛に苦しむだろうからね。いい気味だけど、暴れられたり騒がれたりするのは迷惑だから準備してるんだよ。愛織は幻肢痛、知ってる? 英語だとファントムペインって言うんだけど」

「手足を切断した人の多くが経験する症状ですよね。あるはずのない場所が痛むっていう」

「そう。あれには痛み止めや麻酔が効かないからね。鏡療法くらいしか使えないんだ」

 鏡を壁に立てかけ、八雲さんはぼくの持つICレコーダーを指差した。

「ところでそれは何? 土竜の部屋にあった盗聴器かい」

「多分違うと思いますよ。靴箱の裏ならともかく、靴箱の上にそのまま置かれてましたから。ただ……土竜さんも知らないんだったら、もしかしたら土竜さんを襲った人達が置いていった可能性もあるんじゃないかなって」

「とりあえず再生してみたらええじゃろ」

「わかりました」

 操作してみると、このICレコーダーに録音されているのは一つの音源だけらしい。ぼくが再生のボタンを押した途端――耳を裂くような悲鳴が部屋中に響き渡った。あまりにも大きな音に手が滑り、ICレコーダーが土竜さんの膝辺りに落ちる。

『あああああああああっ! いっ、ぎ……やあああっ! いだ、いたっ、い! あ! ああっ! ああああああああああああ!!』

 中性的な、少年のものにも少女のものにも聞こえる子供の声。叫び過ぎて噎せたらしく何度か咳き込む。そして、また泣きながら震えた声を出した。

『ひぅ、う、うあ……やだ、やだやだ、痛い。もっ、もう無理、無理だよ。や、やめて……や、あ、がああっ……痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!』

 なんだ、この音声は。

 虐待をされているのかリンチを受けているのか――とにかく暴行を受けていることはわかる。そういう悪趣味な映像を好む性的倒錯者も世の中にはいるだろう。この音声はそのような映像から抜き取ったものなのだろうか。

 それにしても、この声。

 どこかで聞いたことがあるような気がする。だが、声の主に心当たりはない。一体誰なのだろう。なかなか終わらない痛々しい声に気を取られていると、いつの間にか土竜さんも八雲さんもぼくを見つめていた。二人とも目が見開いていて、表情が妙に強張っている。

「何か心当たり、あるんですか?」

 ぼくがそう訊ねると二人が視線をちらっと交わし合い、同時に口を開いた。

「これ、お前の声?」

『もうやめて兄さん』

 八雲さんと土竜さんの声と、ICレコーダーの音声が重なった。

「え……?」

 ずん、と下腹に重い何かが落ちてきたような感覚。部屋に満ちている沈黙。胸の中から自分の鼓動が大きく聞こえる。目の前の二人は、ICレコーダーの音声は何と言っていた。

 これ、お前の声?

 もうやめて兄さん。

 兄さん。

 兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。

「――――あっ。……あ、ああああ、あああああああああああああああああああああっ!」

 喉が張り裂けるのはないかと思うくらいの大声が飛び出す。震える脚で後退りをすると、ごん、と壁に背中と後頭部をぶつけてしまった。目は白い布団の上にあるICレコーダーから移動して、ベッド脇のテーブルに置いたメモ用紙に向かう。

《猫の事務所》。

 まさか、あれは。

「う、あ、はっ、あああ……っ!」

「愛織?」

「どうしたんじゃ」

 八雲さんと土竜さんが心配そうに声をかけてくる。息苦しくて返事ができない。足元がぐらぐらとして、崩れかけの積み木に立っているみたいだ。荒い呼吸が治まらず、頭が霞でもかかったかのようにぼーっとして、眩暈がする。震える両手を壁に当て、開いたままの扉まで辿り着くのにかなり時間がかかった。

「それ……お前、過呼吸になってるんじゃないのか」

 そう言って手を伸ばしてきた八雲さんに背を向け、ぼくは部屋を飛び出した。何度か壁にぶつかり、足を縺れさせながら走り、胸がずきずきと痛み出した頃には《クルーエル》まで戻っていた。そこで見た光景にぼくの意識は遠のきかけ、何とか持ち堪える。

「なんだよ、これ」

 白と黒、赤いランプが特徴的なパトカーが停まっている。大勢の人が集まり、警察が《クルーエル》の敷地内を出入りしていた。潮騒のような人々のざわめきは少し離れたところでも肌に感じる。その中のいくつかがぼくの耳に入ってきた。

「殺された人、全員六階に住んでたんだって」

「五体がばらばらに切断されてたって本当かよ。えげつねえ」

「六階住人が全員?」

「いや、六〇五号室と六○六号室は鍵がかかってて留守だったみたい。死体がないなら多分生きてるんじゃないのかな」

「六〇一号室、六〇二号室、六〇三号室の扉は開けっ放しだったらしいよ」

「ん? 六〇四号室は?」

「そこは元々空き部屋」

「最近は揺籃町も殺人事件多いよな。杏落高校では三十一人も殺されたっていうし」

 またしてもぼくの身近な人が減った。

 いつの間にか過呼吸のような症状は治まっていた。目を閉じて思い切り深呼吸すると冷たい空気で鼻がつんと痛む。

「六〇一号室――不来方こずかた洋文ひろふみさん、不来方和歌(わか)さん。六〇二号室――國森親道くにもりちかみちさん。六〇三号室――媚山こびやまにじさん。《クルーエル》六階の住人、四名が殺されました」

 確認するように呟いて目を開けると、そこに一人の警察官が立っていた。シューティンググラス、何本もの予備の弾倉、オートマチック拳銃、リボルバー。見間違えるはずもない、トリガーハッピーポリスだ。顔だけを見ると真面目そうで比較的平凡な警察官。グラス越しにぼくをじっと見つめていたかと思うと、口を開く。

「《クルーエル》六〇六号室の哀逆さんですね」

「はい」

「日曜日には通っている高校のクラスメイトが全員殺害され、木曜日にはそれとなく交流のあった柩木組が襲撃され、そして今日は同じ階の住人五名のうち四名が殺害されたのですね。哀逆さん、あなたはもう気づいているのではないですか?」

「何がですか」

「あなたの周りで多くの人が襲われているということに」

「………………」

「本官は今まで杏落市で様々な犯罪者やその被害者を見てきました。しかし、哀逆さんのような方は初めてです。一応今後もここで生活すること自体はできるでしょうが、きっと周囲の人間はあなたを怖がりますよ。直接手を下した犯人よりも」

 がつん、と頭を殴られたかと思った。しかしそれは錯覚だった。トリガーハッピーポリスが右手にオートマチック拳銃を持ち、銃口をこちらに向けている。今の衝撃にも似た音はこの銃声だったらしい。首だけで振り返ると、二十メートルほど離れた先にある電柱が視界に入った。電柱のすぐ傍で男が右手を押えている。足元に転がっているのは今トリガーハッピーポリスが持っているものとよく似た拳銃だ。あれを撃ったのか。一般人の真横を撃ち抜くとはやはりこの人、堅気とは思えない。

「あの男は被害者、媚山虹美の数多くいる交際相手の一人だったそうです」

 言いながらトリガーハッピーポリスは狂気的な笑みを浮かべていた。左手にリボルバーを持ち、ぼくの後ろから二丁の拳銃を連射する。一発目で男が拾い上げようとした拳銃が弾き飛ばされ、続けて男の足元に穴がいくつも空いた。男が慌てて逃げていくとトリガーハッピーポリスは銃弾を補充し、拳銃をホルスターに戻す。一連の動作は素早く無駄がない。

「見たところ彼はあなたに恨みの矛先を向けていますね。一年四組の生徒が殺害されたときの遺族と同様です。これから先、ますますこんなことが起きるでしょう」

「……わかって、ます」

「だからあなたはもう、どこかへ行ってしまった方がいいんじゃないですか?」

 びゅう、と冷たい突風が吹いた。ぼくの三つ編みが揺れ、トリガーハッピーポリスは飛ばされかけた制帽の鍔を掴む。その後同僚に呼ばれ、彼は何事もなかったかのように平然とぼくの前から立ち去った。

 どこかへ行ってしまった方がいい、か。

「…………っ、は」

 まさか日本唯一の犯罪都市でそんなことを言われるだなんて、思ってもみなかった。だが確かにその通りだ。あのICレコーダーの音声とメモ用紙に書かれた文字。あれで、全てわかった。もしも今ぼくの頭に浮かんでいる考えが正解なのだとしたら、ぼくは一刻も早くどこかへ行ってしまった方がいいのだろう。

 ぼくの足は自然と《クルーエル》から離れていった。歩きながら携帯端末を取り出そうとしたところで、八雲さんのもとに置き忘れたことに気づく。しかしあれほどうるさく騒いで迷惑をかけてしまった手前、どんな顔をして取りに戻ればいいんだ。仕方ない。よだかさんに連絡を取るつもりだったが諦めよう。

「いっそ今度は外国の犯罪都市にでも行ってみようかな。でも英語話せないから無理か。そもそもパスポート作るのってお金がかかるんだっけ」

 黙っていると気が変になってしまいそうだ。ぼくは適当なことをぶつぶつ喋りながら歩き続ける。通行人に不審者扱いされようがどうでもいい。

「あ……そう言えば買い物に出かける予定だったんだよな、ぼく」

 携帯端末は置き忘れたが財布はある。商店街に向かおうとしたとき、不意に黒いワンボックスカーが二台、ものすごいスピードでこちらに向かっているのに気づいた。ぼくの左右に急停車した次の瞬間、ぼくの身体は絡め取られるように一台の中に吸い込まれていた。反応する暇を、全く与えられなかった。車はもう走り出している。

「……………………え、っと」

 ワンボックスカーの中は運転席と助手席以外、座席らしい場所は平らなマットレスのようになっていた。ぼくはそこで四人の男に四肢を掴まれ、仰向けに押さえつけられている。運転席と助手席にいる二人は見えないが、ぼくを拘束する男達は全員二十代から三十代くらいだ。それぞれ黒いスーツを着ている者、黒いマフラーを巻いている者、黒いマスクをつけている者、黒いサングラスをかけている者、と何かしら黒い何かを身につけている。

「ああ……」

 すとんと腑に落ちる感覚があった。誘拐。拉致。そんな物騒な言葉が脳裏に浮かんだが、それと同時にひどく懐かしいような気分になった。

「《猫の事務所》のウェジー、ですね。あなた達は」

「手荒な真似をして申し訳ありません。そのまま騒がず大人しくしていてください」

 恐らく四人の中で最も年長らしい黒スーツの男が言った。

「無理に抵抗されると、気絶させる必要がありますので。私達は可能な限りあなたを傷つけるわけにはいかないんです。あなたは私達が生まれるきっかけとなった――謂わば、お母様のような人ですから」

「嘘だ」

 ぼくの口から飛び出た一言に、四人ともがぴくりと反応する。

「ぼくを傷つけるわけにはいかない本当の理由は、ぼくが妹だからでしょう……あの人の」

 すると黒スーツの男は軽く目を伏せてから頷いた。改めてぼくを真っ直ぐ見下ろした彼の瞳は、よく見ると泥のように濁って澱んでいる。

「ええ、その通りです。人を傷つけるのは専門外ですが、許可されているなら今頃あなたの手足を圧し折っているくらい――私達はあなたのことが大嫌いですよ」

 ワンボックスカーは一時間ほど走り続けた。男達が正確な時間を告げることはなかったから、これはあくまでぼくの体感的な時間なのだが。

「到着しました。しばし目隠しをさせていただきますね」

 どうせ拒否権なんてないのだろう。ぼくが瞼を下ろすと、サテンのような肌触りの布が目に巻かれた。てっきり手を引かれて歩かされるのかと思っていたが、誰かがぼくを横抱きにして担ぎ上げる。そのまま車から出たらしく、ひやりとした外気を感じる。ここはどこだ。人のざわめきは聞こえないが、靴音が反響している。地下の駐車場かもしれない。やがてピアノの鍵盤を一つだけ叩いたような機械音が聞こえた。この上に引っ張られていくような浮遊感、エレベーターに乗っているのか。気が遠くなりそうなほど長時間上り続けるような感覚があったが、やがてアナウンスが鳴った。

『五十階です』

 おい嘘だろ、と思わず声に出してしまうところだった。

 どうやらここはとんでもない高層の建物らしい。ビルかマンションかわからないが、五十階もあるような建物は杏落市になかったはずだ。もう杏落市の外なのだろう。エレベーターから出て、少し歩き、扉を開く音がした。ちょうどいい暖房が効いている室内だ。かすかにハーブのような香りがする。ぼくはふかふかとした椅子らしきものに座らされ、男達の気配が部屋から出ていった。初めから部屋にいたのだろう一人の気配が近づいてくる。心臓の音がどくんどくんと太鼓を鳴らしているようにうるさい。

 相手の両手がぼくの頬に触れ、思わずびくりと肩が跳ねた。成人、男性の手。輪郭をなぞるようにゆっくり指先で撫でられる。しばらくして相手は目隠しの布を解き、取り払った。ぼくは瞼を持ち上げる。深い鳶色の艶やかな髪。目はやや切れ長で鋭く据わった印象がある。左目の下で横向きに並んだ二つの黒子が特徴的な顔は凛々しく、精悍に整っている。黒いシャツ、臙脂色のネクタイ、スレートグレイのスーツ、黒の革靴姿は仕事着だろう。よだかさんとは違う正統派の美貌。

 哀逆愛識(いとしき)

 ぼくの兄さんが、そこにいた。

「に……い、さ」

「愛織」

 ふ、と優しく微笑む兄さんの顔が近づいた――かと思えばキスされた。

 随分久しぶりにキスした兄さんの唇は相変わらず心地よかった。

 

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